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”楽しい”とひねくれ

友達に誘われて無償で行くことができたイベントに行った。
「SusHi Tech Tokyo」というイベントで持続可能な新しい価値を生み出すTechイベントでした。

あまり僕自身、”持続可能sustainable"に関して考えたことはない。なぜ持続可能性というものがあるのかと、何をもって持続可能性なのかと。
それはある意味人間をより生かすための持続可能性でもあるのかなと思う。

持続可能性 (じぞくかのうせい、 英: sustainability〈サステナビリティ、サステイナビリティ〉 )は、将来にわたって現在の社会の機能を継続していくことができるシステムやプロセスのこと。

持続可能性-Wikipedia

これについて感じていることを書くが、それははたして社会というものの機能を継続させることに何があるのかと感じる。
社会に関しては選好構造群の変化やいろんな情勢の事情によって変換する。
そしてまず第一、現在の社会の機能は継続するほどにニーズがあるのかということ。
例えば、皆が皆、自然に対して需要を感じていたりするかで考えてみると分かりやすい。
最近よくでてくる、”サウナ”。あれは果たして良いものなのかと思う。
もちろん副交感神経を優位にさせてリラックスはできるが、それはある意味”サウナ”という条件によって副交感神経を豊かにする。
自然というものが~であるというものを定義できれば、それはこの話に関しての整合性がつくが、果たして自然というものそのものがサウナ同様に定義できるかという話でもある。
そして人間には刺激馴化というものがある。なので必ず”サウナ”というフレーズでも必ず副交感神経が刺激されにくくなっていくのは目に見てわかる。
僕自身は自然というものに関しては何が起こるか分からない→いつ死ぬかもわからないし、いつ何が起こるか分からないものだと思います。例えば地震そのものを見ればわかりやすいかなと思います。
地震に関して予測できるようになれば死者は減ります。ただ自信というものもまた自然にあるものです。
それは人間の手によって予測できるものなのでしょうか?僕はそうは思いません。
こう考えてみると自然に関して、自然の負を想像するからこそsustainable societyを目指そうと思うのです。
もちろんテクノロジーの変化とは、自然→社会から”やってくる”からこそ進化してきたとも思います。
ただそれ以上に社会の機能の継続として自然を守りたいということもわかりますが、そのこと以上にDX化による思考力の低下によって自分がよければそれでよいという人が増えていっているのは確かです。


人間はもとより集団で生活してきた動物です。果たしてそのTechを発達させるのがヒトを、自然を守ることにつながるのでしょうか?
僕自身は自然の中で友達や、親戚の人と遊んだ焚火や木登り、おにごっこなどによって楽しんできました。
楽しんだことがある場所って基本残しておきたい!という内発的な動機が動かされるはずです。
想像してみてください。昔あった保育園でも楽しい思い出があったのにその保育園が撤去といったら悲しいですよね。
それと同様に自然を守りたいというものも同じ例で理解できると思います。
僕はこのような社会情勢の中でどれほどテクノロジーが進展しても、”楽しい”から、”楽しい思い出がある”からという内発的な動機付けがない場合には環境破壊はおそらく止められないと思います。
ビジネスという観点で見るとSustainabilityという潮流の中での資本主義下での利益追求の道具にしかならないと思います。
会社を生き残らせるためにSustainabilityに沿ったテクノロジーを開発する、この基準での技術が進化するのでしょうか。
人間は生存確率を高めるために文明化を築いてきたと思いますが、その結果として”自然”そのものを排除して、利益最大化・合理性の追求が暴走しているのではと思います。
その結果自然が崩壊し、持続可能な社会は築けずの文明が滅ぶ。それは過去の文明からも見えることだと思います。
これは生存確率を上げようとしすぎて、それがいつかの時間帯によって生存確率が下がってしまったのではと思います。
これは見田宗介の「自我の起源」に書いてあるランナウェイと同じ意味です。
僕自身はテクノロジーに関しても、もちろん楽しんだり、実際に活用してりすることもよいが、どんな仕組みでどうなっているかみたいなことを理解できるようにならないと何も意識せずに周り見て誰もいない。そして人々が孤独になってしまったりするのだろうなと思います。
そうはいっても僕も時代の潮流に合わせて生きている節はあるので難しい課題だろうなと思います。
ただいつ何があるか分からないからこそ、たまたま起きる偶然の出来事に奇蹟めいたものを感じるし、そこに感動を覚えたりすることもあります。それが自然なのです。
自然と社会というものを考えると極めて難しいなと思いつつ、実際にその中で生活していると山きれいだな。海きれいだな。川きれいだな。誰かと一緒に来てもいいな。とかふと思うものです。ある意味意識してテックを作るよりも、何も意識せず、ラフに空見て今日もきれいだな~って思ったりすることのほうが自然をかえって守れることに派生していくと思います。
今発達しているものに関しても別に否定するものでもなく、その社会の選好構造群によって影響され相対化した人々がイノベーションを起こしてきたと思うのでそれはずっと残り続けると思います。
この世を受け止めるのは、その矛盾を受け止めることでもあるのが分かります。


休学している最中ですが、僕と同大学の友達がそのイベント後に会いに来てくれました。みんな公園で、ラフに何か飲み物を飲んで談笑して寝っ転がったりしたのは楽しかったなと感じます。
特にこのあと言うこともないので、いろんな人に会えて楽しかったなと思い閉じます。


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