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「雨の精霊」

いつからともなく、私は雨の中を歩くのが好きになった。雨が強ければ強いほど、耳を 聾する大きな雨音が世界から断絶された気分を味わわせてくれて、とても心地良くな る。私に解放感と安心感を与えてくれる雨は、ある意味では空からの贈り物なのかもし れない。

彼女は天涯孤独だった私の人生に表われた一筋の光だった。亡くなった彼女の面影を偲 ぶことしかできない自分の無力さを思い知った私は、涙に明け暮れる日々を送るほかな かった。そんな私が唯一生きていることを実感できるのはこうやって雨の中を歩き回る 時だ。

いつも通り私は歩道橋の上で雨に濡れながら虚空を見詰めていた。下の水溜まりに映っ た自分の顔をチラッと見ただけで虫酸が走って、私は踏みにじるように水を蹴飛ばし た。

そんなとき、いきなり雨が止んだ。いや、止んだと思っただけで、振り向いてみたら後 ろから傘を差してくれている彼女がいた。靄が立ち込めて彼女の顔は朧気だったが、シ ルエットからして彼女だということが一目でわかった。

言いたいことは山ほどあったが、私は驚いたあまり言葉が出なかった。すると、彼女は 静寂を破るように私の名前を呼んだ。

「——」

込み上げる感情を抑えつつ、私も彼女の名前を呟こうとしたが、彼女は遮るように私に 問いかけた。

「なんで雨に濡れてるの?風邪引くから早く家に帰ってよ。」

「私が家に帰ったところで喜んでくれる人は誰もいない。あなたを亡くして以来、私の 世界も同時に終わりを告げたんだ。」

「この甲斐性なし!私にはこんな意気地なしと付き合った覚えはないわ。いつまでたっ ても嘆いてばかりいては何も変わらないよ。雨だって人間には止められない。ただ降らせておくことが最善でしょ?だから、もう一度、立ち直って生きる自信をもってちょう だい。。」

その言葉を咀嚼するゆとりもくれず、彼女は忽然と姿を消していなくなっていた。だが、私は自分の中の何かが変わった気がした。

それは夢のような日だった。記憶が朦朧としてあの日のことをはっきり覚えているわけ でもないし、悲しみが雲散霧消したわけでもないが、私はもう一度、頑張ってみようと 意気込むことができた。私は決してこの悲しみを乗り越えられるとは思っていない。寂 しいし、不条理極まりないが、そういったものを糧にして生きていきたいと思う。彼女が生き返ることはないが、彼女が残した言葉を無駄にしないよう、私は今日も傘を差して雨の日を迎える。

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