泣けなくて。

寝れない夜は、noteで書き綴るに限る。



僕は泣けない。



涙腺が弱いとか、歳と共に弱くなるとか聞くが、そういう言い方なら、僕は涙腺がとても強い。



もちろん、小さい時や、産まれた時…あっ、超難産な上、最初泣かなくてみんな大慌てだったと後で聞かされてたんだった。理由は全く違うが、そういう意味では産まれた瞬間も、泣けていない。



これは感情仕事な人間の日常生活では、度々気まずい事になる。



学生時代は、卒業において。大人になってからは、葬式や、縁が深かった人との別れ。結婚式、出産や子供の成長においても。



最後2つは今のところ縁がないが、社会生活において、泣けるにこしたことはない。



こう書くと、とても不謹慎な印象だが泣けない側から抱く感情はこうなのだ。



気まずい。




それでしかない。




周りのみんなが、何かしら泣いているのに自分は全く感情が昂ってこない。寧ろそういう時に限ってけっこう眠たかったりする。



小さい頃の方が同調圧力は強いので、何度泣くよう頑張ったか知れない。今考えてみれば、なんで深い知り合いも皆無な上級生の卒業式で泣かなきゃいけないのかさっぱり分からない。



最大に困ったのは、母親の葬式だ。



それは社会人になって間もない頃だった。



初めて父の泣く姿を見た。



病院で息を引き取る時、弟も横に居て。彼の泣く姿も久しぶりに見た。



悲しさもあったが、圧倒的に感情を占めたのは、これで大変な病気との闘いから終われるねという、母親との間の安堵感だった。



当然、涙必須のこの場面、そんな内面の僕から涙など一滴も出てこない。



続く、通夜に葬式、火葬と舞台は目まぐるしく変わる。



これはやる側になった人は分かるかもしれないが、これらのイベントは、イメージとしては、悲しみに暮れたり、涙涙の場面だったり、憔悴しきってたりとか、遺族のイメージがつくと思うのだが、いざやる側となると、それどころではなかったりする。



特にうちは思いの外、弔問客も多かったので、その数の対応全てに、息子とは言えメインパーソンなので、関わる事となる。



これが本当にメインの仕事で。



とにかく朝から晩までずっと、知らないおじさんやおばさん、それに連れられた子供や、老人に慰められるのに、いえいえありがとうございますと頭を下げるのが仕事だ。


涙の見せどころの、喪主(父親)のスピーチ、焼香、棺桶に花を入れるシーン、霊柩車に乗るシーン、火葬場に入っていくシーン、遺骨となって出てきたシーン、遺骨を拾うシーン、どれも一滴も涙が出る感情にはならなかった。


ここまで大人になると、気まずいという感情よりも、あぁやだなぁ早く終わらないかなこの泣かなきゃいけない空気と、思うようになる。



この人生で最大と言っても過言ではない、母親の死と言う出来事をNo涙で通過出来ると、あとは死ぬまで無いと言っても過言ではない感じがする。



周りでも、友達に子供が次々と生まれ、それはとてもめでたいし、感情としてはとても嬉しいが、やはりその場面を当事者としてイメージしても、絶対涙は出ないと思う。



万が一、無いと思うが万が一、立ち会うような場面で、ようやく産まれた我が子を抱き、命懸けの出産をしたパートナーを前に、何とか無理して泣こうとしている自分しか思い描けずすごく辛くなる。




社会人になってからは、異動や退職で、お世話になった同僚や上司、後輩との別れがしばしばある。



その別れの折に、これまた必ず涙が必要となる。



もう、みんな泣く。



それぞれのスタイルで、泣く。



あぁ、もう、それが辛い。



学生時代からみんな言ってる、「私、ぜったい泣く」宣言。これもう大っ嫌い。その時から同調圧力をビンビンに感じるから。



泣く人ほど、渦中に入れて、どんなにその人と親しかろうが、最後の場面で泣けない僕は蚊帳の外。



泣ける人が羨ましい時期もあったし、今も少しは羨ましいのだろう。



ちゃんと自分を大事に思えるようになってからは、泣けない自分で良いんだよって心の中で言えるようになったし、泣けない個性を大事に出来るようになった。



けど、如何ともし難いあの同調圧力。悪気は無いし、正義でしかないあの同調圧力の中での違和感は形容し難い。


なので、それを敢えて書いてみたりするのだが。



そういう場面からは、いち早く逃げたくなるし、何かしら終了っぽい合図があれば一目散に帰る。



そう言えば、小中高大と、全て卒業式の記憶は殆ど無い。



僕のような人間にたかる人間などいないし。第二ボタンが欲しかったり、一緒に写真を撮りたい人もいない。



式の終了と共に秒で帰っていた。



みんななんであんなに残って別れを惜しむのか、理解出来ない。今でもタイムスリップしたら、即帰ってると断言出来る。



だから、その後友人の話や、ドラマや映画なので卒業式のその後を知ると新鮮で面白かった。こんな風になっていたのかと。知ったところで絶対残らないけど。



今でも、お別れ会系は凄く行きたくないし、それなら個別に会いたい。そこでも泣かない。泣けない。また大変不謹慎だが結婚式も涙のシーンもそこだけトイレとか行っていたい。祝う気持ちや、喜びや嬉しさは凄くあるので、お金さえ都合つけば行きたいのだが、1番の見せ場の両親への手紙のシーンなどは、退席していたい。



基本的にクラスでもモブキャラ位置だったので、感情は要らないポジションなので、それが板についたという事なのかなとかも思ったりもする。



最後に困るのが、何より自分が送られる、別れを告げなきゃいけないポジションの場合だ。



泣かれたくない。



何故なら、こっちが泣けないから。



あの目の前で泣かれてる間の、微笑とも困惑とも泣きたそうとも取れるような微妙な顔をしなきゃいけないのが何とも辛い。



だから、そういう会は必ず布石をうって消しておく。

開催させない。

会うなら個別に会う。



こういう甲斐もあってか、ここ最近では凄く惜しまれるシーンでも泣かれた事は無いし、そういうシーンを上手く消せている。



惜しまれないのは寂しくもあるが、泣くシーンでの不快感に比べたら可愛いもんだ。



自分にとっては、泣きハラスメントと呼びたいくらい、泣くという事は公共の場では謹んでほしい感情だ。



泣けない方が、泣くほど気まずいから。



学生の時と違って、今は色んな人に必要とされるようになってしまった。たぶん、惜しまれてしまうだろうな、という関係性の人が増えてしまった。



とても幸せなことだ。人生最大の幸せといっても良いくらいなことだ。



けど、死なない限り、また会おうと思えば会える。



だから泣かないでほしい。その時が来ても、笑顔で普通に、かなり普通に別れてほしい。



そして、そのぶん、また普通に会ってほしい。



普通が一番。泣くほど昂るより、普通のありがたみ、今ならみんな分かるでしょう。何でもない日常が、一番尊いんだって。



自分の葬式がもしあるなら、笑顔で普通に飲み会的なものにしてほしいな。可能なら。もう既にやってる著名人もいるらしいけど。



もちろん泣く事も本当、素晴らしい事だし、圧倒的正義的なものなんだけど。



逆側の人間からすると、地味に辛いんだよね〜、という話でした。



小一時間でも寝れるかな。。。



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