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自分用半生書き出し・整理



苦しんできていないというコンプレックス

やろっかなと思っていたことの願書を出したら、やりたくなさすぎて涙が出てきた。
私はいったいなんなのだ。

昔から感じていたが、私と私が選ぶことは乖離が毎回起きている。選びたくもない職業を選んで、適応障害になり、今でもフラッシュバックで辛いなんて自己責任(同じ境遇の方に自己責任と言いたいわけではなく、あくまで私自身の話です。)にも程がある。学歴によるプライドが邪魔をする。見栄を張る。体調を崩す。
また同じ道を歩もうとしてはいないか。

そこで、何が私をこんなよくわからないことにしてるのか、とりあえずそこを洗い出そうと、
誕生から今に至るまで、なんかこれ…消化できてないんだよな…みたいなことを書き出してみることにした。
すると、薄々わかってはいたけど、やっぱり言葉にするとこうなるんだな…ということが出るわ出るわ…。
頭の中で、大人のくせにいまだにこんなこと引きずってどういうこと!?甘いこと言ってるから何も成長できなくて泣いてるなんて手の施しようがないわよ!!とチクチク言ってくる内なる見え張り私を、檻に閉じ込めて、うるせ〜〜〜!知らねー〜〜!ファイナルファンタジーのお札で封印する。

①よく考えたらいじめられっ子だったのでは?

園児の頃、私が好きだったものはピンク、ふりふり、お姫様だった。よくいる園児である。
ただ、太っており、園ではよくバカにされ泣かされていた。友達と遊んでも友達は上の学年の子に〇〇ちゃんはかわいいからこっち。むちゃんはかわいくないから来ないで。とか言われたりしていた。うーーーむ子どもとは残酷。
でもこの頃は、なんでそんな事を言うのかにきちんと怒って納得できなくて泣いているので、まだ全然拗らせていない感じがする。

②ピンク、フリフリ、お姫様との別れ

小学校に上がった時、伸ばしていた髪の毛を一気にショートに切られた。私はされるがままだったし、まあ短いのも良いねと、特に何も思わずスカートを履いて学校に行ったら、急に男だ!と言われ、心底傷ついた。

ここから、じゃあもうスカートは履かないし、かわいくもならないという曲がった方向へ進む。
今ならそんなつまらないやつのことぶっ飛ばせ!と思うけど、地球に生まれて7年目のヒトにとっての適応はこれだった。
次にスカートが履けたのは中学に上がってからである。
昨今、制服のスカートがパンツタイプも選べるようになっていることは良いことだと思う。
だが、私は中学生当時、強制スカートが履けた時がとても嬉しかった。誰がなんと言おうと女の子に戻れた。セーラー服はかわいかった。
ここでパンツタイプも選べますと言われたら、スカートはキャラじゃないからとパンツタイプを選んでいる。

③選ばれない側、余る側だというコンプレックス

小学校に上がった時、一緒に帰っている子とクラスの人間の名前を次々上げていって、好き嫌い普通に分けるという遊びを帰り道にした。
友達がやろう!と言い出すとは思えないので、今考えると私が提案したっぽいメンヘラの確認を友達に負わせていたとは申し訳無さすぎる。
しかもそこで、私は?と問いかけると、好き!と言ってもらえるのを期待したけど普通と言われているので相当ショックだった。これは私が悪い。心から申し訳ない。
運動もできず、勉強もできず、ドッジボールのチーム分けでガキ大将共がドラフトまがいに欲しい人材を順番に振り分けていく時は必ず最後まで選ばれなかった。
学校に来ると、昨日まで仲良くしていた子達が急に喋ってくれなくなる事があったが、昼休憩になると、なんか急に無視しよって言われたけど意味わからんよなと遊んでくれた子が2人いてそれがすごく嬉しかった。

この頃からあんまり友達に期待しすぎると、離れていくから一番じゃないけどグループで楽しいよねのスタイルへ移行し(これはなかなか良い。)2人1組作る時は率先してグループから抜け、私誰かと組むわ!という先手を打つようになる。

それから、あるスポーツをしていたが、コーチがものすごく怖くて、苦手だった。
ある大会で6年生と上手い5年生のAチームが出る大会と、まあ普通の5年生以下が集まるBチームが出る大会があり、Aチームの指導を監督、Bチームの指導をコーチが行うことになった。当然Bチームだった私は、最悪だ〜…と思っていたが、何がどうしたのか知らないが、コーチは私をキャプテンに任命した。
できるかどうかより、初めて大人に選んでもらえたこと、しかも怖い大人に選ばれたことは私には大きな衝撃だった。今から考えると、私がリーダーね!みたいなタイプの子が一人いたが、キャピキャピタイプだったので、それより泣く割に辞めない私の方が忍耐強く見えたんだろう。
その後、コーチは指導が厳しすぎるとのことで解任になってしまった。監督が一人一人にやめてほしいかどうか聞いていてみんな辞めてほしいと言っていたけど私は辞めてほしくなかった。

④人は努力を見ている…!?

前述の通り晴れてスカートを履き、女の子に戻れた私は毎日楽しく中学校に通えることになった。ルンルンである。ルンルンで、スポーツなんか辞めて、美術部に入るんだ!と思っていた。初めての美術の時間ワクワクして美術部の先生(ラグビー部出身の美術教師で190cm近くあり、ゴリゴリに生徒をぶっ飛ばす)に活動を聞いたら、「だいたい他の部を辞めた子達が籍を置いてる部活でワシも年に数回しか来ない」と言われた。つまり、強制的に部活動に属する事がルールだったので、それが叶わなかった人が籍を置くだけだと説明された。終わった…。
迷った挙句、結局スポーツを続けることになってしまった。しかも県内でも有数の強豪だった。なんでだよ…。
だが、小学校の途中でスポーツを始めたからなのか、元々体が柔らかかったからなのか、スポーツテストで余裕のA判定になっており、スポーツができる人になっていた。足が遅いだけ。
この辺で、運動会で発揮できるの足の速さだけだもんなぁ。と評価は色々あると理解。
しかし、部活は指導が厳しく、部員も多かったのでレギュラーどころかユニフォームも着れない状況が三年まで続く。
指導が厳しすぎて、とにかく怒られないような練習をしていたら、本番で使えないんだからそれはそうである。二年の終わり頃、ユニフォームを着られないメンバーが合宿に参加しない事が多くなる。正直、すげーーーーーーー羨ましかった。私もそれになりたい。と思いながら、やはり顧問が怖いので、そんなことはできず、ユニを着られない唯一の二年として、選ばれる一年のサポートをしながら、他の一年生と応援をする。応援リーダー。時々練習試合に入れてもらっても空回りして終わり。熱心な保護者のヤジが飛んでくる。
状況が変わったのは3月の大会だった。上手い割にチームが盛り上がっていなかった我がチーム(これは合宿に来なかったメンバーとレギュラーの一部が、レギュラーの一人を学校生活でいじめていたからである。)は、どう考えても勝てるのにガタガタに調子を落として士気が消えて負けそうになっていた。
ヤケクソになった顧問が一番声のでかい人だった私をどうにかせい!とコートに放り投げた。仕方ないのでめちゃくちゃ声を出して相手を威嚇し気を大きく見せる。たまたま得点なんかしたりして持ち直した。
お役御免で下がったらヤジ飛ばし保護者が褒めた。お前褒めることあるんか。
その後学校で急に顧問に呼び出され、今回もユニ無しのお話ですか…と思って行ったら、お前は合宿をサボったメンバーとは違う。応用ができたらレギュラーになれる。私は期待している。という話だった。
嬉しくて泣きそうだったが、それ今(三年の春なのでもう時間がない)言うなよ…!と、あれ、このパターン知ってる…。あ、五年生の時の鬼コーチだ…と気づく。

書き出してみるとよくわかる。この頃から、拗らせてたっぽい私は
『辛くても我慢すると実は大人は見ててくれてて、いつか私に振り向いてくれる。』
という宗教にハマり始める。
しかも、カスカスのカスだったテストの点も、数学の先生が変わったことにより急に伸び始め、美術の「ゴッホについて知っていること全て書け」という無茶だろみたいな真っ白なテストを埋めて学年で唯一満点を取ったことから、まさかこの世はやればできる感じか?と、地頭の悪さを根性でカバーするようになる。

⑤継続という呪い

一般入試にしてもう一段階上の学校に行けると言われたが、高校以上の学校へ行くのは頭のいい人がすることだと思っていたので、元の志望校に入る。
ここで初めて小学生からやっていたスポーツを辞める。理由は見学に行ったけど、雰囲気が怖かった(もう怖いのは懲り懲りだった)・上手くもないのに「〇〇中の子が入ってきている」と噂されていたからである。
違う部活で楽しい時を過ごし、今でも交流があるので結果的に良かったのだが、

「逃げた」

ことが自分の中で烙印のように付きまとう。
今まで歯を食いしばって続けたら誰かに褒められたのに?あの部活の子達は私より頑張っているのに?
まあ良いじゃん高校デビューじゃん!新しい部活で活躍してるし!!!未練がないとは言い切れないが、別のことをするのは面白かった。

高二以降の学科選択の時、この分野全然興味ないから、興味があるこっちやる!と選んだ学科について、またも顧問(今度は高校の顧問)から呼び出しをくらい、

「逃げるな!!!」と怒られた。

これは私の成績が思ったよりもよかった為、進学が望める学科に修正しろという意味である。
逃げたわけじゃなかったけど、これも逃げなのか?逃げなら逃げるのはダメだと結局、顧問に従い、意地で在学中に取れたら進学に有利とされる資格を勝ち取る。
そして私は、学校にとって輝かしい進学先としてデータで残った。
被害者ではない。人生を歩む上でカードを増やす方法として提示されただけであって、嫌ならそこでこれがやりたいから嫌!と言えば良いのだ。自分で調べれば良いのにやりたいことなどなかった。金の心配ばかりしていた。変化を嫌う、つまらん人間なのだ。

「頑張ったのか?」
進学してからは受験を潜り抜けた同級生と共に、センターが何かもわからずやってきてしまった私は場違い感に苛まれていた。
親に申し訳ない気持ちがこの時は強かったので、仕送り無しで奨学金+面接して受かった民間の奨学金+バイトで学費と生活費を賄った。
この時に自己理解などを深掘りすれば、良かったのだが、なんかもう授業が少なくなってきた大学3年くらいから不眠症でデパスと友達だった。

頭の中で高二の担任が三者面談で言った「この子は真面目を絵に書いたような生徒です。だけど、短期の目標には集中できますが、長期的な目標を立てる事が難しいようです。」
がぐるぐる回る。この人はよく見抜いていた。
先生へ。まだ悩んでいます。

よく考えたら、私を褒める大人はいっぱいいたと思う。近所に挨拶し、反抗期で気取ったりせずに、お手伝いをする。
でも格別嬉しいのは逃げなかった時に褒めた大人だった。私が兵士だったら上官に従って速攻で死んでるに違いない。なんて使いやすい駒なんだろう。

ここから適応障害になったり、自己理解してないが故のアンマッチから鬱になったりする。

今回、またもや頑張ってないんじゃないかもっと頑張れるんじゃないか。論+いや、この会社ちょっと…という2つの理由で職を辞した。
もう少し改善できたかもしれなくはない。

そうまた、「頑張ってない」「苦労してない」「逃げた」にがんじがらめになっている。良いじゃん。辞めようよ。おりっぞ。この変なレースから。
変な呪いから。
小論文指導の教師が私に哲学書をよく勧めてきてくれて、プラトン?ああ一般常識問題で出るからね…と当時思っていたけど、ちょっと視野広げた方が良いよって意味だったのかも。

浮かんでは消える数々の認めてほしい対象だった「先生」達。もしかしたら、あの頃私が本当に認めて欲しかったのは両親で、私が先生達をその代わりにしていた可能性がある。

もう私は選べるよ!と声に出したい半分、無理でーーーす…!誰か誰か助けて!!とまだ子どもみたいにジタバタしてる半分…。
遅れを取り戻すようにじゃばじゃば色んな本を読んでいて、今大学生のよう。
ガンダムSEEDのあらすじを教えてもらったらディスティニープランというものがあったけど、正直自分の適性がわかるならそれが良かった。
こんなことをのたまわっても一歩も進まない。

内省なんかしてこなかった。それこそ自分に向き合う逃げだった。取り繕って人を信用せず、ジッといつか褒められると信じている。
なんと小さい人間か。

気づいてしまったらまあもうどうにか矯正なり、変化なり、アクションを起こすしかないので、ふぃー…アタシ自己理解やってやったぜ…と自己満足にならないように地道に潰していくしかない。己を。
うーーーん難しいな人生…!!同人活動だけ納得してやれてるの同人活動については趣味だからっていうのもあるけど、考察という名の内省してるからかも…!!!
あーあ!コーチングとか受けようかなあ。
イメージとして経営者とかが受けてるイメージだけど矯正のお手伝いしておくれよの気持ちVS.また先生を真に受けるぞの気持ち…。
とにかく自分で考えることだな。苦しいね。

朝ドラの虎に翼の主題歌をフルで聴くとラストに
「生まれた日からわたしでいたんだ
知らなかっただろ。」という歌詞がある。
聴くたびに泣いてしまう。
そう言える自分でありたい。

https://youtu.be/-wb2PAx6aEs?feature=shared

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