見出し画像

粗探し 泣いて無防備 生け贄 言論の自由は罠 エセ団結 神は人にできる事だけ要求する

1、粗探しの思考停止
前に、人間は一つの事しかできないと書いた。
マスコミが変なのは、他人の粗探しばかりするからだ。粗探しをすると、粗探し以外ができなくなる。思考停止になる。

神を信じたら、聖書に書かれている事柄を全てできるようになる。

マスコミは、何でもできると錯覚しているけど、実際は粗探しをしているだけである。
あと、学生時代は勉強しかしていなかった。色んな勉強ができているから、数学、国語、社会などを色々とできていると思っているみたいだけど、実際は勉強しかできない。
体系的に用意された勉強しかできない。
会社や省庁が面接で学生時代に打ち込んだ事を聞くのは、マルチタスクできるかどうかを聞いている。
勉強と趣味とボランティアなど、全く別のジャンルをを並行してできる能力があるかどうかを聞いている。

2、顔出し
サタン側にとって表の操り人形なんかいくらでも居るのだから、顔出しをしてるからといって信用するのは危険である。
最初に顔出しをする前に偽物と入れ替わっている危険性もある。

3、泣いて無防備
被害に遭ってから泣く奴は、泣けば赦されると思っているから、無防備になって被害に遭う。
子供が被害に遭って泣く親は、泣けば赦されると思っているから、警戒心がなくて、子供を野放しにしたり、犯罪者の下へ送って被害に遭う。
事件や事故が発生してから泣くような奴は、全く警戒心を養おうとしないから、被害に遭うべくして遭う。
泣くような奴と結婚すると、話し合いが通じなくて、泣けば赦されると思い違いをして、何の勉強もしなくなる。
具体的にどんな予防策を講じるのか聞いても、泣くだけで何もしない。
被害を免罪符と思い違いをしている。

泣けば赦されると思っているのと似たようなのは、怒れば赦される、あざ笑えば赦される、すっとぼければ赦される、相手の犯罪をあげつらえば赦される、など色々とある。

4、工作員
被害者の会とか言っているけど、勝手に自滅しているなら加害者側の工作員ではないのだろうか。
こんな奴らのスポンサーになる企業は、同じ犯罪者だ。
反省している者の態度ではない。

5、信者の赦し方
聖書的に信者が被害者と加害者なら、どうするのか。
両方が信者なら、赦し謝罪する。
加害者が信者なら、謝罪するけど、赦される必要はない。
被害者が信者なら、赦すけど、会わない。
両方が非信者なら、聖書には対処法は書かれていないから判らないので自分勝手に好きな事をすればいい。
非信者は自分の価値観を明文化しないし、明文化してもコロコロ変えるから、明文化をする意味と方法がない。
非信者は一人一人で赦す条件が違うから、イチイチ相手していられない。

信者なら、聖書に基づいて決めるから、明文化されている、コロコロ変わらない、一人一人で条件が違う事もない。

毒親も似たように、身勝手なルールを作ってくる。気に入らないとダンマリで受動攻撃してくる。だから、毒親が神に立ち帰るまで挨拶しないし受け入れない事にした。
俺も毒親の加害は赦したけど、神に立ち帰るまで受け入れないし挨拶しない。

6、生け贄 
昔は毒親が子供を物理的に生け贄にして炎の中へ投げ込む。
サタン側は、子供が神の信者の候補だったら、信者が居なくなって、神が怒って、義人(信者)が居なくなったソドムとゴモラのように、この世を滅ぼして、サタン側を地獄へ落として焼き続けるか魂を消す事に気が付いた。
そこで、生け贄だけを禁止にするために、憲法や人権をでっち上げて、生け贄にできないようにした。
多分、イエス・キリストが復活する前の神のルールだと、子供を生け贄にしても、最後の裁きが前倒しになる事はなかったから、サタン側が子供を生け贄にし続けたのだろう。

生け贄だけを禁止にしたから、子供を食い物にする毒親は助長する。

7、言論の自由は罠
真面目な人は、批判する時に、自分に批判する資格があるほど善人かどうかを悩むから批判しなくなる。
自己中な奴らほど、自分を棚に上げて身勝手な批判をする。マスコミとか、偏向報道で人々を薬害で殺している癖に正義面する。
自己中な奴らを増長させるために、サタン側が言論の自由を作った。
神の信者なら、言論の自由が有ろうが無かろうが背教者を糾弾する。糾弾が原因で迫害されて殺されても、殉教になるから天国へ入れるため喜びとなる。

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

ヨハネによる福音書 8:32 (新共同訳)

本当の自由は神の信者だけにあるのは、これが理由である。

8、目の見えない案内人
目の見えない案内人のファリサイ派を妄信する人々が多い。

ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

マタイ福音書 23章26節 新共同訳

今の日本人は、自分が判っていないのに、判る人を見分けられるのか。
自分が天国へ入れるかどうか判らないのに、天国へ入れる人を見分けられるのだろうか。
俺も自分が天国へ入れるかどうか判らないけど、神に依り頼めば入れると聖書にあるから、神に依り頼む。

マタイによる福音書 21:21 (新共同訳)
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
ヤコブの手紙 1:6 (新共同訳)
いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。

神を信じて、神の掟を守れば天国へ入れる。

死後に天国へ入るが地獄へ落ちるか決まるのに、一度も死んだ事のない無神論者の言葉を妄信する人が多い。
神の信者の言葉なら、従えば天国へ入れるだろう。ただし、俺の解釈では、自分の道を歩む描写が聖書に多いから、最後は自分で聖書を読んで自分で解釈する必要があると思っている。

9、エセ団結
利害を超えた団結ができるのは、天の主の信者同士だけ。
非信者同士は、同調圧力・金・弱み・世間体などで団結している演技をやっているだけ。
非信者同士は、常に利害で対立して、競争と利権争いをするから、精神的に病んでしまう。

10、できる事
助けるではなく、愛する。

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。

ヨハネの手紙一 4:20 (新共同訳)

目に見える兄弟を愛するなら、目に見えない神を愛する事ができる。
「目に見える兄弟を助ける」ではなくて「目に見える兄弟を愛する」というのが重要である。
助けられるかどうかは能力によるものだけど、愛するかどうかは「やる気」によるものだから、誰でもできる。
神は誰でもできる事しか要求しない。
神は本人ができる事しか要求しない。
だから、極貧・発達障害・知的障害が原因で他人を愛する事ができない人は、無条件で天国へ入れる。
貧者ラザロも、神を信じている描写がなくても無条件で天国へ入れた。

疑わないで信じるのは誰でもできる事だから、神は信じて掟を守る事を求める。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?