最近ツイキャスで感じていたモヤモヤなど

最近、40代のおじさんから詰められた。

その人との関わりは長く、もともと兄の大学の友人でぼくのことを25年位前から知っている。ある面では、お互いに気心も知れているので、「親戚のおじさん」みたいな関係性でもある。

3月頃から、その方がやっているツイキャスに毎週月曜日にコラボするようになっていた。10年来、関西の片田舎で先祖代々の土地を守りながら畑仕事と地域の子ども支援のようなことをしてきていた人で、大人と関わることが苦手で、ある面では「ひきこもり気味」だったので、つながりや新しいコミュニティを求めて自ら動き出したということらしかった。

ぼくはそんな彼がどんな風に「社会復帰」していくのか?という興味関心もあって、いろいろ手伝っていた。

3月頃というと、自分はようやく自分の闘いの終わりを自覚するかしないかというタイミングで、燃え尽き真っ盛りだった頃だ。

その頃の体たらくをツイキャス上で話すと彼はしきりに、「覇気がない」「へたれ」などと尻を叩いてきた。彼なりの叱咤激励なのかもしれないが、余計なお世話でしかなったのが本心。ぼくはただ休息が欲しかったんだよな~と後から思ったし、現にそのように彼にも伝えたのだが…。その人はいろいろとおかしい人間で、「疲れ」を知らず、自ら干渉可能な周囲の環境の限りにおいて、農作業をみっちりこなしつつ、子どもと目いっぱい戯れたり、たいへんな状態の子どもとのかかわりを通して、頭をフル回転させることなどを通して、常に自家発電していて、妙にハイテンションで居続ける人だったのもあり、「お前も俺のようになれ」とばかりにポジショントークしかされなかったような気がする。

そんなポジショントークをしている彼の姿を見るにつけ、「これじゃあ、彼の『社会復帰』は遠いんだよな~」などと内心思っていた自分があるような気もする。

そんな感じでしばらくツイキャスでぼくが「へたれで情けない若者」を過剰に演じさせられ(まあ一面事実なんですけどね)続けた結果、そのツイキャスに集まる人たちがぼくに対して「鬱キャラ」みたいな見方をするようになっていった。

これは堪らんと、福岡への移住などが決まって行ったのに伴い、そっち方面の話をよくするようになり、「鬱キャラ」というある面では、彼との関係を通して過剰にフォーカスを当てられたために構築されたぼくのイメージの払拭に努めた時期があった。

最近あったのは、自分が福岡に行く前に母と会ったと話したら、「なんでわざわざ自分がモヤる人間関係に戻ろうとするのかが本当にわからない。もっと自分が気持ちよくなれたり、ポジティヴなフィードバックがある人間関係へと行けばいいんじゃないの?」といつもの感じで言われてしまった。

その人は親との関係を心理的に完全に切っている。

ぼくはいろいろあったけど、切らない道を選んだ。

その選択には自負も矜持だって多少はあるつもりだ。

けど彼はあくまで自分の生き方を基準として、こちらの気分や複雑さめんどうくさい人間関係にまみれる生き方というものをまったく理解しようとしない。わからないから、教えてくれよと言われることもままあったように感じるが、それはそんなに簡単に言葉になるようなものではないのだ。それよりも、言動や生き様からそっちがいろいろ読み取ってくれよといいたくなるような代物なのではないかとどちらかと言えば、そう思う。

彼は「意思が弱い人」が苦手らしく、ぼくのこともそのようにカテゴライズしていて(まあそれも一面事実だからいいんだけれども)、「ハッキリしてないから、何がしたいのかもわからないし、話していてもモヤる。お互いに歩み寄る気がないなら、コミュニケーションの意味がないじゃん?」などと言ってくる。

ぼくは仕事柄「意思が弱い」と一般的にされる人の近くにいるのもあって、そういう話題の時はとても嫌な気分になっていたのだが、向こうの議論のペースやむしろこちらに歩み寄ろうとしているようにあまり見えない向こうの自分本位なコミュニケーションのあり方にへきえきとしていた。

自分のいた自立生活運動というのも詰まるところ、重度知的障害や自閉症の人がいまたくさん施設生活をしているが、そういう人たちも本人の意思に関係なく全員地域生活させろっていう主張の運動なんでしょ?とか聞かれた時は、さすがに少し切れた。

その人は、「相互理解」がコミュニケーションの目的だと思っているように感じる。だから「相互」の前提である「個の確立」を暗黙の裡に要請する。そのため、「意思の弱い人」は、彼がコミュニケーションの目的とする「相互理解」が難しくて、彼がどう動けばいいかもわからないし、モヤるから関わりたくない(⇒結果、ぼくに対してもキツク当たる、キツク当たっていれば、自分が反発して彼が求める「個」の部分が見えやすいからだろうな)。同じようなコミュニケーションは彼のお仲間の方からもされたような記憶がある。

ぼくはコミュニケーションが目的だ。コミュニケーションを通して、「その人が現われる」とかそういう気分がある。それは今までの自分の実践に基づく実感でもある。てか、いま気づいたけど、ともすれば彼のコミュニケーションの考え方(ぼくの推測でしかないけど)って、植松死刑囚のそれに近いな。「確固とした個人」なんて神話だと思う。その場その場で、コミュニケーションや関係を通して、「個が浮かび上がる」。そういうような「人間観」や「コミュニケーション論」を自分は持っていると思う。「確固とした個」も強烈な環境や背景のために、結果的にそのような関係性を通して、「強烈な個」として浮かび上がらずるをえなかっただけ、に過ぎないと最近は考えているんだけれども。

ぼくはたまに彼に言ったことがある。

「あなたはすごく極端な人だから、自分という人間のことを理解する鏡としてこの場を活用しているところはありますね」

そういうと、彼はいつもすごく不満そうだった。

「そんなのおかしいじゃん。相互理解じゃないじゃん。歩み寄れよ」

むしろぼくの実感としては、ここまでよくもまあ彼の設定する議論の場やコミュニケーションの形式に従ってやってきた。むしろもう少しだけでもいいからこっちに合わせろよ、と思う。なんで、あっちの考える「普通」にこちらが合わせ続けるのか。

彼らと話しているとダブルバインドのようなものがあるように思われて、ぼくの気分は現在少々混乱している。

彼は先にぼくの母との関係などをみて、「なんでモヤる人間関係に留まったり、戻るのよ。切り捨てて、もっとポジティヴな人間関係に行こうよ」と言ってくる。その一方で彼はぼくが、彼の居場所であるところのツイキャスが「ぼくにとっては自分の理解者もいないし、みんなあなたのモノの見方に従って、ぼくに対して嫌なことばかり言ってくる人たちしかいないから嫌いですよ、ここ」と、キャス上で言おうものなら、「そんな風に居心地の悪いところに居続けるのも大切なことだよ~笑」などと言い返す。

ほかにも、ぼくにはどうしても彼らが「自分たちのようになれ、自分たちのやり方や生き方が正しい。お前も同じように能動的かつ主体的に人生を楽しめるようになりたいだろ?」と陰に陽に勧誘してきているように感じられてならないのだが、それに対して、そうは思わないです。めんんどくさいですね、とか返していると「まためんどくさい!笑」と揶揄されたり、果ては「自分たちだって正解がわからずに、もがいているんだ」とか宣う。

自分は混乱する。

ちなみにその挙句、最近ぼくについたそのツイキャス上でのぼくのイメージやキャラクターは「ダウナー」でした。関係の所産だね、としかぼくは思わないけど、そんなところにもう居続ける理由も価値もないなと思う。メリットがない。

彼はぼくに一番詰め寄ってきたのは、

「君は弱さを肯定するというのなら、自分の弱さのためにアル中になってそれで子どもに暴力をふるうような人間に対してどうふるまうんだ?答えろよ」と迫って来た。そもそもその状況設定がよくわからないし、なんでそこの議論に乗っからないといけないのかもわからなかった。

彼が言うには、「子どもを傷つける者はどんな理由があれ、悪であり、それを救わなくてはならない」らしい。そしてぼくの答えは彼が満足するものではなかったようだった。「子どもがそんな関係の中にいたら病んでしまう。だから病まないように救わなくてはならない」のだと。彼らは"他者(=自分)を救いたい病"なのだ。

ぼくは、「人生なんて蓋を開けてみるまでわからない」と最近思っている。ぼくの想定する「ふたを開ける瞬間」というのは、臨終間もなくで、ああ、もう死ぬな~って時を想定はしている。その時に「ああ、まあ全体的に悪い人生じゃなかったな」とか笑って思えれば、それで十分じゃん?と思っている。だから、どこかのある地点での自分の人生に対する評価とかが最低だったとしても、「ふたを開けるまで」はわからない。アルコール依存症の親の下で暴力を振るわれて生きることがその子ども本人にとって、「善であるか/悪であるか」は、ぼくらには決められない。その経験があったからこそ、その先の人生が切り拓かれる部分もあるかもしれないし、あるいは世の中に絶望して、自ら死を選ぶようなこともあるかもしれない。いずれにしろ、その子ために他人ができることなんてたかが知れていると、ぼくは思ってしまう。

あるいはこれは心の内奥で、我が家が危機的介入の対象にならなかったことにたいする社会や世界、他者への諦観みたいな気分が自分にあるからこその気分でもあるのかもしれない。それを経て、それでも本人がどう生きたいか、そこがすべてのような気が、ぼくなどはしてしまう。もちろん、すこしでも前向きに生きていきたいと思ってもらえるように多少関わりたいとは思うが。

彼は「弱さを肯定する、自分の弱さを認めて欲しいって奴らは、そういうアル中で子どもに暴力振るうような俺から見れば、悪でしかない存在をどう扱うんだ?ハッキリさせてくれよ」と迫って来た。もう、いろんなことの前提がズレまくっていて、それでもぼくはとりあえずその場を立ち去らずに、一応相手をしていたのに、そんな「ダウナー」なぼくに対して、彼を慕う彼のキャスのお仲間がぼくがめんどくさそうにしているのを察して、「彼の質問から逃げちゃだめだよ」なんてコメントも飛んでくるのだから本当に堪らなかった。そんなコメントをしてきた人も彼同様、親との精神的つながりを切り捨てて、ひとりで生きてきたような人だった。

人は弱い、人間だもの。彼はそれを受け入れない。人は弱いから、どうしようもなく、どうしても人を傷つけてしまうことってあるよね。彼はそれも気に入らないみたい。彼は純粋で潔癖だ。そして、その潔癖さは、周囲に対する攻撃性に転じやすい。

この人生において、「弱くある自由」を追求したいと思っている。同時に、「自らの痛みのために他者を不用意に傷つける者は人間じゃない」という倫理観を併せ持ちたい。

それは矛盾しているだろ、と彼は詰問してきた。

矛盾しているのだろうか?ぼくにはわからない。

たしかにハッキリとした「基準」ではないかもしれない。

けどそもそも人間なんてそんなに偉くもないんだから、人様を裁くようなことしたくないよね、ってぼくなどは思ってしまう。

いろんな立場の人に共感をしながら、その人たちの間を取り持ちたいと思っているよ。そんな風に仲介者として生きていきたいと思っているよ。それは、ぼくが両親を筆頭として「ぼくから見て無駄な傷つけあうための争い」をたくさん見てきたからだと思う。そんな争いが起きないためなら、ぼくはきっと粉骨砕身してしまうと思う。ぼくが書いた修論には、自分のそういうパーソナリティも現われているな、と最近は思う。

それでも彼はぼくにいちゃもんをつけてきた。

そんなわかり合えるもの同士の共感なんてあたりまえだろ。そんなの意味がない。同じような仲間つくっていくだけだろとかなんとか。ぼくが言ったのは、立場を超えてでも、分かり合えるところを探して、いろんなアクターに対して共感的にふるまい、その人たちの間に立って、仲介がしたいという意味だったのだが、自分の言葉足らずもあって、彼には届かなかった。ぼくは彼ほど生き急いでない。

こんなことを必死に考え、モヤモヤしているぼくは、それでも彼や彼のお仲間のツイキャスの方々からみれば、「鬱キャラ」であり「ダウナー」でしかないのだろうか??それならそれでいいや、ともはや思う。

10日後には、福岡での新しい生活がぼくを待っている。

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