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都会と地方の「まちづくり」

「まちづくり」を語る場面によく出くわす。岡山(とその他、地方)と東京を行ったり来たりしていると、その違いが気になるようになってきた。

地方は、生き延びる術として、この話をする。どうやったらまちが元気になるか。このまま滅ばないためには何ができるか。

東京は、人生を豊かにするために、この話をする。どうやったら友達が増えるか、など、必要不可欠ではないけれど、やったほうが豊かだよね、と。

どちらも知っている身としては、東京のひとたちは、「まちづくり」を地方の人の前で気軽に語らないでほしいとさえ、思ってしまう。

いやちがう、主語を大きくしないようにしてほしいのかも。「まちづくり」っていうより、自分づくり、に近くないか?まちをつくるのではなく、自分の周りをつくる、みたいなイメージ。(ちょっとうまく言葉にならない)

自分の大好きなまち(村)が、今にも無くなろうとしている。そのために自分が何ができるか、考え続けているひとたちがいる。

同じ言葉で語られると、色々な勘違いが生まれてしまいそうだ。

東京も地方も、どちらも違った良さがあり、どちらも大好き。けれど、都会だけを知る人たちは、その暴力性みたいなものを、自覚していない気がして、時々もやもやするのでした。自分さえ良ければそれでいいと。

能登半島が被災した時、もう復興支援はしなくていいのではないかと言う意見がネットには意外と多くて、とってもしんどかったのも同じ。お前の大好きな恋人が住んでいる地域だったとしたら、同じこと言えんのか?

何が言いたいんだっけ。とにかく、この違いに気付いたよってメモでした。

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