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謝罪 金持ち責任 金無く奢る 怒りは依存したい 背教者は家畜の末路 悪人同士の対立

1、金持ちの責任
ギャンブルで大金を盗まれる金持ちの責任。

金を持つ者は、その金額に見合った責任が求められる。

それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

マタイ福音書 25章15節から18節 新共同訳

5タラント2タラントの人は、それぞれの能力に応じて利殖した。
しかし、1タラントの人は、何も増やさないから主人に叱られて、没収された。

世間が自分たちで善し悪しを決めてはならない。

ラバンとベトエルは答えた。 「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。

創世記 24:50 (新共同訳)

善し悪しを人間が勝手に決めてはいけない。
神や聖書に尋ね求めないで、人間が良し悪しを決めるのは、何かしらの悪い結果を招く。
世間が金を汚いモノと決め付けて、金を使わない人を清潔な人だというストーリーに酔いしれて、結局は悪人に盗まれて悪用される失態を招く。
その悪人が盗んだ大金で武器を買って大勢の人を殺したら、どう責任を取るつもりだろうか。金に興味が無いでは赦されない。
他人の命なんかどうでもいいと思っている人間は、この危険性を全く理解できない。
世間や本人が勝手に事の良し悪しを決めると、こういう結果になる。
誰が悪いのか徹底的に遡求しないで、悪役を押し付けられそうな人間に押し付けたり、弱者にシワ寄せする事しか頭にないから、物事を考えられないのである。
自分たちで善し悪しを決める利権を楽しむようでは、神が怒って地獄へ落とす。
自分勝手な善悪感をやめて、反省して、神に謝罪して、神に立ち帰れば、神は赦してくれる。
自分勝手な悪役の押し付けをしていないで、誰が悪いのかキチンと考えた方がいい。
自分が100悪いのに、1悪い人間が居たら、全責任を1悪い人間に擦り付ける。
どう考えても、金に興味のないストーリーに酔いしれていた大衆が悪い。
金に興味がないのがいいと言って何の叱責もしないで無防備にしたのだから。
他人が無防備になるように思考誘導したのだから、責任がある。
他人に管理意識を付けさせないのだから、責任がある。
自分勝手に弱者にシワ寄せをしていないで、誰が責任を取るべきなのかキチンと考えた方がいい。
自分勝手に良し悪しを決める事に対して警告はしたから、こういう本当の事を言われて逆上するようなら、そこまでだ。

主に尋ね求めないで、自分たちで勝手に決めると天罰が下る。

男たちは彼らの食糧を受け取ったが、主の指示を求めなかった。

ヨシュア記 9章14節 新居同薬

この後、ギブオン人というカナンの先住民が罠となった。
ただ、ギブオン人は賢く立ち回ったと書いているから、神に立ち帰るチャンスを手に入れたのだろう。
本来なら背教者は皆殺しにされるはずだけど、神を乞い求めれば赦されて、天国へ入るチャンスを得られるのだろう。
神は慈しみの神だから、乞い求める者に優しい。
神を知らない時代のカナンのギブオンの住民も、反省して神に立ち帰れば赦される。
神を知らない時の罪は、反省したら赦される証拠でもある。反省した後に、二度と神に対する罪を犯さなければ天国へ入れる。

選民だろうと神に従わなければ天罰が下る。
背教者だろうと神を乞い求めれば赦される。

聖書を読む事が主に尋ね求める行為である。
物事をどのように決めたらいいのか、聖書を読んで、聖書の内容と照らし合わせて判断するのが「主に尋ね求める行為」である。

2、盗んだ金
年収の何十倍もギャンブルに使っているのだから、どう考えても盗んでいるのが判る。
盗んだ金なのが判っているギャンブルの胴元も確実に悪人である。
その悪人に大金が流れるような状況にしていた。
悪人たちが盗めるよう無防備な状態を「金に興味が無くて素晴らしい」なんて言っているのだから、注意しなかった方も悪い。
俺は、あんまり興味なかったけど、何となくいいと思っていたから、そこは俺も悪いから謝罪しておく。申し訳ありませんでした。
悪いから、これからは、キチンと叱っていく。

3、論点
金持ちが共犯者なんていう、どうでもいい論点に世論が湧きたっていたけど、本当は共犯者ではないのが判っていて、論点をズラすために大げさに共犯者だと喚いていたのではないか。
こすい連中は、こういう論点をズラしたり、矛先を逸らしをする。
どうやって世論を操作しようか計画してから、一斉にスクープを出したのだろう。
本当の論点・問題点は、大金を悪人が利用できる状況にしていた無責任な危機管理意識の欠落しているところだ。
アメリカでは、銃をむき出して置いていたら、法律で管理責任を問われるから、倉庫にしまってカギを掛ける。

4、無責任の末路
数万人の他人が死んでも、自分に責任が及ばなければ、どうでもいいと思っている連中では、管理責任の概念は理解できないだろう。
こういう奴らに対しては、「コイツ自分が責任を問われなくて逃げ切れるなら、他人が殺されてもいいのか」という人命無視の人格だと判断する。
そういう管理責任の無い人間同士で馴れ合っていると、互いに命を守らなくなって、今回の8割が予防接種の薬害みたいになる。
こういう管理責任の無い人間を当てにしていると、自分の命が危険に晒されるから、付き合わない方がいい。
自分の無責任な考え方も改めた方がいい。そういう無責任な自分自身が最も当てにならない。
自分自身が無責任だと、無責任な人間しか集まってこないから、無責任な判断で流されて、薬害の予防接種をするハメになる。類は友を呼ぶから、無責任な自分の生き方を止めた方が、自分の命を守る事に繋がる。
自分の命だけ助かれば良いと思っていると、自分の命が助からなくなる。
周りが無責任な人間しか居ないから、薬害の危険性を注意喚起してくれる人が居なくて、危険を回避するヒントやチャンスが得られない。
自分自身が無責任だと、無責任な人間の言葉しか頭に入らなくなる。責任感のある人の発言が厳しいと感じてしまい、受け入れられなくなる。実際は、大して厳しくもない発言なのだけど、厳しいと思ってしまう。

管理人がスケープゴート役として存在する商売があるらしい。
責任を取ってやり玉にされるためだけの存在だから、トラブルを防ぐ能力がない。タダのガス抜き要員である。
責任者が存在するからといって、信じてはいけない。
今回の薬害も責任者のように見せかけたデマ大臣が存在していた。

5、慈善事業
金を慈善事業に使う様に神が言うのは、金が邪魔になるからだろう。

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

マルコ福音書 10章21節22節 新共同訳

生まれ付き恵まれたモノを慈善事業に使うだけでいいのだから、恵まれている事が判っていない。

6、怒りと依存
怒るのは依存しているから。
神は激怒するけど、それは人々を幸せにしたいからだ。
人を幸せにする能力もないのに怒る人間は、いったい、どう責任を取れるのだろうか。

怒るのは支配したいから。
人を幸せにする能力がないのに怒って支配しようとする。
神は人を永遠に幸せにする能力が有るから、人に対して怒っている。
人は神に似せて創られたから、中途半端に神の真似をする人間は怒る。
真似をするにしても、必要な要素が無いなら、真似をしてはいけない。
例えるなら、金が無いのに奢るようなモノだろうか。この例えだと、料理は食べられるから違うか。空約束だろう。

俺も薬害で虐殺する連中に対して、怒りがなかなか収まらなかった。これからは怒りに気を付けて、警告だけして、後は無視する。

7、家畜に例える理由
背教者は家畜みたいに「と殺」されると聖書にある。

たちまち、彼は女に従った。
まるで、屠り場に行く雄牛だ。
足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。

箴言 8章22節 新共同訳

人妻と不倫をする男は「と殺」される家畜と表現される。

主よ、あなたはわたしをご存じです。 わたしを見て、あなたに対するわたしの心を 究められたはずです。 彼らを屠られる羊として引き出し 殺戮の日のために取り分けてください。

エレミヤ書 12:3 (新共同訳)

背教者のバビロンを家畜みたいに屠ると表現される。

あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、

ヤコブの手紙 5:5 (新共同訳)

聖書で背教者を家畜みたいに「と殺」すると書かれるのは、それが人間にとって最も心から理解しやすい例えだからだろう。
どんな時代でも、どんな国でも、家畜は存在するから、家畜みたいに殺されると言えば、天の主に従わないと死後どうなるか誰でも判るからだ。
家畜の飼育はどんな時代でも見られるから、例えとして判りやすい。

神の掟に背くと、地獄へ落ちると書いてある。

彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る。

箴言 7章27節 新共同訳

彼女とは、この7章で人妻が不倫相手を探すという話。
人妻の誘惑に乗った男は地獄へ落ちる。
例え話だから、人妻とは悪魔崇拝者の例えであり、不倫相手を探すと言うのは、悪魔崇拝へ誘惑するという意味だろう。
「死の部屋」とは地獄での責め苦である。永遠に焼かれたり、鎌で刈り取られたり、搾り桶に入れられて踏み付けられる。

そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。
搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。

ヨハネ黙示録 14章19節20節 新共同訳

背教者は家畜みたいに「と殺」やブドウみたいに殺処分される。
背教者は家畜の末路になる。

背教者の末路は上のようなものだけど、神に立ち帰った信者は人間として扱われて天使のようなモノとなって永遠の命と幸せが手に入る。

マタイによる福音書 22:30 (新共同訳)
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
マルコによる福音書 12:25 (新共同訳)
死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

マタイによる福音書 25:46 (新共同訳)
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
ヨハネによる福音書 6:47 (新共同訳)
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
ヨハネによる福音書 12:25 (新共同訳)
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

神がどうして家畜を例えに使うのか、考える必要がある。

家畜の例えが気に入らないという理由で神に立ち帰らないなら、神も同じようにそういう人間が気に入らないから天国へ入国させない。
裁くように裁かれる。

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

マタイによる福音書 7:2 (新共同訳)

人間の自己中な価値観で気に入らないから受け入れないと決めるなら、神も同じようにそういう自己中な人間を気に入らないから天国へ入国させない。

人間が自分の価値観や気分で決めるなら、神も神自身の価値観や気分で決めるから、自己中な人間を天国へ入国させない。

天国は神の私有地なのだから、神の私有地に入るのに、神が決めたルールを守らない奴を入れさせない。
「ケチケチするな」とか言う奴は、地獄へ落ちる。他の人間も居るのだから、他の人間の迷惑になる奴は地獄へ落とす。
「優しくない」とか言う奴は、神が何万回何億回も赦し続けたのに、まだ赦せと言うのか。無限のわがままを叶える事はできない。他の人も天国に居るのだから、無限の自己中を受け入れると、掟を守る他の人が損をするだけだから受け入れない。

8、偽装キリスト教団
日本人に家畜みたいな表現だと受けが悪いから、偽装キリスト教団は表現を避けるのだろう。
俺は家畜みたいに「と殺」されるのが嫌だから、神に立ち帰ろうと努力している。
偽装キリスト教団は、家畜の例えを言うと本当に神に立ち帰る人間が出てくるから、家畜の例えを言わないのだろう。
偽装キリスト教団はサタンの手下だから、人々を地獄へ道連れにするのが目的のため、神に立ち帰る気が起きるような表現をしない。
神に立ち帰らないでサタン社会に執着するのは、家畜小屋でボス争いや踏みつぶされたりするのと同じ感じになるのが判る。
せっかく神が「家畜で表現する」という「人間に理解しやすい話し方」をしてくれているのだから、理解すべきである。
非信者は聖書が判り辛いのではなくて、受け入れるのが嫌なだけだろう。自分の気分や価値観で、聖書が気に入らないから、受け入れるのが嫌なだけだろう。

多分、悪魔崇拝の天皇や偽装キリスト教団が日本で偽装キリスト教を布教させなかったのは、日本人がこういう性根だから、そのままの方が神に立ち帰らなくて、地獄へ道連れにしやすいからなのだろう。

2000年前に日本人はイエス・キリストへ立ち帰ったけど、すぐ神道へ逃げたから、天の主を忘れた。
しかし、家畜のたとえは無意識に残って不安になるから、その現実の不安から逃げたくて、家畜について意識的に汚いモノだと思い込んでしまう。
現実から目を逸らす悪い癖は、やめた方がいい。

9、道連れ
悪人が犯罪をしているから自分も犯罪をするというなら、悪人と一緒に地獄へ落ちて焼かれ続けるか魂を消される。

10、サタン側が嫌う人間
サタン側は、人々を地獄へ道連れにするのが目的だから、自己中・傲慢・現実逃避をするように洗脳する。
しかし、サタン側は、そういう自己中・傲慢・現実逃避をする人間が嫌いである。
嫌いだから今回の薬害みたいに虐殺する。
好きなら殺さない。まあ、好きな人を生け贄に捧げないといけないかもしれないけど。

悪人は他の悪人を好きになる事はない。
むしろ嫌いである。
他の悪人が存在するせいで、悪人全体への風当たりが強くなって、犯罪への防犯意識が高まって、自分が犯罪し辛くなるからだ。
悪人は、他の悪人を死刑にしろとか言い出す。それで自分が正義になったと思い違いする。自分の罪滅ぼしができたと思い違いをする。そんな事では自分の罪は赦されない。
自分の罪を赦されるには、被害者に謝罪して、反省して、二度と罪を犯さない生き方をする必要がある。他の犯罪者を殺しても自分の罪は赦されない。

11、すり替え
カルトの犯罪を論点にしているのに、宗教心を論点にすり替える政治家。

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