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『小説ですわよ』第8話

※↑の続きです

 舞はイチコに事務所まで送ってもらい、そこから家へ戻った。すでに母が仕事から帰っており、台所でコップをすすいでいた。
「おかえり、舞ちゃん。でかけてたの?」
「ただいま。バイト先の人と遊んでた」
「上手くやってるみたいね」
「まあ、うん」
「よかった。神様は、頑張ってる人をちゃんと見ている。努力を怠らなければ、これからも必ずいいことがあるから」
「はいはい」
 いつもの胡散臭い話が始まった。舞は慣れているので、普段ならばなんとも思わないが、今日は違った。
(神様が本当にいたとしたら、そのケツ穴はやっぱり無数の異世界に通じているのかな。だとしたら最悪だ)
 想像したらニヤケてしまったが母の気分を害するとまずい。真剣に聞くふりをして母を見る。
「……」
「お母さん?」
 母はボーっと、蛇口からこぼれる水滴を見つめている。
「お母さん?」
 もう一度声をかけると、母は我に返った。
「あ、ごめん。ご飯の支度するね」
 疲れているのだろうか。舞は一日も早く借金を返して、母においしいお取り寄せグルメでも贈ってあげようと思った。

 翌日。舞が事務所に出勤すると、駐車場の前でイチコと赤いスウェットの赤髪ツンツン男が、スパーリングをしていた。昨日河川敷で野球をしていたのを覚えている。この男が軍団のレッドだろう。
 イチコはウィービングとダッキングで、レッドの素早い連続パンチをかいくぐり、逆にレッドの顔面へパンチを叩きこむ……寸前で拳を止めた。
「ウッス、ありがとうございました、ウッス! やっぱイチコさん強いッス。ウッス!」
「攻撃のとき、できるだけ肩を上下させないようにするといいよ。初動が読まれにくくなる」
「ウッス!」

 そこで、ふたりは舞に気づく。
「おはよ~」
「おはようございます。そちらはレッドさんですよね。水原です」
「どうしてわかったッスか!」
「昨日、テポドン撃ちこんだの水原さんだから」
「なるほどッスね!」
「ちょ、イチコさんもやったでしょ!」
 レッドは気にせず、白い歯を見せて笑って一礼する。ハリネズミのように固まったツンツンヘアーは頭を動かしても全く崩れることがない。どんなワックスを使っているのだろうか。
「レッドッス。改めてよろしくッス!」
 20代前半くらいだろうか。爽やかな好青年だ。定職に就かず草野球に明け暮れるには勿体ないと舞は思ったが、色々事情があるのだろう。
「レッドは襲撃と護衛担当。水原さんが来る前は、助手席に乗ってもらうとこともあったよ」
「探偵社の人たちはオレが必ず守るッス」
 レッドは右拳の甲を見せつけてきた。“友”のタトゥーが掘られている。「傷つけるヤツらは誰であろうとブチのめすッス!!」
 今度は左の甲に掘られた”愛”のタトゥーを恥ずかしげもなく掲げる。
(うわぁ……MKSだ)
 レッドが探偵社にいる理由がよくわかった。

 舞たちが2階に上がると、綾子と岸田、それから金色のスウェットを着た瘦せ型のメガネ男がソファに座っていた。綾子と岸田は舞に気づき挨拶を交わす。金色スウェット男は、膝に乗せたノートPCに夢中だ。頬はこけ、白髪交じりの長髪を後ろで束ねている。
 舞はゴールドを指さし、口パクでイチコに「ゴールド?」と尋ねた。イチコはニヤリとうなずく。
「おほほ~っ。社長、すごいよこの裏垢。やっぱ清純派女優で売ってるヤツは詐欺師だな。見てよ、毎日のように男をとっかえひっかえ。なのに毎晩使うのはア――」
「よしなさい!」
 綾子がビートきよしみたいな口調で、鉄扇をゴールドの口元に突きつけて言葉を遮る。

「揃ったことだし、作戦会議を始めまるわよ」
「姐さん、宝屋のこと何かわかったの?」
「ええ。ゴールド、報告してちょうだい」
「おっほ! ハメ撮りだ!」
「……ゴールド」
「これはまずいでしょ」
「ゴールド!」
「あ、はい」
 ここでようやくゴールドは舞に気づき、軽く会釈してきた。
「西皮剥でイチコたちを襲った連中からスマホを没収したでしょ。あれを調べてた」
「Hadesとかいうのから裏バイト依頼のDMが来てたんだよね」
「そうそう。Hadesは全くツイートもリプライもしてないし、調べようがなかった。垢を乗っ取ってやろうかと思ったけど、宝屋本人だったらバレそうでやばいしね」
 そもそも乗っ取りは犯罪だろというツッコミは、するだけ無駄だろうから舞はやめておいた。

「ただスマホの持ち主……鈴木大輝のツイートやDMなんかを漁ってたら、鈴木の仲間がHadesから別のバイトを依頼されてたのがわかった」
「別のバイトって? 探偵社絡み?」
「いいや。特製の青汁を、中年主婦たちの乱交パーティ会場に届ける簡単な仕事だった」
「あっ……!」
 舞は数日前の一般的な仕事・・・・・・を思い出す。ドローンで出歯亀したとき、参加者たちは緑の液体を飲んでいた。
「警察の知り合いによると、ハッスルしすぎて捕まるケースが増えてるらしい。警察も神沼の青汁が怪しいと踏んでいるけど、証拠がないから動けないってさ」
 舞はこっそり周囲を見渡す。驚く様子がないことから、ゴールドが警察にコネを持っているのは周知の事実のようだ。

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「奥さん。ちょっぴりエッチな気分になるだけでは物足らないんじゃないですか?」
「なんですか? 通報しますよ」
「ゴールド神汁、欲しくないですか? 欲しいですよね?」
「ゴールド神汁って?」
「普通より何倍も気持ちよくなれる、すばらしい神汁です。奥さんには1年以上は買っていただいていますから、特別にご案内いたしました」
「欲しい!」
「承知いたしました。後ほど詳しいご案内をお送りいたします。神沼さんの講演会に参加していただき、そこでゴールド神汁をお渡しいたします」
「神汁騎士とヤレる!?」
「あるいは。フフフ……」
(あるスケベ主婦TwitterアカウントのDMより)
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「で、このバイトを受けたチンピラは、宝屋から今日報酬を受け取ることになってる。報酬は1万円プラス、ゴールド神汁2か月分」
「ゴールド神汁って?」
「さっき話した特製の青汁。市販の神汁を1年以上継続購入しているゴールド会員にだけ売られる。効能は通常の10倍、中毒性も。チンピラたちは、報酬をヤク代わりに売りさばくつもりなんだろう」
「じわじわと神汁漬けにして、より強い神汁を売りつける。なにがポジティブライフ・クリエイターよ。ジェノサイダーじゃないの」
「ゴールド会員は誰でもなれるわけじゃない。メーカーから案内が来た客だけ入会できる。他言禁止、SNS等の投稿禁止というルールつきでね。あともうひとつ条件があって、それは神沼のゴールド会員専用講演会に参加すること。そこで入会の証に、ゴールド神汁が渡される。チンピラたちも一緒に」
「なるほど。神沼の講演会ならば宝屋が現れる可能性も高いか。でも講演会に潜りこむわけにもいかないしなあ。会場近くで張りこむとか?」
「あ、潜りこめるッスよ」
 ソファからあぶれて立っていたレッドが手を挙げた。
「さっきオレがチンピラたちを襲って眠らせておきましたんで。オレたちがチンピラのフリをすればいけるッス、ウッス!」
(ウッスじゃねえよ。なんてことしてるんだコイツは……)
「チンピラたちは3人。オレ、イチコさん、水原さんの3人で変装して行きましょう。ウッス」
「私も!?」
「潜入役のネイビーブルーは、頃合いを見て眠らせたチンピラを警察に引き渡す仕事があるんで。水原さんにお願いします。ウッス」
 ネイビーブルーとブルーは被ってないか。色分けでチームを構成してるなら致命的ではないか。ツッコみたかったが舞は我慢した。
「いや、でもチンピラって男なんですよね。変装してもバレるでしょ」
「大丈夫よ。じいや、あれ出して」
「かしこまりました、綾子お嬢様」
 岸田がいつのまにか持っていたアタッシュケースから、何着かのスカジャンと野球帽、サッカー帽を取り出した。
「皆さまには、これを着てチンピラとなっていただきます。お好きなものをどうぞ」
「ハハーッ、クソダサい! じゃあ私これ!」
「オレはこれにするッス!」
 舞は残ったピンクの龍柄スカジャンと、裏筋タートルヘッズ(地元のサッカーチーム。意外に強豪である)の帽子を選んだ。
 さらにゴールドが3枚の運転免許証をテーブルに置く。イチコ、レッド、舞の顔写真が張ってあった。
「身分証明を求められても、これで騙せるから」
「さすがにまずいですって、完全に犯罪ですよ!」
「交渉役のホワイトが警察に根回しして許可もらってるから安心なさい」
 綾子が鉄扇を広げてあおぐ。今は顔すら知らぬホワイトを信じるしかない。

「それじゃあ、私から作戦を説明するわ。イチコたち3人には講演会に潜入して、神沼や宝屋の情報を引き出してもらう。ふたりと接触するのが理想的だけど危険が伴うだろうから無理強いはしない。ただ、可能な限り敵の能力と犯罪に繋がる手がかりがほしい。頼めるわね?」
 イチコとレッドがうなずき、舞も遅れて続いた。

「講演会は録画も録音も禁止されているだろうから……ちょっとくすぐったいわよ」
 綾子は舞の額を指でなぞる。詳しくはわからないが、円と五角形か六角形のような図形を描かれた気がした。じわりと額が熱くなり、それから背筋にぞわぞわと、こそばゆい感覚が流れる。綾子はイチコとレッドにも同じことをした。
 するとイチコとレッドの額に、魔法陣が浮かび上がる。ハイエースに描かれたものと同じだ。
「貴方たちに隠匿と念話、帰還の魔法を即席で刻んだ。これで正体がバレにくくなるし、貴方たちが講演会で見聞きしたものを私が知ることもできるわ。遠隔で会話もできる」
「ピンピンカートン探偵社やピンクのハイエースが外から認識されにくいのも、姐さんの隠匿魔法のおかげなんだ。念話はテレパシーみたいなもの」
「じゃあ、帰還は?」
「探偵社の存在が、神沼や宝屋にわずかでも察知されると判断したら、転送魔法で強制的に貴方たちを事務所へワープさせる」
「ヤバかったら逃げられるってことですね。安心です」
「というより、深追いは“依頼主”が望んでいないの」
(依頼主……?)
 神沼を追うのは綾子の個人的な目的かと思っていたが、この件にも依頼主がいるということだろうか。まさか警察? 疑問を口にする前に、岸田が大きな咳払いをする。
「……お嬢様。そろそろ仕事にかかりましょう」
「そうね。よろしく頼むわ」

 舞たちはハイエースに乗りこんだ。イチコが後方座席のレッドに振り向く。
「講演会の場所は?」
「ちんたま文化快館ッス」
「近いね。それじゃ乗りこむぞ! えいえい、オーッ!」
「ウッス!」
「お、おー……」
 ハイエースが勢いよく発進する。直後、鈍い音とわずかな衝撃が車内に走った。敷地から出る瞬間、通行人を跳ねたのである。
「やば……」
 イチコの顔が青ざめるが、すぐに元に戻った。轢かれた通行人――ブルーが何事もなく、むくりと立ち上がる。
「気をつけてよ、もう」
 ムスッとしたブルーにイチコは舌を出し、ペコリと頭を下げる。
「いやあ、ブルーでラッキーだった」
「アンラッキーなんじゃないですかね。幸先悪いですよ」
「ハハッ、気にしすぎ」
「そうッスよ。ツイてるって考えましょうよ!」
 しかし舞の心には、黒々しく重い雲のような予感がベッタリと張りついていた。

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  当館では以下に関連する方のご利用を禁止いたします。
  ・反社会勢力、あるいはそれに準ずる組織の関係者
  ・カルト宗教
  ・ねずみ講
  ・自称クリエイター
  ・kenshi
  (ちんたま文化快館の看板より)
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 ちんたま文化快館の駐車場に到着した。時刻は9:20。講演会の受付開始まで時間があるので車内で待機する。
 イチコは手のひらサイズの金属製水筒――スキットルといって、よく古い映画かなんかで酒をたしなむ人物がよく持っている――を取り出し、グビグビと何やら飲んだ。
「ぷは~っ、効くぅ!」
「お酒ですか? 帰りは私が運転ですね」
「Jリーグカレーの中辛だよ。昨日、イエローに調合してもらった」
「持ち歩いてるんですか!?」
「元気出るからね。ウガンダ・トラもカレーは飲み物って言ってたでしょ。あと落合陽一もコンビニでレトルトカレーを買って、その場で飲むらしい」
 イチコは残りを飲み干し、蓋を閉めた。
「大勝負の前は、これに限るね」
「大げさじゃないッスか。ただの潜入ッスよ」
 後方のレッドが身を乗り出してきた。舞も同調する。
「小原と戦ったときのほうが、よっぽどヤバかったですよ」
「これは、私の直感だけど……」
 イチコは前方を向いたまま、呟く。
「神沼と宝屋は、かなり危険だ。今までの返送者とは比べ物にならない。狡猾で、底が見えない。おそらく多少の荒事にも対処できる自信があるように思える」
「心配ないッスよ。おふたりは、オレが守るッス」
「それでもヤバいと思ったら逃げて。水原さんも、いいね?」
「はい」
「どんな状況でも、今回は相撲なし。約束して」
 イチコがまっすぐ舞を見据える。瞳には光が宿っていない。ウラシマ街でやらかしたときの虚無がある。舞は「わかりました」と答えるしかなかった。レッドもただならぬ状況を予感して「ウッス」と“愛”が掘られた拳を握った。

 イチコは「よかった」と表情から緊張を解き、カーナビに声をかける。
「まだ時間があるね。ドリフ大爆笑の階段落ちを再生して」
「かしこまりました」
 画面に映像が流れる。時代劇映画の撮影を舞台にしたコントだ。監督役の志村けんと、刀で斬られて階段から落ちるスタントマン役の加藤茶が、ズレたやり取りを繰り返すという内容だった。
「ハハーッ、ハッ!」
 加藤茶がボケて、志村けんに頭をひっぱたかれる。その度にイチコが手を叩いて大笑いする。おバカな加藤の表情と、真剣に叱る志村の対比が、なんともおかしい。レッドは「ンフフ」と声を漏らし、舞は口元を緩ませた。

 コントは10分ほどで終わった。イチコが目元の涙を拭う。
「やっぱり加藤茶と志村けんは名コンビだ。志村と田代まさしも捨てがたいけど、捕まっちゃったからなあ。やっぱり私は加藤派だ」
「ずいぶん推すッスね」
「……私はずっと加藤茶になりたかった。軍団や姐さんたちというドリフターズの中にいても、なにかが欠けていた。私の“ごきげんテレビ”はずっと始まらなかった。でも……」
 よくわからないことを言いながら、イチコはちらりと横目で舞を見て微笑む。
「水原さんという、志村けんが見つかった」
 眉尻を下げ、柔らかい表情で舞を見つめる。ふざけているように聞こえるが、真剣な想いは感じられた。
「今週会ったばかりだけど……ありがとね」
 まるで別れの言葉のような儚さがあった。舞としては急にそんなことを言われてもどう応えていいかわからない。なので、とりあえず……
「アイーン」
 くの字に曲げた右腕と、顎を突き出す。唯一知っている志村のギャグであった。
「ハハーッ、ハッ!」
 イチコは手を叩いて笑った。レッドは目を丸くして、イチコと舞を交互に見比べる。
 カーナビ画面の時刻が9:40を回る。
「講演会の受付開始時刻となりました。どうかご武運を」
 レッドが2台のスマホを取り出し、イチコと舞に手渡す。
「チンピラから奪ったスマホっス。自分のは車に置いて、これを持っていってください。まあすぐに受付で没収されるでしょうけど」
 レッドに従って、車を降りた。イチコはトランクを物色し、例の棒とテスラ缶を取り出す。
「棒も没収されちゃいそうだなあ。素手で頑張るか」
 イチコはテスラ缶を開け、緑の煙を鼻から勢いよく吸いこむ。ぶるるっと身を震わせ、目を開くと瞳が緑色に変わっていた。
 それから3人は顔を見合わせてうなずき、受付へと向かう。

 快館に入って0721番ホールを目指す。ホール入口の前に机が置かれ、その前に列ができていた。並んでいるのは羽振りがよさそうな見た目の中年女性が多い。ここが講演会の受付だろう。
 舞たちも列の最後尾に並ぶ。女性たちの香水の匂いが混ざり合い、イチコが口を両手で覆った。
「うぇっ、Jリーグカレーが出てきそう……おぷっ」
「なんとか押し戻してください!」
 イチコは逆流をどうにかこらえ、バイオテロを食い止めた。そうこうしているとイチコたちが受付する番が回ってくる。
 パンツスーツの真面目そうな女性が受付に座っており、その両サイドには格闘家並にガタイのいい黒スーツの強面が立っている。
「おはようございます。神沼の特別講演会に参加される方ですね」
「そうなんですよ。大ファンで」
 いつぞや風俗へ潜入した時と同じく、イチコは声を低くした。やはりバレるのではないかと、舞は黒スーツをうかがうが、今のところ怪しんでいる様子はない。
「それでは、身分証明書と、弊社担当が送信したDMの画面をご提示ください」
 3人は偽造免許証と、チンピラから奪ったスマホを差し出す。受付の女はそれらと名簿を参照し、チェック欄に〇をつけた。
二句坊 珍平にくぼう ちんぺい 様、草井 万次郎くさい まんじろう 様、薫荷 奈芽男くんに なめお 様でございますね。登録を確認いたしました」
 ひどい名前だが、これがチンピラたちの本名なのだろうか。
「講演会では一切の撮影・録音、内容の口外を禁止しております。電子機器はこちらでお預かりさせていただきます」
 従い、テーブルの箱にスマホを置く。イチコはイェール大学助教授のメガネをかけて訊ねる。
「メガネは?」
「着用していただいて問題ございません」
「うーっす」
 イチコのマネをして、舞もメガネをかけた。今、視界に入っている人間はイチコ以外はこちら側の者であるようだ。
「ご協力ありとうございます。それではホール内にご入場いただき、開演までしばしお待ちください」
 ホールはステージを中心に、すり鉢状となっている。先に受付を済ませた参加者たちは、ホールの近くの席を埋めていた。あとから入場してきた者たちも、我先にとステージ近くの席を目指す。神沼のありがたい話を、より近くで聞きたいのだろう。
 イチコたちは状況を把握できるよう、最後列の席についた。

 やがてホールのデジタル時計が9:57を示す。すでに入場者は途絶え、100人ほどが前列から順に席を埋め尽くしていた。
 舞は額が、急に熱を帯びてきたのを感じる。
(上羅よ。聞こえる?)
 頭の中に、綾子の声が響いていきた。イチコとレッドも同じなのであろう、眼球を上へと向けている。
(声は出さないで。心の中で言葉を念じるだけで通じるわ。やってみて)
(はい。えっと……聞こえてます。おなかすいた早く帰りたい神沼と宝屋ぶっとばしたいちょっと眠いウンコ)
 舞が心の中で念じた言葉が次々に、頭の中で残響する。
(フフ。欲求が制御できてないようだけど、念話のテストは成功ね。なにかあったら私に呼びかけて。こちらからも状況に応じて話しかける。危険と判断したら強制的に転移させるから)
(わかりました)
 ブツッと電話が切れる音がして、綾子の声は聞こえてこなくなった。

 時計の表示が10:00に変わる。会場の照明が薄暗くなり、受付の女の声がスピーカーから聞こえてくる。
「お待たせいたしました。ただいまより、神沼 蓮のゴールデン会員専用講演会を開始いたします。皆さま、どうか拍手で神沼をお迎えください」
 力強い拍手が巻き起こる。イチコたちは北の将軍様のように、わざとらしく手を叩くふりをした。
 ステージにスポットライトが当たり、袖から神沼が現れる。イェール大学助教授のメガネ越しに映る姿は、ピンクのオーラをまとっていた。
(やっぱり、あいつ返送者なんだ!)
 そしてその顔は、最後列からでもわかるほどテカテカしていた。神沼がうさんくさい笑顔で手を振ると歓喜の悲鳴があがる。
「神汁騎士様~っ!」
「神沼様~っ!」
「結婚して!」
「犯して~!」
「私の汁もあふれそう~!」
 神沼は汚物のような黄色い声援を浴びて、ご満悦といったように目を細める。そしてゆっくりと大げさに一礼してから、手に持ったマイクを口に近づけた。
「おはようございます。愛する皆さま。今日もポジティブですかッ!?」
 マイクを席に向けると、客が揃って「ポジティブで~す!」と拳を天に突き上げた。イチコたちも遅れてマネする。舞は心の中で「ネガティブで~す」と中指を立てた。

 神沼はステージ上をうろうろ回りながら、話を始める。
「ポジティブであることは素晴らしい。安心しました。ですがッ! 皆様の人生はクリエイティブですかッ? 良き人生にしようとアクティブに活動していますかッ!? 皆様には熱いッ! 魂ッ! が不足しているように見えます」
 曖昧だが前向きな単語を羅列し、その後相手を否定して罪悪感を植え付け、心を揺さぶる。ヤクザや詐欺師の典型的な手口だ。これから一転して、安心させる言葉が発せられると舞には察知できた。悪党はそうやって相手の心を自在に弄び、掌握するのだ。舞は鼻をほじくりながら、話の続きに耳を向けた。
「でもッ! だからこそッ! この僕、神汁騎士がいます。皆様も自分に足りないものがあると感じているからこそ、今日ここにいるんですよね? はい、大丈夫。わかっていますよ」
 神沼が両手を挙げ、天を仰ぐ。客席から安堵の声と息が漏れてきた。
「そこで本日、皆様にご紹介するのがこちらッ!」
 受付の女が、袖からワゴンカートを押して現れた。カートの上には空のバケツが乗っている。それを神沼が手に取り、客席に見せつける。そしてバケツをカートの上に戻し、顔を近づけ、口の中に指をつっこんだ。神沼がえづいて身体がびくんと跳ね――

「おえっ、ぐおっ、オロロロブロロロロゲロロロロ!」

 神沼の口から、粘性のある緑色の液体があふれ、バケツの中を満たす。
「うへぇ……」
「嘘だろ……」
 両隣に座るイチコとレッドが思わず声を出す。
 バケツの中の液体は、ライトを浴びてキラキラと黄金の光を放つ。神汁とは、神沼の吐しゃ物だったのだ。これが、この男の超常能力なのであろう。
 異様な光景を目の当たりにしても、客が動揺する気配はない。すでに知っているとも思えない。おそらく洗脳状態で異変であるとわからないのだ。
「やば、今度こそJリーグカレーが……」
「イチコさん、こらえて!」
「おうっ、おろっ……」
 神沼は体内から神汁を出し切ると、胸ポケットのハンカチで口元を拭い、客席に再び笑顔を作る。そしてバケツの取っ手を掴み、掲げてみせた。
「このゴールド神汁ッ! 市販の10倍の濃度があり、ポジティブッ! な気分になるのはもちろん、これまで以上に健康となってアクティブッ! に行動できるようになります。すなわちクリエイティブッ! な人生が拓かれるというわけです!」
 神沼が瞳までテカテカ輝かせる。客から感嘆の声があがった。こんないい加減な語彙でよく人を洗脳できるものだ。神汁に中毒性だけでなく洗脳する効果があるのは確かなようだ。
「この講演会の後、皆様に1か月分のゴールド神汁を差し上げます。ですがその前に、試飲していただきましょう。その効果を実感してください」
 客席から神沼の登場時より大きな拍手が起こる。
「嬉しいですよね。僕も嬉しい。皆様の人生をより良くッ! 熱くッ! 眩しくッ! したいッ! 僕の神汁で皆様の可能性を広げたいッ! 人間には無限の可能性があることを証明したいッ! 僕の熱い愛を、皆様に届けたいッ! そのためなら一日何度だろうと僕は神汁を産み出す! 産みの苦しみより、皆様の笑顔のほうが大切だからッ!」
 神沼の演説に熱が入る。汗をかいたのか、よりおぞましくテカりを発している。その横では受付の女と黒服が、神汁をバケツからグラスに移す作業に取り掛かっていた。

 神沼の自己陶酔演説が続く中、黒服たちが客にゴールド神汁の入ったグラスを配っていく。前方の席に神汁が回った後、黒服は舞たちの席まで上がってきてグラスを手渡してきた。野菜の苦みのある匂いと、胃液のような酸っぱい匂いが同時に鼻腔へ流れこんでくる。隣のイチコは顔面真っ青になり、今にもJリーグカレーをぶちまけそうだ。ここで綾子からの念話が届く。
(口にしてはダメよ)
(外道のゲロなんか飲むはずないですよ)
 神沼も受け付けの女からグラスを受け取り、演説を止める。
「ゴールド神汁が行き渡りましたね。では皆様の新たな旅立ちを祝して……乾杯ッ!」
「かんぱ~い!」
 神沼と客が一斉に神汁を飲み干す。舞たちはグラスを傾け、口につけるフリをした。
「おいしい~!」
「神汁騎士様の味がするわ~!」
「神汁騎士様とひとつになったみたい!」
 客席から次々に満足した声があがる。
 神沼がグラスを強く置き、その音で客たちの話が止む。
「ゴールド神汁によって、今日、今、この瞬間からッ! 皆様は新しい景色を見ることになります。エメラルドグリーンに輝くッ! 人生が始まるのです。僕にできるのはここまで。どうか皆様がポジティブッ、アクティブッ、クリエイティブッ! に生きられるよう祈っております」
 そして神沼はテカテカ笑顔で、両手を叩く。
「住む世界は離れようと、僕はいつでも皆様の心に」

 住む世界……? 意味不明な言葉に、舞の思考が止まる。レッドも同じだった。イチコだけが、勢いよく立ち上がった。
「まさか!」
 直後、前方の客席から、グラスの割れる音が次々に聞こえてきたかと思うと、フラッシュが焚かれたような眩い光が起こる。そして無数の光の粒子が浮かび上がった。暗いホール内がわずかに明るくなる。舞の思考がじわじわと動き出し、この光景の意味を理解し始める。
「これって……返送!?」
 わかったときには遅かった。光の粒子は天井付近でフェードアウトするように消える。前方の客席には、割れたグラスの破片だけが残っていた。
(社長、どうしたらいいですか! 指示をお願いします! 社長!)
 舞が心の中で呼びかけても反応はない。
(どうして、こんなときに!)

 イチコが弾かれたように、前方へ走り出す。続けてレッドが後を追う。舞も脳内の疑問符を振り払って、とにかく立ち上がって走った。
 神沼は「おや?」と眉をひそめたが、すぐにテカテカ笑顔でマイク越しに語りかけてくる。
「神汁が体質に合わなかったかな。それとも飲まなかったか。でも飲まないのはありえない。ここに来る方々は、僕の言葉を信じているのだから。となると……」
「神沼、客になにをした! 答えろ!」
 イチコが神沼のマイク越しの声より大きな怒声で、ステージへとにじり寄っていく。
「言った通りですよ。新しい景色を与えてあげたんだです。お客さんたちはポジティブッ、アクティブッ、クリエイティブッ! なセカンドライフを始めることになります」
「ふざけるな! 返送した人たちを元に戻せ!」
「なぜですか? せっかくエメラルドグリーンに輝くッ! 人生を与えてあげたというのに」
「一方的に異世界送りにされて、人が幸せになれると思うのか!」
「なれます。僕がそうでしたから」
「話が通じないようだな」
「同感です。手荒な真似は嫌いなのですが……降りかかる火の粉は払わねば」
「私は手荒な真似は嫌いじゃないんでね!」
 イチコは腰を落としてかがむと、両足で床を蹴り上げ、ステージめがけて跳躍した。一瞬で神沼との距離が縮まり、イチコが拳を振り上げる。だが――
 パシィン。乾いた破裂音のあと、イチコの身体がのけ反り、客席とステージの隙間に落ちた。
「イチコさん!?」
 ステージの端から、大きな影が躍り出る。トレンチコートとハットを着た大柄な男が現れた。その手に構えたサイレンサー付き拳銃の銃口からは、小さな煙が上がっていた。

 イチコは倒れたまま動かない。舞は咄嗟に駆け寄ろうとする。
(私たちには無理するなと言っておいて!)
 しかしレッドに腕を掴まれ、座席の後ろへ引っ張られた。直後、舞の立っていた場所に銃弾が撃ちこまれる。レッドが囁く。
「イチコさんなら大丈夫ッス。テスラ缶、飲んでるから」
 小原戦での人ならざる回復力を思い出し、舞は冷静さを取り戻す。だが安心はできなかった。大柄の男だけでなく、黒服たちもサイレンサー付きの拳銃を構えて近づき、包囲網を作ってくる。
 舞は座席の隙間から、ステージの様子を覗く。神沼はうっすらと笑みを浮かべ、男たちに銃を下ろすよう手でジェスチャーした。
「ちょっと話をしませんか。君たちのことが知りたい」
 レッドがゆっくりと立ち上がり、舞も続く。

 神沼がマイクを握った。
「君たちは、僕の邪魔をする者たちですね。ピンクのハイエースで、異世界から戻ってきた人たちを轢いているという」
「人違いッス~! なんスか、それ~?」
 レッドがステージまで届くよう声を張った。それを察して、神沼が手招きする。ステージまで上がってこいということだろう。舞とレッドはそれに従う。
 ライトがまぶしい。目を細めながらステージに上がると、神沼がつかつかと歩み寄ってきた。近づくたびにテカテカ笑顔が、光を反射した。
「なぜ僕の邪魔をするのです?」
「だから、なんのことっスかね」
「嘘をつけばつくほど、それは呪いとなって人を惨めにさせますよ」
「嘘ついてんのはどっちだ、ネガティブライフ・クリエイター。ヤクみたいな神汁売りつけやがって」
 舞は神沼を思い切り睨みつけた。レッドが「まずいッスよ!」と言いたげに顔をしかめる。
「僕は人々のためを思って、ポジティブッ、アクティブッ、クリエティブッ! になれる神汁を産みだしているのですが? お客様はそう望んでいますし、実際飲んだ人の人生はみな明るくなりました」
「異世界に送られた人にも、そう言えるの?」
「ええ。先ほど申し上げた通り、私がそうであったからです」
 当たり前のように、あっさりと神沼は言った。
「なにぶん、初めての試みでしたが……問題はないでしょう。私は転生した際に、神汁を作る能力を得ました。産みの苦しみッ! はありましたが、人々を幸せにし、最終戦争寸前の世界を平和に導いたのです」
「その救世主様は、なぜこの世界に送り返されてきたわけ?」
「異世界での役目を終えたからでしょう。事実、この世界も救済を必要としています。僕は助けを求める声に応えたいッ! みんなで幸せになりたいッ! この世界の人々はみんなが仲間ッ! 熱意と善意で絆を紡ぎッ! みんなをポジティブにするッ!!」

 神沼はガッツポーズを作り、目を剥いて、前屈みになりながら熱弁する。
 舞は、この男は本気で語っているのだろうと思った。心の底から善意で行動しているのだ。野心や悪意というものが感じられない。
 ただし多くの人間が抱くであろう「自分の善意は果たして本当に他者を幸福にできるのか」という不安も、一片たりとも持ち合わせていない。
 そして自らが善であると疑ったことがない。というより自省という概念が存在しないのだ。
「今日、異世界へ送ったのは100人ほどですが、これからより幅広い層に向けてアピールッ! していくつもりです」
「……あんたが市長選に立候補した理由がわかったッス。知名度を高め、より多くの人に神汁を売りつけ、異世界へ送るためッスね」
「正解ッ!」
 神沼は上機嫌にレッドを指さす。
「いつかは世界中の人々が神汁を飲んで、新しい人生を送れるようにするのが僕の夢ッ! なのです」
「ふざけんな。お前みたいな、ナルシストを1億倍濃く煮詰めたクソポジティブカルト野郎の思い通りにさせてたまるか!」
 舞の言葉に、神沼は固まった。だが罵詈雑言に動じるタマとは思えない。案の定、すぐにテカテカ笑顔を取り戻す。

「ネガティブな言葉を吐くということは、君の心が不安だということですね?」
「はあ?」
「正しいことを受け入れられないから、反発している」
「そんなわけないでしょ。間違ってると思ったから――」
「そうか、わかった!」
 神沼が両手を叩き、舞の言葉を遮る。
「君は僕に嫉妬しているんですね!」
「こいつ……!」
「子供のころから君のような人は、どこにでもいました。僕のアドバイスッ! を聞き入れない人が。異世界に転生する前、僕の命を奪った人もそうでした。でも僕はそんな人たちに負けずッ! 己を貫いたッ! そして帰還し、正しさを証明したッ! 誠意と正義は必ず勝つッ!!」
 舞は悟った。この男は人間ではない。人の形をした怪物だ。返送者か否かなど、些細な問題だ。神沼はなんとしても止めなくては。

「ネガティブは、消し去るッ!」
 神沼が人差し指で拳銃を打つポーズをとると、大柄の男がコートの内から拳銃を取り出し、引鉄に指をかける。いつのまにかステージを取り囲んでいた黒服たちも銃口を舞に向けた。
「水原さん、伏せるッス!」
 レッドの声は聞こえても、反応ができない。足が、心が、動かない。
 そのとき――
 視界の端から、見慣れた影がステージへ飛びこんできた。
「やらせない!」
 復活したイチコが大男の手にアッパーを食らわせ、拳銃を弾き飛ばす。そして間髪いれず、のけ反った大男の顔面に左右パンチの連打を浴びせた。
 たまらず尻餅をつく大男。黒服たちも戸惑い、引鉄にかけた指が止まる。
「隙ありッス!」
 レッドが黒服たちに飛びかかり、ワンツーコンビネーション、頭突き、肘打ち、金的蹴り、さらなるワンツーで鮮やかに敵をなぎ倒す。
「やった!」
 形勢逆転に舞は思わず叫ぶ。神沼は焦りからか、脂汗を流し、さらにテカテカとなった。
「ど、どうして君たちは……」
 イチコは神沼が言い終えるのをまたず、殴りかかろうとする。
 だが――
 ドバゴッ。鼓膜を打ち破るような重低音が響く。
 イチコがまたしてものけ反り、今度は背中から何条もの血しぶきが舞う。
 大男が、コートの下に持っていたショットガンを放ったのだ。
 男が立ち上がり、ショットガンを持って、仰向けに倒れたイチコに近づく。
「うあああああっ!」
 舞は腰を深く落とし、相撲の構えで大男にぶつかろうとした。しかし、できなかった。相撲の精霊が囁かない。聞こえるのはイチコの言葉だけ。

「相撲はなし」

 イチコを助けたい。助けなきゃ。なのに動けない。なぜ。
 思考が肉体を縛る。そうしているあいだに、大男がショットガンの銃口をイチコの頭に押しつける。
 やめて。それだけは。やめて。イチコは。イチコさんは。私の――
「やめろおおおおっ!!」
 渾身の叫びは、ショットガンの発砲音にかき消された。
 イチコの顔面が、形容しがたく爆裂し、歪む。
「あ、あ……」
 鮮血が飛び散り、舞の顔にかかった。
 その生暖かさを感じた瞬間、舞の中でようやくリミッターが解かれる。
「ああああああっ! 返せぇぇぇっ!!」
 大男にただただ突進し、掴みかかろうとする。
(ここまでね。貴方たちとハイエースを転送するわ)
 綾子の声が聞こえ、視界がホワイトアウトした。

 気がつくと、舞は事務所の2階にいた。傍らにはレッドがいる。それを見守るようにブルー、岸田、綾子が立っていた。そして……
「イ、イチ、はぁっはぁっ……イチコさん、イチコさぁん!」
 無残な亡骸が、舞の絶叫に応えることはない。ブルーがイチコをつんつんするが、すぐに首を横に振る。
「社長、イチコさんは……イチコさんは!?」
 すがるように綾子を見るが、希望は返ってこない。
「ゆっくり休ませてあげましょう」
 言いたいことはわかる。劣等感を抱くほどだった、あの美しい顔は跡形ももない。だが舞は信じたくなかった。
「ブルー、もう一度つんつんしてよ! 助かるかもしれないでしょ!」
 舞は慟哭をブルーにぶつける。ブルーは悲痛に顔を歪ませ、もう一度イチコをつんつんする。だがやはり、首を横に振るだけだった。
「ああああっ! なんで、なんで! 私がもっと早く動いていれば! くっそおおおおっ!!」
 床を殴りつけても、殴りつけても、鈍い音が響くだけだった。
 綾子が鉄扇を舞の口元に当てる。
「誰も悪くない。あなたも」
「あんたが! あんたがもっと早く転移させてたら!」
 舞が綾子の両襟をつかんで押し倒す。すぐにレッドとブルーに引きはがされた。
「魔法が上手く発動しなかったのよ。おそらく宝屋の能力で。よくも!」
 綾子が床を叩いた。初めて感情らしい感情を露にした。舞はようやく、どうにもならない事態であることを悟った。
「依頼主から通達があったわ。この件は、ここでおしまい。水原さん、貴方は今なら戻れる」
「なんで、このままじゃ終わ――」
 綾子が鉄扇の先を、舞の額に押し当てる。
「誰も、貴方を追うことはできない。だから貴方も忘れなさい」
 舞が鉄扇を振り払おうとする。しかしその手は空を切った。

 舞が眩い日差しに目を覚ましたのは、ベッドの上。
 枕元に置いてあったスマホを見る。
 2022年12月17日 土曜日 9:30。
 昨日はひどく疲れていたらしい。だるさが身体に残っている。
 目元には熱いものが溜まっていた。涙だ。
 しかし……なぜ泣いているのか、舞にはわからなかった。

つづく。