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民主国家で不正を正すには、再発防止の法律を作るしかない。怒りを飲み、報復せず、手順を踏む。

ちょっとした補足をする。
前回に書いた、今でも自滅行為をしている人を見殺しにするというのは、不正を叩いて犯罪者を潰したり殺したりする行為は、暴走しすぎて自滅する人に対して言っている事だ。
こういう不正をする犯罪者を潰したり殺したりしたところで、別の犯罪者が「利権が空いたから貪ってやろう、自分なら上手く誤魔化せる」という結果にしかならない。
だから、民主国家では、不正を正すには、怒りを抑えて、報復をしないで、手順を踏み、議員に働きかけたり、広く国民に周知したり、再発防止の法律を作る必要がある。
実際、怒りに任せて暴走するような人たちは、どうすればまともになるかわからないから、見殺しにするしかない。こういう人たちは、正義中毒にかかっていて、自制心を失っているからだ。
他人の不正を糾弾する場合は、人生と財産を全て投じて、自分と他人の不正を全て糾弾する義務が発生する。たいていの人が他人の不正を糾弾しないのは、こういう義務が発生するのが判っているからだ。
もし、自分の不正を反省しないと保身の性根腐れと叩かれる。他人の不正も相手をえり好みしたら、腰抜けか依怙贔屓の党派性のゴミムシ野郎と叩かれる。だから、他人の不正を糾弾するのは覚悟が必要になる。
不正を糾弾する相手を選ぶ権利はなくなる。一度でも他人の不正を糾弾すると、人生を財産を全て投じて、永遠に自分と他人のあらゆる不正を糾弾し続けないといけない義務が発生する。
それが判らずに軽々しく不正を叩く人は、こういう義務が判ってない頭の悪さか、暇人か、愉快犯か、性根が腐っているか、正義中毒で暴走しているか、いずれかだろう。
こういう軽々しく不正を叩く自滅行為の人たちに対して、どうしたものかと思っている。見殺しにするぐらいしか方法がない。どうやれば治るんだか。どうすりゃええねん、という心理状態に自分はなっている。
自分が他人に警告するのは、天の主が聖書で警告しなさいと命令しているから、警告するのである。本来の自分の性格は、他人の自滅行為を見殺しにして、見ものにするような性格をしている。
天の主が警告しなさいと命令するから、聖書に関係することは警告する。聖書に関係ないこと関係が薄いことだと、どうすりゃええねんとなる。あまりに自滅行為をする人数が多すぎるから、イチイチ世話をしてられない。
本来の自分がしない行動でも、天の主が聖書を通じて命じるから行動する。

不正を糾弾するのは良いことだから、それはやりたければやればいい。だけど、覚悟は必要だ。続けたければ続ければいい、しかし、覚悟が必要だ。

他人の不正を糾弾するので難しいことは色々あるけど、一番に難しいのは、正義中毒で暴走しないように自制心を保ち続ける事だ。一種の麻薬中毒だから、ほとんど不可能に近いけどね。

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