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トランスジェンダー論の間違い

◉進化生物学者の長谷川眞理子前総合研究大学院大学学長が、学者の立場から、トランスジェンダーについての俗論を、バサッと斬っています。遺伝子的な男性が、女性としてスポーツの試合に出て、本来の女性の領域を奪ってる現実を見るに、この指摘は納得できます。納得できんという人は、ぜひとも科学的に反論すべきで。ヘビー級の選手が「心はライト級」でチャンピオンになるような状況は、おかしいように。LGBとTの問題は、分けた方がよさげ。

【「性は自由に選べる」「男女の性差はすべて社会的・文化的に構築される」というトランスジェンダー論は間違っている!】文春オンライン

「性の自由」、とくに「トランスジェンダー」(「生物学的性」と「性自認」が一致しない人々)への理解を求める動きが広がっている。

 昨年6月には「LGBT理解増進法」が施行され、7月には、「女性用トイレの使用を制限されているのは不当だ」と経済産業省のトランスジェンダーの職員が国を訴えた裁判で、「トイレの使用制限を認めた国の対応は違法だ」とする最高裁判決が下された。10月には、「戸籍上の性別変更」に「生殖能力を失わせる手術」を必要とする要件は「違憲」だ、とする最高裁の判断も下されている。
(中略)
 混乱するばかりの「ジェンダー」をめぐる議論――こうした問題に取り組むには、「そもそも『性』とは何か」から考える必要がある、と一石を投じるのが、進化生物学者の長谷川眞理子氏(前総合研究大学院大学学長)だ。

https://bunshun.jp/articles/-/68787#goog_rewarded

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、アルパカ200904のイラストです。

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■性差別と性差は異なる■

さすがに科学者らしく、生物学的な部分から男女の性とは何かアプローチし、左がかった側からの論理だけでなく、保守系にありがちな性についての考え方も、否定します。家族制度というのも、確かに子供を産み育てるために必要な制度であり、保護の対象ですが。では、子宝に恵まれなかった夫婦は無意味なのか……という話になってしまいますし。子育てを終わった夫婦は、とっとと離婚すべきかという話です。

 そもそもなぜ「性」は存在するのか。
〈多くの人は、「繁殖のため」と思われるでしょう。しかし「性」を介在させずに「繁殖」する生物も数多くいます(無性生殖)。この一事をもってしても、「性の本質は繁殖にある」とは言えません〉

同上

ちなみに、福島瑞穂社民党党首のご家庭では、夫婦別姓の事実婚で、お子さんが自立されたタイミングで、家族の解散式なるものを、行われたそうですが。全部の家庭が、そんなドライな関係で納得するかは、自分には疑問です。少なくとも現時点では。将来的にはそれが、一般化するかもしれませんが。欧米では親がそもそも子供に介護してもらおうなんて、思いませんからね。お金がなくて、介護施設に行けず、子が面倒見る場合はあるようですが。

日本は東アジアの文化圏に属し、家制度がかなり強い文化ではあります。でも、戦前までの家族制度は、昭和もう50年代に入ると核家族化が進み、映画『犬神家の一族』がどこか実感のない、地方の家族制度のドロドロ という感じで、一種のファンタジーとして受け取られたように。現在の介護の問題なども、過渡期の問題なのかもしれません。それは婚姻の問題もそうでしょう。どうやっても少子化は止められないと、自分は思っています。

■子を生むだけが価値?■

例えば、最も進化していて社会的昆虫と呼ばれる、アリやハチ、シロアリなどの仲間では、女王を中心とした集団生活が営まれているわけですが。女王が生んだ子供達は ほとんどメスで、そもそも生殖能力がなく。働きアリや兵隊アリに、役割が分化している種類も多いです。これは、女王の遺伝子を残すため、生殖能力を失わせて、役割に特化させる方がより効率的だからです。であるならば、子を成さなかった人間でも、社会には貢献できるのですから。

〈LGBTQをめぐる議論で、「性は曖昧で連続性がある」と主張されますが、「性差」の大元である「配偶子」の次元では、「大きな卵」か「小さな精子」のどちらかしか存在しないのです。ここに「曖昧さ」や「連続性」や「中間系」は存在しません〉

同上

LGBTの問題も、色々と議論がちらかっている部分があって。パートナー同士の遺産の問題など、婚姻制度にこだわる必要はないような気はしますね。男女カップルの場合は、男が若い愛人に走って本妻や、嫡男をないがしろにするというのは、平安時代の昔からよくある話でした。というか、漢王朝の高祖劉邦さえも、糟糠の妻である呂皇后より愛人の戚夫人を愛で、後継者を変えようとさえしていますからね。

だから、非嫡子の問題を、単純に愛人の子に対する差別だという形で捉えるのには、疑問です。むしろ、正妻と嫡男の権利を守る部分が大きかったように思います。そりゃそうでしょう。少なくとも昔は、嫡男は優遇される代わりに、かなり重い責任も課せられる存在であって。それが父親の身勝手で廃嫡されたり、美味しいところを持っていかれては、たまらない。君島家は、それですっかりブランドイメージを落として、廃業してしまいましたが。

■制度の問題と心の問題■

制度自体は、人間が生きやすくするために、人間自身が生み出したシステムですから、時代の変化に合わせて修正したり、変化するのは当然といえば当然です。その意味では、制度としての差別はできるだけ解消していくべきものであり。嫁して三年子無きは去る、なんて考え方が当然だった時代から、子宝に恵まれなくても一生添い遂げる夫婦が幸せであればいい、と個人的には思います。それは同性愛カップルにも、広げられるべきものでしょう。

〈「性自認」や「性的指向」は、「生物学」の次元でも多様性があり得るとともに、「自意識」や「文化」の次元でも多様性が存在します。その意味で、LGBTQは「異常なこと」ではありません。大多数にはならずとも、「必ず生じる少数派」なのです〉

同上

生老病死は、人間の逃れない四苦であり。そこに纏わるいろんな問題を、処理するための最小ユニットが家族という部分があります。もちろん それは、個人で対処せざるを得ないこともありますが。LGBの問題は、おもに対人・対社会の問題として、制度的な問題として 浮かび上がるところが多いのですが。トランスジェンダーは、洗濯の問題として 語られる感じで。その点についても、ズバリ指摘されていますね。

 ただし強調したいのは、だからと言って「性は個人が完全に意識的に選択(チョイス)するものだ」と誤解してはならないことです。「性自認」は、「体と心の性の不一致」という「自分が選んだわけではない与えられた苦しい状態」を解消するためのもので、たとえばレストランのメニューのように「初めから自由に選ぶこと」ではありません〉

同上

自分はどこまで行っても当事者ではないので、LGBT当事者の心情的な部分は理解し得ませんが。この記事の論功自体には、とても納得が行きます。もちろん、他人に押し付ける気はありませんから、長谷川博士の意見は読んだ人が各自、判断していただければ。制度としては、性自認がどうあれ、遺伝的に男性で筋肉量や質に大きく依存するスポーツでは、あくまでも遺伝子を基準に機械的にカテゴライズするのが、女性の人権や領分を侵犯しないかと。

■しがらみから開放願望■

どうも、西洋発の文化は、キリスト教の影響が強いです。清書にはナザレのイエスには家を出て、洗礼者ヨハネの活動(エッセネ派ではないかという説がある)に加わり、やがて故郷のガリラヤに戻り、独自の宣教活動を始めるのですが。マルコ福音書3章には「身内の者ものたちはこの事を聞いて、イエスを取押さえに出でてきた。気が狂ったと思ったからである」とあり、ある意味で親族から浮いています。

また「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とは、だれか」という言葉さえ、イエスは発しています。他の記述で、兄弟や母親が後に息子に帰依している様子が伺えますが。どうも原始キリスト教には、親兄弟の家族、あるいは親類縁者という繋がり、あるいは地域共同体から個人を切り離し、そういう束縛から開放されたいという、強い思考が見えます。これは、お釈迦様が妻子を捨てて出家し、後に息子が教団に入ってるのに似ています。

もともと、人間には家族とか共同体のしがらみから自由になりたいという、強い願望があります。仏教ならば2500年前、キリスト教なら2000年前から、そういう志向があったわけで。ヒッピー文化とか、アジールとか、言葉を変えていますが、現代の思想や運動にもその遺伝子というか、志向が影響を与えていて。性自認の不一致の解消とは別に、しがらみ開放願望をトランスジェンダーに仮託しているように見える人もいますね。個人の感想ですが。

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