見出し画像

とあるASD当事者の考える”普通“とは

どうも、もぐらちゃんです。
今日は”普通”というものについて書こうと思います。

私は子供のころ、あなたは普通なんだからとか、大学院に行くと普通の職に就けなくなるから進学は却下とか、精神科なんて行ったら普通の生活が出来なくなるから行っちゃダメとか、ことあるごとに普通という語彙を母の口から耳にしており、当時から”普通”とはなんなのか分からず、始終混乱していました。

いまにして思えば、私はそもそもが普通ではなかったんですけどね。
境界知能だし、自閉症スペクトラムだし。
ほかには性に対する認識も少し違っていて、長いこと身体の仕組み以外のことを指して言われる男女がなんなのか分からずに来たし。
(ありがたいことに、いまはLGBTQなどと言われ、そういった少数派がだいぶ周知されるようになってきたようには感じますが)
むしろ"母親の言う普通”とはかけ離れた存在だったんだなと、改めて感じています。

普通の正体って

そもそも論、普通とはいったいなんなのか。
これは私が長らく考えてきた問題です。

記憶にあるかぎり、小3のころにはすでに考えていました。
私は、当時から”普通”から離れたところが多くあり、運動神経が鈍かったり、学校内で取り組むことのペースが遅かったり、一旦没頭すると寝食を忘れるレベルでのめりこんでしまったり。

小学生時分には、母が食事の用意をして出かけても私が一切手を付けずに母帰宅なんてこともざらにある子供だったので、さぞヤキモキしただろうなと思います。
(ちなみに同じようなエピソードは30代になったいままでも続いており、大学時代はゲームに没頭するあまり寝食を忘れ昼夜逆転して倒れてしまったし、いまでも頻繁に忘れるので夫がお昼休みに帰宅してくれ一緒に食事を摂っています。)

同年代の子供や兄弟は出来ることなのにとか、何かしら比較対象あっての言葉だと思うので、恐らくここで言う”普通”とは、平均的とか、標準的とか、そういう類いの言葉が近いかもしれません。

ぶっちゃけて言えば、個人的に今後死語になっていってほしい言葉でもあります。
明らかな少数派の人間はじめ、多くの人が生きづらくなる呪いの言葉なのではないかと感じるので。

統計学なるものが存在し統計を取る以上、数値として出てくる側面はもちろんあるかとは思いますが、そこで測ったことだけがすべてではないし、それだけを指標にしてしまうのは危ういように感じます。
なので、普通というものは、半分は物事を考えるときの指標のひとつになりえ、もう半分は実態のない幻のようなものなのではないか。私はいま、そんなふうに考えています。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

よろしければサポートいただけるとうれしいです。 noteでの記事執筆やイラスト等、クリエイターとしての活動費に使わせていただきます。