⑫~自己決定=自己責任の手前で~

日本の障害者運動では、「自己決定」は最も重要な概念であり実践理論であり続けていると言える。2000年前後から、ネオリベ的な福祉が展開されるようになるにつれて、ますます「自己決定」は障害者福祉に留まらずあらゆる分野で重視されるようになっていった。

そもそも、障害者運動で「自己決定」が提唱されるようになっていった背景には、重度の障害者のライフコースが社会環境の都合も手伝い、親や専門家によって決められてしまってきていたことに大きく拠っていると思う。

つまり重度の障害者のライフコースには親元で暮らすか、地域を離れて施設で終生暮らすかの二つしかなく、障害者本人に「自己決定権」はなかった。

だからこそ、その二つしか選択肢がないことはおかしい、自分たちも他の人たちと同じように必要な支援をつけて、地域で生きていくんだ!という声が挙がりはじめ、実際にそのような自立生活をはじめる人が現われていった。

『こんな夜更けにバナナかよ』に出てくる鹿野さんなどは、そうした自立生活実践者の先駆けのひとりと言えるだろう。当時、気管切開をしたらふつうはその後一生病院生活を強いられていたのだが、鹿野さんは、「自己決定権」を行使し、主治医や周囲の関係者を説得し、単身(+彼を慕う多くのボランティアたち)地域生活をはじめたのだ。

その姿はとてもカッコ良く、そうした自立生活の現場で巻き起こる濃い人間ドラマなどを垣間見るにつけ、20歳そこそこのぼくは惹かれていった。

親元や施設で「庇護される重度障害者」という役割やポジションから降りるあるいは、飛び出していく彼らは、「必要な支援を自らまかない地域で暮らす障害者」となっていった。

その時、周囲を説得する際に武器になったのが「自己決定=自己責任」だった。長年「自己決定権」を持ち得なかった彼らにとって、獲得し、行使した「自己決定」はとても貴く、気持ちを奮い立たせるものだったに違いない。

障害者運動で提唱され続けている「Nothing About Us, Without Us!」=「私たちのことを、私たち抜きで決めるな!」というスローガンにしても、「自己決定権」にかかわるテーゼだと言える。

立岩真也ではないが、何よりではないが、とても大事なモノ。
それが障害者運動における「自己決定」なのである。

もっとも「自己決定」できるのは、強い主体のみであり、自己決定が苦手な知的障害者や精神障害者はこれらの議論や実践から取りこぼされているのではないか?という疑問が強まり、そのため、支援付き自己決定なんていう概念や実践が最近では取りざたされているのだけれども、それに触れると長くなるので割愛。けど、支援付き自己決定は、博論にもかかわってくるかも。

障害者運動の近くにいて、とても影響を受けたぼくだけど、ずっと「自己決定」が苦手だった。人から「何を食べたい?」とか「どこ行きたい?」とか聞かれても、あんまり何も出てこない。自分には主体性がない。

以前まで知的障害者の支援付き自立生活に向けた支援付き自己決定について研究しようとしていたのだけど、その時に大学院の同期の友人からも「川田さんってそもそも、自己決定苦手じゃない?」と面と向かって指摘された。

ああ、そうだよ…苦笑となった。

成育環境やら生まれて初めて「自己決定権」を行使した際、周囲の大人に邪魔をされ、自分の願った通りにならなかったという苦い記憶も根強くある。

その友人に言わせると「児童期の自己決定権の行使の際に受けたマルトリートメントの影響で、自己決定を苦手とする大人が生まれる」らしい。

死にたさやセルフネグレクト、ネガティヴワードの三段活用を克服しても、まだまだぼくには根強くその残滓が残り続けている。

学習された無気力、主体性の低さ、自分自身を大事にすることを苦手とすることに伴うセルフケアの弱さ、自分の身体の問題を軽視する等々。

支援付き自己決定の研究をしている際、いつもぼく自身が支援付き自己決定をしたいよとか、共同決定=共同責任、おなしゃす!!と思っていた。

自立生活運動にしてもそうだ。

20歳前後、とにかく不安定でいつも死にたくて、情緒がめちゃくちゃで30分後の自分が何を考えているかわからなくて、今の自分とさっきまでの自分と未来の自分との連続性が感じられず、「自分の人生」という実感も希薄に生きていた。大学選びだって、主体的に選んだというより、私立の大学でレベルの高いところから「消去法で選んだだけ」という感覚が強かった。

そんな不安定な自分を重度の身体障害者が獲得した24時間介護のように、自分にも必要なケアが必要に応じて分配されればいいのに、と思った。「重度の身体障害」のために、生活保護で経済的自立を果たし、介護者を使って自分の生活を築いていく自立生活実践者たちが羨ましかった。もっと言えば、嫉妬していた。激しく羨んだ。自分もそうだったらいいのにと思った。

孤立で不安定な自分にとって、24時間、他者が自分のために存在してくれるというシチュエーションは、とても羨ましかった。そんな不純な気持ちをある面では抱えながら、ぼくは自立生活運動の傍に居続けた。

最近障害者運動の近くでは決して出会えなかったであろう言葉に出会った。

「選択権を取り戻す」

自分の人生に欠落していたのは、自分が必要としていたのは、「自己決定=自己責任」などといった運動理論ではなかった。

『傷ついた物語の語り手』をざっと読み返していると、「自己物語の再構成/再構築を通じて、その語り手は、自分の人生における主体性を取り戻すことができる」というようなエッセンスを読みとることはできた。

それは、ぼく自身の実感にも符合する。
しかし…、「自分の人生の主体性を取り戻せても、その自己物語の大事な局面においてほかならぬ自分自身が自己決定し、自分の人生の舵を握っている」だとか、そういうような実感を得られるようになるには、まったく異なる次元の取り組みなり、働きかけが必要なのではないか?と思った。

つまり、自己物語の再構成/再構築によって人生における主体性を取り戻せたとして、それは必ずしも、それまでの人生における本人の自己選択や自己決定の実感やそれに伴う自己効力感の獲得にはつながらないということだ。

自己物語の獲得とは別立てで、まさに「選択権を取り戻す」必要がある。

じゃないと、「選択権を保有しているという実感」を持っていない個人は、ある面ではいつまでも草舟になってしまう。

だいぶ文脈は異なるが、草舟を気取り自己完結した世界を生きることを好んでいた『君の膵臓をたべたい』の志賀直樹君に登場してもらって、この文章を閉じたい。

変えられたんだ。間違いなく変えられた。
彼女と会ったあの日、僕の人間性も日常も死生観も変えられることになっていた。
ああそうか、彼女に言わせれば、僕は今までの選択の中で、自分から変わることを選んだのだろう。
僕は置き去りにされた文庫本を手に取ることを選んだ。
文庫本を開くことを選んだ。
彼女と会話することを選んだ。
彼女に図書委員の仕事を教えることを選んだ。
彼女の誘いに乗ることを選んだ。彼女と食事することを選んだ。
彼女と並んで歩くことを選んだ。彼女と旅行することを選んだ。
彼女の生きたいところに行くことを選んだ。彼女と同じ部屋で寝ることを選んだ。
真実を選んだ。挑戦を選んだ。
彼女と同じベッドで寝ることを選んだ。
彼女の残した朝食を食べてあげることを選んだ。彼女と一緒に大道芸を見ることを選んだ。
彼女に手品をすすめることを選んだ。
彼女にウルトラマンを買ってあげることを選んだ。お土産を選んだ。
旅行は楽しかったと答えることを選んだ。
彼女の家に行くことを選んだ。
将棋をすることを選んだ。彼女をひきはがすことを選んだ。
彼女を押し倒すことを選んだ。学級委員の彼を傷つけることを選んだ。
彼にやられることを選んだ。彼女と仲直りすることを選んだ。
彼女に勉強を教えることを選んだ。帰るタイミングを選んだ。
親友さんから逃げることを選んだ。手品を見ることを選んだ。
真実か挑戦を選んだ。質問を選んだ。
彼女の腕から逃げないことを選んだ。彼女を問い詰めることを選んだ。
彼女と笑うことを選んだ。彼女を抱きしめることを選んだ。
何度も、そうすることを選んだ。
違う選択もできたはずなのに、僕は紛れもない僕自身の意思で選び、ここにいるんだ。以前とは違う僕として、ここにいる。
そうか、今、気がついた。
誰も、僕すらも本当は草舟なんかじゃない。流されるのも流されないのも、僕らは選べる。
住野よる2017『君の膵臓をたべたい』双葉社, 247-249.

昔は頻繁に「当事者」という言葉を使っていた。
しかし、自分はどこかずっと自分の人生が他人事のように思えていた。

自分の人生に当事者意識が欲しかった。
「自己決定=自己責任」の世界を生きる自立生活の実践者たちが羨ましかった。ぼくはいつでも障害者運動に生きる当事者たちに嫉妬していたようだ。

関東で障害者運動に出会い影響を受けたぼくは…
ぼくは障害者運動に生きる当事者たちに嫉妬することを選んだ。
ぼくは妬ましい障害者運動に生きる当事者たちの近くで、甘い蜜を吸うことを選んだ。

狂いながら書いた修論に導かれるように移住した福岡だけど…

ぼくは福岡のお母さんの誘いに乗る/パルプンテにかかることを選んだ。
ぼくはMさんからの「川田さんの自己物語に希望を感じずにはいられなかった」という予期せぬフィードバック受け入れ、今後の生きる指針にすることを選んだ。
ぼくは「楽しく、幸せに」生きるために自分自身が根を張る場所として福岡市という地を選んだ。
ぼくは博士論文を書くために必要な英気を養うための地として福岡を選んだ。
ぼくは仲間と楽しく実践していくための現場として福岡を選んだ。
ぼくはNさんを大事にすることを選んだ。ぼくはNさんを尊重することを選んだ。
ぼくはNさんとの時間を優先することを選んだ。
ぼくはこの文章を書くことを選んだ。
ぼくは自己物語を開くことを選んだ。
ぼくはKさんと相談することを選んだ。

過去の自分の選択も掘り起こしたい。
まだ全然読めてないんだけど、『複雑性PTSDの理解と回復』少しずつ読み進めていきながら、自分のペースで選択権をとり戻していけたらと思う。

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