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「人を助けなさい」なんて言わなくても、親がその子どもの気持ちをしっかりと受け入れてあげれたら、子どもは自然と人を助けるようになる。

執拗に「人を助けなさい」との教訓を子どもに提示しなくても、

その子どもの気持ちをしっかりと受け入れ、聞いて、あげられていたら、

その子どもは自然と人を助けるように育つ。

人を助けることができない子どもが育つのは、その子が苦しみの中にいるからだ。

溺れている人は溺れている人を助けられないというように、今自分が"不足"の只中にある子が人を助けることができるようにはならないだろう。

そしてなんで子どもがそんな機能不全に陥っているのかと問えば、それは考えてみれば、分かる。

子どもの気持ちにちっとも焦点が当たらない家庭がある。

それが顕著にひどい場合、その子どもは、

「人をいじめる」ように育つ。

でもじゃあなんで人をいじめるのかと問えば、

それはその子の、「その子がその子のままで生きていていい」という尊厳がないことが分かる。

あえて言えば"絶対的尊厳"がない、ということが分かる。

人をいじめる子どもは、自身の生の尊厳をないがしろにされた子であり、

人を殺す人間は、自身の生命の尊厳を犯され続けた人間である。

そしてこのような取り返しのつかない機能不全事故が次から次へと起こって、

連日心の痛むニュースが流れるが、

それらのニュースを真摯に受け止め、"我が事"として考える人は、決まって、

"機能不全を生んでない人"たちなのだ。

そして機能不全を生んでいる当の本人たちは、そんなニュースが流れても、

あっけらかんとして、さも何事も無かったかのように、(いやほんとうに何もなかったのだ彼らには)、ニュースを面白がって見ている。

"機能不全事故の戒めは、機能不全者には自認されない"

それが私が色々と思慮深い人たちの言葉を聞かせていただくことで、見つけ出した一つの真理だ。

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