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「人生の冬」を乗り越えた方法と、叶えたい夢。

みなさま、こんにちは!

69歳、YouTuberの良子です。
本日も、よろしくお願いします。

今日は、わたしが「人生の冬」をどう乗り越えてきたのかを、お話ししたいと思います。

わたしが54歳のとき、夫の事業が倒産し、借金を抱えました。当時の夫は、57歳。夫はハローワークに通いましたが、57歳ではどこにも雇ってもらえません。

一度、脱サラして独立したあと、サラリーマンに戻ろうとしても厳しいんだ。そんな現実を目の当たりにしました。グスグズしていると、借金は増すばかり。八方塞がりの状態です。

そんなとき、夫がハローワークで紹介してもらった会社へ面接に行くと、

「秋田市では仕事を紹介できない。正社員も無理。でも、福島支店なら空きがある。歩合制で良ければ仕事を紹介できる」

と言われたのです。

正社員ではなく、委託社員。仕事は飛び込み営業がメイン。ガソリン代も出ない悪条件でしたが、後にひけない状態った夫は、一にもニにもそれに飛びつき、単身ひとりで福島へ飛び立ちました。

夫は病気を抱えていたので、1人にするのは心配です。わたしは秋田市の工場のパートを辞めて、ひと月遅れで福島へ向かいました。

夫の新しい仕事は歩合制ですので、契約を取らないとお金がもらえません。無給の間、夫を支えるべく、わたしは確実にお金を得る必要がありました。その街1番の大きな温泉ホテルにパートとして働き、月に10万円くらいの収入を得ました。食費、雑費、光熱費、ガソリン代は、わたしの収入で賄っていました。

温泉ホテルでの仕事は、宴会場がメインで、角盆に食器やビール瓶をのせて運びます。お座敷があり、畳の部屋です。重いものを持ちながら、しゃがんだり、立ったりを繰り返していると、3ヶ月を過ぎたころ、とうとう腰を痛めてしまったのです。

痛めた腰を夫に支えてもらいながら、病院へ行くと、医者にこう言われました。

「今の仕事をしていると、また腰を痛めますよ」と。腰には寿命があり、重いものを持ち運びする仕事は、54歳のわたしには酷だったようです。

幸いにも夫が仕事をがんばり、徐々に契約が取れて、夫のほうは順調でした。夫の収入が安定してきたこともあり、わたしは温泉ホテルのパートを辞めました。

さて、どうしましょう。

夫の仕事が上向き始めたものの、我が家には借金があります。ですから、腰を痛めたとはいえ、わたしだけが家でのんびり過ごしているわけにはいきません。何らかの方法で収入を得る必要がありました。

何も良いアイディアが思い浮かびません。ひとり、薄暗い1kのアパートで一日中じっとしていると、たびたび暗い気持ちになりました。

夫は仕事で、車を運転して企業を訪問していたのですが、家でじっとしていられず、わたしも夫について行くことにしました。夫が運転し、わたしは助手席です。

車で、よく海沿いを走っていました。日本海側に長らく住んでいたわたしには、太平洋側の海は眩しくキラキラしていました。車を走らせ、海沿いの景色を見ていると、こんなに美しい景色を見ることができて、幸せだなとよく思っていました。苦労が流されていくような美しい景色でした。

あるとき、いつものように助手席に乗り、夫の営業についてまわっていました。海を見ながら、ふと思ったのです。

「夫の仕事、わたしにも出来ないかしら?」

重いものを持ち運びはしないし、ちゃんと契約のことを勉強すれば、出来るんじゃないかと。そこで、わたしも同じように委託社員となり、夫に仕事を教えてもらいながら、契約を取る仕事を始めました。

夫にレクチャーを受け終わると、契約のために企業さんを訪問しました。たびたび営業マンが、訪れていたところで、契約を取りたくても首を縦に振らないからと、わたしにチャンスが巡ってきました。

会社に刷ってもらった、真新しい名刺を持ち、初めて企業訪問をしました。ドキドキです。そのときに、40代くらいの女性の所長さんが対応してくださったのですが、結論から申し上げると、契約がとれました。それも2件分です。おまけに、他の支店の方を紹介してもらい、その支店でも契約が取れ、合計5件分の契約が取れました。

なぜ、上手くいったのか。具体的なことはわかりませんが、初心者特有の一生懸命さ、熱意が届いたようです。その後も、夫と共に車一台で営業活動をし、順調に契約がとれ、2年ほど経ちました。

契約は、いずれ取れなくなる日がきます。それは、同じ場所に住んでいたら営業先が無くなるからです。未来へと続かない仕事でした。

そんなとき長男が、

「もう、秋田市へ戻ってきたら? じゅうぶん、がんばったよ」と言ってくれました。その言葉にどれだけ救われたことでしょう。そのときは、長男が出世をして、収入が上がっていたのです。そして、わたしたち夫婦は秋田市へと戻ることになり、わたしは再び秋田の工場で働き、家族を支えました。

福島への出稼ぎと、秋田市での工場パートの収入。夫は年金が取得できる年齢になっていたため、力を合わせながら残りを返済しました。

夫と2人で乗り越えたように見えますが、そうではありません。大きく支えになったのは、3人の子供たちのお陰でした。長男は、秋田市に残り、わたしたちが戻ってくるまで仕事をがんばり収入を上げていたし、次男は専門学校を卒業すると、就職までに居酒屋でアルバイトをし、家計を支えてくれました。独立していた長女は、お土産を持って福島まで何度も会いに来てくれていました。それが、わたしたち夫婦の支えになりました。

そうして、今があります。69歳の現在は、年金を受け取りながら、YouTuberとして活動しています。そして、いつも同じ結論なのですが、今が1番しあわせです。

69歳。もう何処かにお勤めをして、収入を得ることは難しい年齢となりました。YouTubeの収入は僅かですが、年齢制限がなく、経費も少なく、低リスク。気軽に始められて、わたしには合っています。

さて、ここからは未来の話をしますね。10年後にどうなっていたいかを考えたことはありますか? わたしは、10年後の79歳までに、叶えたい夢と、ありたい姿を紙に書き出しました。

真逆のなりたくない姿も書き出しました。なりたくない姿は、このまま何もせずに、歳を取り、足腰が弱くなり、脳は使わずにボケてしまい、寝たきりになり、家族に介護してもらう姿です。それが最も恐ろしい未来でした。

叶えたい夢と、ありたい姿は、

夫婦揃っている
終活を終えている
今より収入が増えている
YouTubeとnoteを続けている
健康で家族のご飯が作れている
娘と一緒に、生まれ故郷へ旅する
毎日を、ゆったりと過ごしている

です。

そのためには、こうして発信し続けることがわたしにできる唯一の選択です。

あなたは10年後に、どうなっていたいですか? あっという間に時間は過ぎ去ります。一度、紙に書き出してみてください。なぜか、1、2年単位では難しいことも、10年くらいでみると、達成可能になることもあります。

例えば、わたしたち夫婦のように借金があった場合、1、2年で返済はムリでも、長い期間をかければ返済することができます。なぜか、頭の中のモヤモヤや、ぼんやりとしたものを紙に書き出してみると、見えてくるものがあります。

良かったら、あなたの叶えたい夢、10年後にありたい姿を教えてくださいね。

良子

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