見出し画像

『小説ですわよ』第5話

※↑の続きです。

 今日からは事務所に出勤することになっていた。舞は到着して、これは夢ではないかと乳首を引っ張った。小原によって破壊されたショッキングピンクのハイエースが、何事もなかったかのように駐車場に停まっている。乳首は痛かった。まあ、返送者を異世界送りにするような車だ。よくわからないカラクリがあるのだろう。舞は自己完結して2階へ上がる。

「おはようございま~す」
 事務所に入るとイチコ、綾子、岸田がそろってテレビを見ていた。
「おはよ~」
「おはよう」
「おはようございます、水原様」
 3人は一瞬だけ舞へと振り返り、またテレビに集中する。バイト2日目でもうこんな扱いか。舞はムッとしたが、こらえてコートを脱ぐ。昨日の白ジャージは選択したので、今日はピンクのジャージだ。
「なに見てるんですか?」
「ん~、神汁騎士~」
 ケーブルテレビのローカルチャンネル・ちんたまテレビのニュースコーナーだ。青いワイシャツに赤ネクタイ、縦縞の入ったジャケットというDVをしてそうなホスト風の男が、アクティブにどう、ポジティブにこうと顔をテカテカさせて喋っている。テロップには「今 大注目! ポジティブライフ・クリエイター 神沼 蓮かみぬまれん」とあった。
 神沼はS県ちんたま市在住の実業家で、健康食品や化粧品などをプロデュースしている。特に青汁が主婦を中心に爆発的な人気を得て、神汁騎士として最近テレビで見かけるようになった。舞の母曰く「優しそうなイケメン」だが、こんなローションを塗った顔面のなにがいいのか舞には理解できなかった。その神沼が再来週のちんたま市長選挙に出馬するということで、ちんたまテレビでインタビューを受けていたのだった。
「水原さんは、神沼のことをどう思う?」
「え~っと……はは、よくわからないです」
 正直に言いたいが、もし綾子たちが神沼のファンならば悪いと思って愛想笑いでごまかした。
「遠慮しなくていいのよ。こんなDVしてそうで、顔面テカテカローション男のことなんか好きなヤツいないんだから。大体ポジティブライフ・クリエイターってなんなのよ。なんでもクリエイターって付ければ凄いとでも思ってるのかしら。本当に薄っぺらい男。で、水原さんはどう?」
「今、社長に全部言われちゃいました」
「ハハーッ! でも姐さんは嫉妬もあるんじゃないの? 同じちんたま市の人気者でテレビにも出てるしさ」
「お黙り!」
「はいはい、皆さま。水原さんがいらっしゃったことですし、そろそろ仕事にかかりましょう。こちらをご覧になってください」

 綾子が舌打ちしてテレビを消し、岸田がテーブルに置いたタブレットを全員で覗きこむ。またも神沼の写真がテカテカと映っていた。
「この男、必ず異世界にブチこんでやるわ」
「えっ、返送者なんですか?」
「まだ証拠はないよ。でも事件を起こす一部の返送者たちの背後には、神沼がいるんじゃないかって睨んでる。じいや、あれ見せて」
 岸田がうなずき、映像を再生した。神沼がちんたま市の公園で行った炊き出しの様子だという。並んだホームレスたちに、神沼がテカテカ笑顔で具だくさんの味噌汁を配っている。
「姐さんも、変なスピリチュアルグッズ売ってないで、こういう慈善事業で名前を売ったらいいんじゃない? ホームレスの人だって助かるだろうし」
「あんた、いい加減にしないと怒るわよ」
 岸田は知らぬふりをして、再生バーを終了間際までスライドさせる。今度は神沼がマイクを持ち、やはりテカテカ笑顔でホームレスに演説する様子が映る。
「僕は皆さんがポジティブにッ! アクティブにッ! 生きられるよう、ちんたま市をクリエイティブッ! な精神で改革していきます! 今後とも、どうかよろしくお願いいたしますッ!!」
 大半のホームレスが白けた顔で味噌汁をすする中、端に立つ数名の男たちが「おーっ!」「がんばれーっ!」と拳を天に突き上げ、歓声を上げる。その中には見覚えのあるバンダナ男がいた。
「これ、小原ですよね」
「ええ。神沼に共感している他のホームレスたちも、異世界送り済みの返送者よ。いずれも炊き出しから数日後、神沼の関係者と思われる男と接触し、“ボランティア”を行っていたわ」
「ボランティア?」
「再開発に邪魔な古いビルの地上げ。政敵となる前市長への脅迫。あとは市議と繋がっているヤクザや半グレの粛清などね」
「うわぁ……ド直球の悪党じゃないですか」
「それでも神沼に直結する証拠は、まだ見つかっていないわ。というわけで……」
 岸田がタブレットを操作すると、5名の返送者リストが表示される。1名は顔写真がなかった。
「神沼の講演会や、青汁試飲イベントに参加していた連中よ。やはり神沼の関係者らしき男と接触している。今日は丸一日、こいつらを探ってもらうわ」
「情報を得られず、抵抗されたら?」
「全力で轢いてやって。神沼への揺さぶりになる」
「はいっ! ひとり残らず、異世界へブチこみます! いつか神沼も!」
 こんな巨悪を轢いたら、さぞかし気持ちいいであろう。舞の闘争心は血流となって全身にみなぎっていた。
「いやあ、気合入ってるね。頼もしいよ、水原さん。桃色のジャージだけに桃太郎侍みたいだ」
「ひと~つ、人の世の生き血をすすり。ふた~つ、不埒な悪行三昧。み~つ醜い浮世の鬼を、退治てくれよう、舞太郎侍!」
 キメ顔で見得を切ってみせた。
「よっ、高橋真麻!」
 だが拍手するイチコに、綾子も岸田も「それは娘だろ」とはツッコんでくれなかった。口をあんぐり開けて固まっている。
 舞はこの“すぐに余計なことをする悪癖”をなんとかしなければと思った。

 ハイエースに乗りこむと、イチコはサングラスではなく奇妙なメガネをかけた。フレームの左側が〇、右側が□になっている。
「イチコさん、それってイェール大学助教授の!」
「そう。姐さんが作ってくれた、知力がアップするメガネ。返送者を探知する機能もあるよ。レンズ越しに返送者を見ると、ぼんやりピンクに光るんだ」
「いいなあ、私も欲しいです」
「今、新しいのを作ってるんだって。数日中にはできるそうだよ」
 と、カーナビが勝手に起動する。
「私はお役御免というわけですね。お世話になりました」
「すねないで。あくまでメガネは補助。キミのナビには敵わないよ」
「そういうことでしたか! では今日も張り切って参りましょう!」
「アガる曲、よろしこ」
 今日は北島三郎メドレーが流れた。

--------------------------------------------------------------
▼名前:尾伊 築雄びいちくお
▼年齢:26歳
▼性別:男
▼職業:中裏筋駅近くで派遣型SMクラブを経営
▼能力
 ①放電
 ②自らを含む、周囲3メートル内の人間の乳首を避雷針に変える。
▼状況
 09:00 尾伊が経営するSMクラブ事務所を訪問。
    09:20 神沼との関係を問うも、尾伊が抵抗したため、返送。
▼対処
 軍団が手配していたラバースーツをアダルトグッズで受領後、森川・水原両名が着込み、放電を無効化。事務所内の電流がすべて尾伊の乳首に流れこみ、気絶したところを外へ運び込んで返送。
▼備考
 神沼は一度店を利用しただけで、尾伊との繋がりはないとの主張。
 尾伊は異世界で様々な特殊プレイを広めたらしい。
  (森川イチコの報告書より)
--------------------------------------------------------------

--------------------------------------------------------------
▼名前:保良 吹好ほら ふきよし/宇生 月うそう るな
▼年齢:保良30歳、宇生24歳
▼性別:男/女
▼職業:さいたま市を拠点とするカップルインチキYouTuber
▼能力
 保良:直近10秒の出来事を「ドッキリでした~♪」と言うことで、なかったことにできる。1日の使用回数に限度がある模様。
 宇生:自分と同じメイクをした視聴者を洗脳・操作する。
▼状況
 10:15 Youtubeのコラボ依頼と称し、保良と宇生を呼び出す。
 10:17 神沼との関係を問うが、両名とも抵抗。
 10:28 両名を返送。
▼対処
 水原は両名が運営するYouTubeチャンネルの視聴者であり、宇生のメイクを参考にしていたことから洗脳され、森川に襲い掛かろうとする。しかし心に住まう相撲の精霊により洗脳が解除。怒りの必殺“のど輪”で宇生をKO。
 保良がそれを能力でなかったことするが、水原の怒りだけは消せず、今度は宇生と保良まとめてKO。森川が返送。
▼備考
 保良と宇生のチャンネルでは“案件動画”として、神沼の商品が定期的に紹介されている。近日、神沼が出演して市長選のアピール動画を撮影する予定もあったようだ。しかし神沼との直接的な関係性は見つからなかった。
 市長候補者のkenshiなる人物は、チャンネルの熱烈なアンチで、執拗に誹謗中傷などを書き込んでいたようだが、市長選との関連は不明。
 明日から、メイクは仲里依紗のチャンネルを参考にします。
  (水原 舞の報告書より)
--------------------------------------------------------------

--------------------------------------------------------------
▼名前:標下 栖多郎しるべした すたろう
▼年齢:36歳
▼性別:男
▼職業:無職。ちんたま市御成区の実家に在住。
▼能力
 手にした銃器の弾丸を無限にする。
 銃器は異世界で入手したもの。
▼状況
 11:10 宅配業者を装って、標下宅を訪問。
 11:12 標下とランボー1作目を見ながら話すこととなる。
 12:40 映画終盤で標下が突如興奮し、アサルトライフルを乱射。
 12:41 標下を返送。
▼対処
 標下は、異世界では戦争を終結させた英雄でありながら、現世界においては居場所のない自らの境遇をランボーと重ね、不安定な心理状態にあった。そこで森川がランボーの上官のモノマネで話しかけると、落ち着きを取り戻し、全員でなぜかランボーを見ることになった。
 しかし映画の終盤、ランボーが自分の悲しみを叫ぶ場面で、標下が興奮。アサルトライフルを乱射し始める。銃弾を避けながら、標下宅の冷蔵庫にあった伊藤ハムを標下の口に突っこんだ。
 すると標下は「伊藤ハム イズ オイシイ アハハァ」とシルベスター・スタローンが出演していた伊藤ハムのCMのマネをして沈静化。家の外へ誘導して、森川が返送した。
▼備考
 宝屋たからやなる人物から、標下に護衛の依頼がメールで届いてたことが判明。件名に「護衛の依頼」、本文に「12月26日」とだけ記されていた。26日は選挙が行われるが、神沼との関連は不明。宝屋のアドレスに返信してみるも、エラーが返ってきた。
 標下は大摩羅駅前で行われた神汁の試飲会に参加したことがあり、そこで神沼の関係者と思われる大柄な男に話しかけられたという。ただし男の特徴も会話の内容も覚えていなかった。
 標下はこのメールは、神沼が自分を見出してくれのだと思いこみ、選挙当日は銃器を持参して、神沼の選挙事務所を護衛するつもりだったと語る。
  (水原 舞の報告書より)
--------------------------------------------------------------

--------------------------------------------------------------
▼名前:ニシ タマオ(通称:タマちゃん)
▼年齢:不明
▼性別:オス
▼職業:アゴヒゲアザラシ。横浜市西区の名誉区民。
▼能力
 人間をおびき寄せる能力。
 ただし異世界で得た超常能力なのか、タマちゃんの魅力かは不明。
▼状況
 14:00 さいたま市裏筋区の屋良瀬川でタマちゃんを発見。
 14:10 ハイエース搭載の捕獲ネットでタマちゃんを引き上げる。
 14:30 タマちゃんを軍団に引き渡し、海に返す(予定)。
▼対処
 ショック死の危険があるため、引き上げは慎重に行った。タマちゃんは特に抵抗しなかった。引き上げ後は、ペットショップで購入した熱帯魚用の巨大水槽に入れた。タマちゃんに罪はないので海に返すことにした。
▼備考
 近隣住民によると、タマちゃんは屋良瀬川からとってヤラセちゃんと呼ばれているらしい。
 トレンチコートを着た大柄の男が、しきりにタマちゃんを観察しに現れていたという証言を得た。
 詳しいことを聞きたいが、タマちゃんはアザラシなので喋ることができない。「ゴロロロ」と水原に鳴いていた。調べたら求愛行動らしい。
  (森川 イチコの報告書より)
--------------------------------------------------------------

 タマちゃんを水槽に入れて、軍団を待つことになった。軍団のひとりが合流し、タマちゃんを海に返しに行ってくれるという。
 ほどなくして黄色のキャンピングカーが現れた。運転席から、これまた黄色いスウェットの巨漢が降りてくる。
「どうもっす、イチコさん」
「おお、イエロー。おつかれ」
 イエローと呼ばれた男が、舞を見つけて会釈する。
「新人さんだね。初めまして、イエローです」
「水原 舞です。えっと……イエローさんでいいんですか」
「名前、社長に取られちゃって。だからイエローです」
「そんな、どこかの国民的アニメ映画みたいに名前を取られるって……」
「あります」
「わかりました」
 舞は追及を止めた。黄色のスウェットだからイエロー。わかりやすくていい。それ以上は考えても無駄だ。
 イエローはタマちゃんの入った水槽を軽々と持ち上げ、車内へ運びこむ。
「バイバイ、タマちゃん。元気でね」
「ゴロロ……」
 タマちゃんは消え入りそうな声で、舞に向かって前足を上げた。
「それじゃ、イチコさん、水原さん。また事務所で」
「うん。カレー作っといて」
「リクエストあります?」
「Jリーグカレーの中辛」
「自分で買ったほうが早くないっすか」
「販売終了しちゃうんだって」
「復刻したばかりなのに? あ~、それじゃ仕方ないなあ」
 イエローは運転席に乗り、キャンピングカーを東京方面へ走らせていった。見送ってから、舞たちもハイエースに乗りこむ。
「Jリーグカレーって作れるんですか?」
「イエローは、あらゆるカレースパイスを調合できるんだ。そういう能力っていうか」
「もしかして軍団の人たちって、返送者?」
「ううん。ただの才能をもった無職」
「才能かあ……」
 舞は、特に秀でたところのない凡人だ。社会適性を考えれば、凡人以下のダメ人間ともいえる。昨日イチコは舞の度胸を褒めてくれたが、それは才能と誇るべきなのか、よくわからないでいる。
「さ、行こう。あと1人だ」
「は、はい。次はエステティシャンの女ですね。膳 律子ぜん りつこ

 ハイエースは南裏筋駅前の東口に到着した。舞の家は反対の西口にあり、こちらへ来たことは殆どない。牛丼屋や銀行、パチンコ屋が並ぶ通りから狭い路地に入り、「桃色天国」という看板が見えたところで車を停める。
 事前の調査によると桃色天国は、男性向けマッサージ店兼エステということだ。神沼の関係者らしき人物の出入りが何度か目撃されており、今回の標的である膳 律子をよく指名しているという。
「さて、どうやって潜入しましょう。バイトさせてくれ~とか」
「バイトは募集してないらしいよ。客として入るしかない。もう予約はしてある」
「でも男性向けなんですよね。軍団の人、さっきのイエローさんとかに潜りこんでもらったほうがいいんじゃ……」
「最初は軍団が潜入調査をしてたんだけど、揃いも揃って本番強要して全員出禁になっちゃったんだって。まあ、帽子でも被って声を低くすればごまかせるでしょ」
 イチコは髪をまとめて、深々と被った野球帽の中に押しこむ。胸の大きなふくらみは、どうごまかすつもりか。そもそも服を脱ぐのではないのか。
 舞が聞こうとする前に、イチコは小型盗聴器(大瓦の鰻屋へ潜入した際に使ったものだ)を襟につけ、運転席を降りてしまった。
「標的は捕まえるつもりだけど、店の外へ逃げたら轢いちゃって。このへんは道が狭いから、後ろに積んでるモトコンポを使ったほうがよさそう。あれでも返送は一応できるから」
 盗聴器越しに話すイチコの声が、舞のスマホから聞こえてくる。
「モト……なんでしたっけ。冬木?」
「サムソンクラッチ。カギはボンネットに置いてあるから。ハハーッ!」
 イチコは意味不明な答えを返し、舞の返事を待たずに桃色天国のある雑居ビルへと向かっていった。

 舞はボンネットのカギをとって車から降り、トランクを開けて、イチコが言っていたものを求めて漁る。例の棒やら用途不明の道具をかきわけていくと、お目当てのモトなんとかが現れた。舞の膝ほどの高さの小型原付で、ハイエースと同じように全面ショッキングピンクの塗装がほどこされている。
「モトコンポっていうのかあ」
 車体の側面にモトコンポと黒マジックの汚い字で書いてあったからすぐにわかった。適当に折りたたんであったハンドルなどを展開し、カギを刺す。
 そこで舞のスマホから、イチコの声が聞こえてくる。店内に入ったようだ。
「あの~、予約していた森原マイッチですけど」
「はい。エチエチリンパマッサージとツルツルパイパン剃毛のダブルコースでご予約の森原様ですね。担当を呼び出しますので、おかけになってお待ちください」
「ほーい」
(あの女、偽名に私の名前を混ぜやがった!)
 絶対にあとで怒ってやろうと思いながら、舞はウンコ座りのような形でモトコンポにまたがった。“おまる”みたいで恥ずかしい。通行人がいないのが幸いだった。

 それから2~3分ほど経って、スマホの向こうからヒールの音がカツカツと聞こえてくる。
「お待たせしました。本日はご指名ありがとうございます。担当の膳 律子ぜん りつこです」
「うーっす」
 律子のハイトーンボイスが「こちらへ」とイチコを案内する。ふたりの足音がしばらく続き、ドアの開閉音がした。

「お客さん、上着はないの? 今日寒いでしょう」
「新陳代謝がいいから年中ポカポカなんだ。チンチン代謝もね」
「うふふ、マッサージするのが楽しみ。早速だけど、脱いじゃおっか」
「下だけでいい? 上はちょっと怪我してて」
「あらそうなんだ。あ、帽子は?」
「アルシンドにナッチャウヨーだから、帽子も無理かな」
「そっか、大変ね。じゃあ下だけ脱いで、そこの紙パンツを履いて」
「向こう見てて。アレが小さくて、恥ずかしいんだ」
「照れ屋さんなのね、わかった」
 無茶だが、上手くごまかしたものだ。それとも律子はイチコの正体に気づいていて泳がせているのか? 衣擦れの音がして、紙のパリパリとした乾いた音へ変わる。
「履けたよ。そこのベッドに寝ればいい?」
「うん、仰向けで。お兄さん、胸がたくましいわね」
「あ~、これは……鍛えてて」
「へぇ、すごぉい。それじゃ、始めるね」
 やや間があって、オイルらしき液体のクチュクチュという音が聞こえてくる。続いておっさんのような、イチコのうなり声があがった。
「おっ、おおっ」
「冷たくない?」
「平気。ねえ、このお店って人気らしいけど、有名人とか来るの?」
「どうかな~? なんでそんなこと聞くの?」
「表じゃカッコつけてるタレントが、こういう店でアヘアへ言ってたら面白いな~って」
「……そうね」
「オホッ! そこは……」
「鼠径部のリンパに悪い毒がたまってるわね。念入りにマッサージして出しちゃいましょう」
「オホホッ、アハッ!」
「どう?」
「す、すごく、い……アハハハーッ!」
 いつもの笑い声とは異なる、色を帯びた叫びが何度も何度も繰り返される。
(まずい、すっかり楽しんじゃってる!)
「仕上げに、こうやって強めに」
「ハハーッ! アハーッハッ! ウッ!」
 無音になったあと、イチコの小刻みな吐息が聞こえてくる。
(おいおいおい、イッちゃったんじゃないの?)
「スッキリした?」
「はぁ……ふぅ……ああ、うん。すごいね」
「でしょ~。特別なオイルを使ってるの」
「なるほど、頭がフワフワしてきちゃった……」
 イチコの声には明らかな疲れがあった。
「お兄さん、肩こってそうだから、オマケでほぐしてあげる。うつぶせになって」
「ん……わかった」
「それでね、さっきの答えだけど」
「なに?」
「有名人が来るかって話」
「やっぱり来るんだ」
「…………」
「おねえさん?」
「あなた、あの人を探ってるのね」
「な、なんのことかな」
「……死にたくない!」
「なっ……!」
 ヒールがカカカッと素早く床を鳴らし、直後ドアの激しい開閉音が聞こえた。
「み、水原さん、逃げられた! 私は……身体が思うように……チャイナドレスの金髪ギャルを追って!」
「イチコさん!? ……了解!」

 イチコが言った通りの若い女――律子が、雑居ビルから飛び出してきた。舞に気づくとヒールを捨てて一目散に走りだす。舞はステップ後方のキックスターターを押し、モトコンポのエンジンを稼働させる。そしてアクセルレバーを握ると、モトコンポがウンコ座りの舞を乗せて弾丸のように飛び出し、律子を猛追する。
 律子は野外駐輪場に入り、自転車の列の合間を走りながら舞を撒こうとする。舞が翻弄されているあいだに、律子はフェンスをよじのぼって別の路地へ降りて走っていく。
「逃がすか!」
 舞は駐輪場の出口を抜け、律子を追いかける。スナックや質屋などが並ぶ路地を前につんのめりながら走る律子。路地は直線だ。舞はここぞとばかりに頭を下げて風の抵抗をなくし、スピードをあげる。律子との距離が縮まると、その素足の裏から血がにじんでいるのが見えた。
 路地は大通りへと繋がっており、交通量が多くて渡れそうにはない。律子はあきらめてタバコ屋とスナックの間にあるブロック塀の隙間に身体をねじこませた。さすがにモトコンポでも入れない。舞は律子の進行方向へ先回りすることにした。
 律子がブロック塀を抜けると、桃色天国のある路地へ戻ってきた。そこにモトコンポの控えめなエンジン音が近づいてくる。さらに、イチコが内股でヘナヘナと雑居ビルから出てきた。
 律子はあきらめて、息を切らしながら座りこむ。
「わ、わかった、知ってること話す! だから殺さないで!」
 狭い路地に律子の震える声が響いた。舞はイチコの目くばせを確認し、モトコンポにブレーキをかける。

 イチコと舞は、律子は息が落ち着くのを待ってから訊ねた。
「神沼があの店に来たんだね?」
「うん……」
「なにがあったの?」
「最初に来たとき、少しお酒が入ってたみたいで。マッサージしたら興奮して暴れ回って、廊下でウンチを漏らしちゃったの」
「あらら」
「その様子がカメラに移ってて、映像は神沼と一緒にいた男が没収した。口外すれば命はないって脅されたわ。それから仕事を手伝えって」
「どんな仕事?」
「市議会の議員たちを、できるだけ過激なプレイで接待して隠し撮りするように言われた。お尻に菊の花を挿して「菊門に菊を刺して効くもん」とか、あとは尿道在来線といって――」
「具体的なプレイ内容はいいや。とにかく議員たちの痴態を盗撮して、脅迫材料にしようとしたんだね」
「……多分。盗撮した映像は、定期的に神沼の部下が回収しにくることになってた」
「どんな男だった?」
「大柄で190cmはあると思う。いつもベージュのトレンチコートとハットををかぶってる。顔はフェイスマスクをしていて、よくわからない。声は低くて少しガラガラだった」
「なるほど、タマちゃんを観察してた男と一致するね。他に何かある?」
「な、ない! 本当に全部話した。だから助けて! 今の話が神沼に漏れたら絶対に殺される!」
 律子はすがるように、イチコのスウェットを掴む。直接何かをされたわけではないのに、この怯え様。神沼と部下は、直感的に恐怖を感じさせるものがあるのだろう。イチコは律子の背中をさすって、なだめた。
「安心して。漏れるのは神沼のウンコだけ。キミは私たちが保護する」
「ううん。私を異世界に返して。神沼から聞いたわ、あのピンクのハイエース、あなたたちのでしょ?」
「……神沼は私たちについて、他に何か知ってた?」
「いえ。異世界へ送り返せる以外は、調べても全くわからないと言ってた。もしハイエースの持ち主が現れたら、知らせろって命令された。するつもりはないけどね」
 舞の頭に疑問が浮かぶ。ピンピンカートン探偵社は、求人情報サイトで住所を明らかにしている。Googleマップにも載っており、1件だけだがクチコミもある。世間に明かされている存在ということだ。神沼ほどの人間がそれに気づかぬとは考えにくい。まだハイエースが探偵社の所有物だと知らないのか、軍団が上手く情報工作をしているのか、あるいは他に理由が――

 イチコが目線を送ってきたので、舞は思考を止めた。
「水原さん、彼女を轢いてあげてくれる?」
「あ、はい。わかりました」
 モトコンポにまたがり、エンジンを吹かす。
「ありがとう……っていうか、ハイエースじゃないの?」
「あのモトコンポでも返送できるらしいって、うちの社長が」
「らしい……ええっ、ちょっ、待っ……」
「どらっしゃぁぁぁい!」
「ぎゃあぁん!」
 舞のモトコンポが律子のスネを弾き飛ばす。律子は勢いで前方宙返りして背中から地面に叩きつけられた。
「いだっ、いだいいいいっ!」
 律子が粒子になる気配はなく、痛みにのたうち回る。舞がやっちまったという顔をしていると、同じ表情のイチコと目が合った。
「イチコさん、私は悪くありませんからね」
「私だって悪くないよ。姐さんが悪い!」
「あ゛ん゛だだぢい゛い゛い゛! ばや゛ぐ! バイ゛エ゛ー゛ズで轢ぎな゛さ゛い゛よ゛!」
「そうだった!」
 イチコと舞がハイエースへ走ろうとしたところで、ようやく律子の全身が光を放ち、粒子に変わり始める。痛みが消えたのか、律子はおだやかな顔でイチコたちを見上げた。
「神沼は市長になろうとしてるだけじゃない。もっと悪いことを企んでる。私の直感でしかないけど……気をつけて」
「うん、私も神沼はヤバイと思ってる」
「送ってくれて、ありがとう」
「こちらこそ、情報提供に感謝するよ。向こうで上手くやれるといいね」
「ああ、これでようやく解放された……この地獄から……王子様、今帰ります……」
 律子は完全に光の粒子となり、消えていった。
「なんか、嬉しそうだったね」
「わかる気がします。あの人が言う通り、この世界は地獄だから」
「水原さんも、異世界に行けるなら行きたい?」
「どうでしょう。根本的に別の生き物として生まれ変わらない限り、どんな世界へ転生しても私にとっては地獄なんだと思います。生きるのに向いてないんですよ」
 イチコが泣きそうな目で、舞の両肩を掴む。
「事務所に戻ったらさ、Jリーグカレーの中辛あげるね。残り1個だけど、水原さんにあげる」
「いや、あの……」
「私は! 私は、ほら! イエローに作ってもらうから! ね?」
「そこまで言うなら……貰います……」
 舞は安易な同情が嫌いだったが、イチコの同情はおバカすぎて反発する気になれなかった。

つづく。