嬉しくて泣いちゃいそうな日

北への旅を終え、久しぶりに通常モードへ。大学の部屋にも暖房が入ったことだし、もうねここに住みたいわ〜

午後には指導教員Cからの返信メール。旅の間に仕上げた私の書評のドラフトについての修正点などをこまかーく指導してくれて。泣ける。ありがたい。

私は英語ネイティブでないから、うまいフレーズが浮かばない時にはgrammarly やDeepLも使いつつ文章を作成するけど、本当にありがたい時代になったものだ。とはいえ、AIが作成した文章は、ネイティブでない私にさえ、いかにも”AIっぽい”文章だなあ、と分かることもしばしばある。今ところのAIの力、全能からはほど遠い、やはり人間の方が能力が高いと思える今の状態が、ちょうどよい。

加えて、最終段階にはchatGPTにも尋ねる。「こんなんできましたけど、英語としてどう?」と聞くのだ。chatGPTが「提案」してくれる修正点には、なるほどね、と思えるときも多いのだが、いやいやそれは全く違うぜ、とか、うーんニュアンスが違うなあ、とか、それでは私らしさが失われてしまう、という時もある。要するにchatGPTも使いようだ。間違ってもchatGPTにタスクを丸投げするなどということはできない。そういう今の段階が、ちょうどいいなと思う。

私の英作文力とAIの力を借りてできた「私の書評」だが、それでもネイティブの大学の先生が読むと、修正点がいくつか必ずみつかる。このことは、東京の大学で私が留学生たちの論文の日本語支援をしていた経験からも、本当によく分かる。「意味が通るからいいでしょう」ではなく、学術的にはこう書く方がよりよい、という指摘。そのレベルになると、指導者の「癖」が反映されるにすぎないということも大いにある。しかしやはりこの経験を積んで行かないと、外国語でアカデミックな文章を書く力は身についていかないことは、すでに20代の時のアメリカ留学の時に学んでいる。だからこそ、真摯に修正してくれる先生、指導者の存在がありがたい。

念のため加えておくけど、指導教授Cが英文の修正を行ってくれたことより、むしろ中身をじっくりと吟味してくださったところが素晴らしい。書評だからそれほど長い文ではないけど(1200ワードくらいだったかな)、指摘はきめ細かく的確で、私自身、「ここは真意を伝えるのが難しいところだなあ」と思いながらなんとかまとめたところなどには、鋭く指摘が入る。学者として、とても誠実な人だと思う。

夕方からは、今通っている教会から提供されるウェブ上生配信を楽しむことに。

この教会にはサムやサリーの他にも素晴らしい牧師たちがおられるので、折をみてここでもいつか言及できればと。昨日はエディンバラから帰ってすぐ、夕方にトラファルガー広場に向かい、サム・ウェルズ司祭によるレクチャーを拝聴したので(すごい人数!)、2日連続サム・デーになりました。

ここの教会は、毎日のように魅力的なイベントや社会活動が盛んに行われていて、それらをフォローするだけでも大変。
教会に関わることが第一目的の留学ではないからね。日中は大学での研究で忙しい。だから他の教会が今どんな感じなのか、まだ比較ができていない。もしかしたら、ここだけが飛び抜けてすばらしいのかもしれない。

それはとにかく、これまでのキリスト者としての生活の中で、(自分たちによる教会活動を除けば)すばらしい教会、通いたいと思える教会に、初めて出会えたと思い、泣ける。少なくとも週3くらい、礼拝を含めて何かしらで通うことになっているが、疲れていても「やはり行こう」という気になる。できる範囲での(ごく少額の)献金も、当然だとも思える。

私が教会に求める最優先は、何よりもその教会を率いる牧師や司祭の神学的土台の確かさだ。これは若い頃、20歳くらいの頃から一貫している。そして残念ながら、この要求を満たしてくれる教会には、日本でもアメリカでもほとんど出会ったことがない。

同時に、自らの至らなさへの情けない振りも含めて。

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