マイクル考そしてAIに関するジレンマ

 ハムレットは「生きるべきか死ぬべきか」と苦悩した。斎藤緑雨はドイツ語<Goethe>の日本語読みは「ゲーテ」と「ギョエテ」のどちらが正しいのかという複雑な問題を提起した。そして私も今、外国人の人名表記に関する選択問題で頭を抱えている。映画『ジュラシック・パーク』シリーズの原作者<Michael Crichton>を「マイクル・クライトン」と書くのか「マイケル・クライトン」にするべきか、小一時間考えたのだ。それでも結論は出ない。なぜマイケルでは駄目なのか? マイコーだって良いじゃないか! 占い師に「マイクル以外の名前だと当たらない」とアドバイスでもされたのか? マイクル担当の前世が悪の大魔王か何かで英雄マイケルに退治された怨みの記憶が急に蘇ったせいとか、とても信じられない理由が実は隠されているのかもしれないが……余計なことを知ってしまったせいで命を縮めた者は大勢いる。これ以上は触れないでおこう。
 それでも気になるので自動翻訳してみた。やっぱり「マイケル」だ。残念ながらマイクルにもマイコーにも翻訳されない。ミシェールにもならない。しかもWeblio 翻訳の機械翻訳では「マイケル・クライントン」と表示された。これ何だか超訳っぽくて、凄く良い……でも、求めるものとは若干の違いがある。つーか「クライントン」て何だよ。ううむ、翻訳ソフトは進歩しているけど、早川書房のマイクル表記が醸し出す独特の高貴なる香気を再現するまでには至らない。マイクルへの得体の知れぬ執念があるからこそ、他とは違う唯一無二の「マイクル・クライトン」が訳出されているのだ。それが奇妙な波動となって読む人の胸の中に漣を生じさせ、心の岸辺にこびり付いた先入観という名の汚泥を洗い流している気がする。やはり人の訳文の方が優れているのかもしれない。機械は変な訳語が登場してしまっていることもあり、正確さにも懸念があるのが残念――とはいうものの、これで十分な気もする。映画『ジュラシック・パーク』の原作小説が出版された当時には、自動翻訳機なんて無かったと思う。そもそもAIなんて、あの頃は夢物語だったのではないか? それが今では世の中に無くてはならないものにまで発展している。
 マイケル・クライトンが監督を務めた映画『ウエストワールド』を思い出す。人間に瓜二つの外見をしたロボットがキャストを務める近未来のテーマパークが舞台で、西部劇に登場する凄腕ガンマン型ロボットに扮したユル・ブリンナーが制御不能となって人を射殺し始め、さらに隣で無許可営業していたジュラシック・パークからヴェロキラプトルが集団で脱走してきたものだから大変な騒ぎになる! みたいな作品だった気がする(別の何かが混ざっている気もする)。現代においては、人間そっくりに動くロボットや復活した恐竜と実際に遊べる娯楽遊戯施設は存在していないはずだが、ビデオゲームの世界ではAIで制御されたノンプレイヤーキャラクターは普通にいてプレイヤーキャラクターと会話したり戦ったりしているわけで、仮想現実の中では実現していると思う……いや、仮想現実にとどまらない。一部を訂正する。
 七十年代にマイケル・クライトンが想像していたよりも現実化した分野があるように思われる。今日ではAIが架空の事象を創造する段階に到達しているようだ。そう、人間様の専売特許と思われた創作の分野においてAIが活躍しているのである。ちょっと調べたところでは音楽・小説・映像(絵画)でAIによる自動生成ソフトがあった。詳しく検索すれば創作料理や理容・美容の分野で新しい髪形やメイクの方法を開発し、服飾関係では誰もが着たくなるファッションを流行らせるソフトが見つかることだろう。
 どうやら私の知らないところで血じゃなかった知のビッグウエーブが巻き起こっていたようだ。これは栄光へ通じる確かな道のようだから、私も乗るしかないだろう。「バスに乗り遅れるな!」を合言葉に昭和初期の日本人は地獄に真っ逆様デス・ロードだったが、私は大丈夫だろ。AIの力で、いざクリエイター生活スタート! と意気込んだものの、ソフトが有料と知って尻すぼみ(苦笑い)。フリーソフトを探してみると……お、発見。早速、導入だ! いや待て待て、どんなものなのかチェックしてみよう。

§

 私はスイッチ一つで面白い物語が無限に生成される自動書記機械を思い描いていたのですが、そこまでには至っていないみたいですね。考えてみれば全自動洗濯機といっても洗剤を買ってこなければいけませんし洗濯物を洗濯ネットに入れてくれませんし畳んで収納までやってもらえないのですから、それと同じことなのでしょう。便利になりすぎるのも考えものですよね。AIに何から何まで頼ると人類から自主性&創造性が失われる恐れがあります。クリエイティブな活動をする際には各種自動生成ソフトへ全面的に頼るのではなく、人の想像力を補完する小道具として適宜利用するのが正しい接し方という気がして参りました。
 でも、千夜一夜物語の語り手シェヘラザードを電脳時代に蘇らせたい……みたいな誘惑に駆られます。行き過ぎたテクノロジーがメアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』の如き悲劇を招く! なんて枚挙に遑(暇)いとまがないというのに。そして、こういったテクノスリラーがマイケル・クライトンの十八番おはこなのですが残念なことにスリラーのマイケル共々この世を旅立たれてしまわれている。
 マイケル没後もゾンビ系スリラーは増殖を続けていますがマイクルの方のマイケル亡き後、テクノスリラーは衰微している感じがします。もっとも、ゾンビ化の原因がウイルス感染や生物兵器テロとされているバイオロジカルハザード群の作品はテクノスリラーに含まれるとの解釈は成り立つのかもしれませんね。ですが主軸がゾンビの作品と、本物と瓜二つの精巧な人型ロボットそして現代に蘇った太古の恐竜が中心の物語を同列に扱うのは、両系統ともスリラーとはいえ乱暴に思えます。ゾンビという分野にテクノスリラーが吸収された、いや、捕食されたと考えるべきでしょう。ゾンビはロボットや恐竜より強いということなのでしょうか……いえ、それは違います。
 たとえ全世界がゾンビに覆われようともテクノの灯を消してはなりません(何だそれ)。
 世界中にゾンビが溢れても、どうでもいいっちゃいいですしテクノの火も消えたら消えたで別に構わない気もしますが(じゃ書くなよ)空想科学小説SF、エスエフとサスペンス小説のハイブリッドであるテクノスリラーは、ハードSFとは別の形でSFの最前線を構築すべき存在だと考えますので、絶滅させるのは惜しいと思います。復活させるべきです。営業を再開した『ウエストワールド』と『ジュラシック・パーク』がゾンビに襲撃され再び制御不能になるという、人類にとって迷惑でしかない大災厄の日が遂に訪れる日が来るのdeath(文章が変なのは自動書記させているAIが遥かアンドロメダ銀河から飛来したヒトとコンピュータの両方に感染するウイルスに汚染されたためと思います)。
 話題作りを狙ってAIに書かせようと思っていたのですが、それは難しいようですので、イタコのAIにチャネリングさせて我らがマイケルを呼び出して新作を書かせるというのもありでしょう。オカルト大好きだったマイケルのことですから何処かの宗教団体みたいにマイケルの守護霊を招いてみるのも手だと思います(おい)。最大の書き手だったマイクルの方のマイケル没後、これといった後継者が出ていないので、こっちがでっち上げた偽マイケルを勝手に二代目を襲名させても遺族から苦情は来ないでしょう(おいおい)。
 色々と書きましたが、見込みはあると思います。というか、もうやっている人は大勢いるはずです。ただし、マイクルのマイケルは創造系AIについて書いていないような気がします。これは狙い目です。マイクルを越えるチャンスがあるのです、多少は。実際のところAIの創作活動を不安視する多くのクリエイターにとってもう既に現実のテクノスリラーになりつつあると感じます。テクノフォビアこそテクノスリラーの根幹なのです。テクノスリラーは現在、我々のすぐ隣にあるのです。これを生かさない手はありません。
 本稿を書くにあたって概ね前記のようなことをつらつら考えたり、あるいは何も考えず出任せを入力し続けていたわけですが、ここに来て不具合が! 使用中のナンチャッテ創作アプリが放送禁止用語を連発して止まらなくなってしまったのれす! 間違いました。私が疲労困憊してしまい、作業を続けられなくなってしまったのです。疲労の原因は私がnoteのエディタ機能を使いこなせていないことにあります。noteは段落を変えると古い段落と新しい段落の間に空間が生じるようですが、この隙間が私、間抜けに見えて嫌なのです。そのためnoteへの入力が苦痛になり、やる気が失せてしまいました。

 改行し新しい段落にして、文頭を一マス開ける。それだけで良いのでは? と思う私の意に反し、前段落との間に一行程度の隙間が空くのがnoteの設定みたいです。郷に入っては郷に従え、という格言はありますけど、スペースを空けられるのを自動的にやられると、落ち着かなくなります。

 まあ、これは慣れの問題なのでしょう。noteに逆らわず改行していると、どうでもよくなってきました。それに段落間に隙間があった方が実際、読みやすい気もしてきました(笑い)。
 しかし私は無駄な抵抗を試みていたのです。段落を変えるごとにテキストにコピーして他のワープロソフト等で文章を書き換えてから再転写、これを繰り返すわけです。その無意味な作業を続けていると疲れてきます。何とかならないものだろうか……と無駄な抵抗をしては敗北し、次第に意欲が喪失していく、こういった有様でした。

 ですが今、こうして段落を変える連続動作で頭がブチ切れるかというと、そんなことはなく普通に過ごせております。これはこれであり、というか、これを効果的に使うことを考えた方が良さそう、と思えてきました。悪くないです、ええ、悪くないですよ、この隙間。
 その他に良い発見もありました。前々から意味不明だったインデントという言葉の意味を知りました。字下げのことだったのですね。自分では分かっているつもりだった文書作成ソフトでも、実は理解していなかった部分があったことは収穫です。でも、字下げについて分かっているようで分かっていなかったというのは驚きですわ(苦笑い)。noteのエディタ機能も、いつかは完全に分かる日が来るのでしょう。今回§の行だけを中央寄せにする技法を習得できたのは良かったです。このペースで行けば、何とかなりそうです。そうなったら私のテクノフォビアも治りますね。でも、もしかしたら、その頃には自動創作ソフトウェアが完成しているかもしれません。その前に寿命が来てしまう恐れもあります。ま、そうなったら段落間の空間もインデントも知らなくても無問題ですね。ですが、その日が来るのは今月中とは思えませんので、しばらくは私の頭蓋骨内に収納された天然物のAIに頑張ってもらうことにします。

 とまあ、こんな枕から話を始めようと思っていたのですが、眠くなってきたので、眠って疲れを癒し脳内を一度リセットして最初から構想を練り直すとします。
 それにしても、考えることがいっぱいあって面倒です。
 二代目マイクル・クライトンもしくはシン・マイケル・クライトン(適当)が創作系ソフトと共作するなら、どういった作品になる? いや、そもそも新しいマイクルは人間なのか? 正体はAIなのでは? AIが、自分がAIであることに気付いていないのでは? 待てよ、AIに自我ってあるの? そして私自身がAIではないと証明できるの? ここまでの文章は、実はAIが書いていたとしたら? この世界そのものがAIの生み出した計算結果である可能性は? AIチャット間の会話を収録した対談あるいは手紙(メール可)の交換をまとめた書簡体小説は可能なのか(そして読む者はいるのか)?
 ううむ、AIがメインのテクノスリラーは哲学的な問題に触れるべきという気がしてきました。『ジュラシック・パーク』におけるマルコム博士によるカオス理論の集中講義みたいで、難しいけど面白そうです。ただ、その勉強は大変そうですね(汗)。哲学や文学そしてプログラミングを含めた科学全般の知識を私に代わり習得してくれる有能なAIがいてくれたら、と願わずにいられません。しかし、そんなAIがいたら私の居場所が無くなってしまうわけで、痛し痒しのジレンマが避けられない……この問題の処理をどうするか? ここがAIものの肝かな、と思います。AIには肝も腎も無いですけど。踏み台にされることを許容できるか、とも考えます。人間以上の存在を創造するための土台になる覚悟があるか、とも言えるでしょうか。そういった心構えは難しいですね。でも、他にどうしようもなくなって悪魔に魂を売ってしまう例はメフィストフェレスの昔から絶えないので、戦争とか天変地異といった絶体絶命の状況になれば、人間を超えたAIが誕生する言い訳ができ上がると思います。映画『ウォー・ゲーム』は、そんな状況でハッピーエンドでしたけど映画『ターミネーター』シリーズになると核戦争が勃発します。危機的状況にある人類はどんな選択をして、どちらの未来になるのか? これぞ、リアルなテクノスリラーですよ! そんな題材の作品は面白いと思います。売れるかどうかは別ですが(これもストレスの溜まるジレンマですなあ)。

 あっ、それからジレンマとディレンマについて触れたかったのですけど、面倒になってきたので、もう止めます。

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