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「あるある」と「よくある」の壁

書籍タイトルや業界事情など「よくありそうな感じの内容」を妄想して書くと、「結構リアルにそんな感じですよ」と言われることがある。これを「分析力が優れている」と取るか、「普通に考えたらよくある感じになるのだから当たり前だ」と取るかはあるが、それはさておきこういうのも一つの「あるあるネタ」であろう。

中でも「ありそうなビジネス本タイトル」や「ありそうな雑誌の特集内容」は簡単だ。なぜかといえばほんとによく使われているワードをそのまま出すだけだから。ビジネス本など、10冊表紙見たらマジで3冊くらい似たようなタイトルになってることも珍しくない。一時期流行った「●●力」シリーズはいうに及ばず、未だに「●●する技術」みたいなのも見る。まあ時流に乗るという意味もあるし、似たようなタイトルの本を読んだら面白かったので、という安心感もある。似たようなタイトルなので続編かと思ったら、よく見ると全く別人が書いてるということもあるが。そもそもカバーデザインからしてわざとじゃないかというほど近づけていることもある。2匹目のドジョウどころか10匹くらい狙ってないか?と思ってしまうが、それくらい安定が求められるということだ。一部のカリスマ編集者みたいな人はどんどん新しいものを出すかもしれないが、そこまで時流を読む力や企画力はないが、なんとかヒットを狙わなければ…ということで「流行に乗っかる」というスタイルは常にある。まあ自分も編集の仕事についていれば乗っかる側だったであろう。

それにしても、こういった「二匹目のドジョウ」的なものはすぐ飽きられたり嫌がられたりするのに、「あるある」と思われると笑えたりネタにできたりするのはなぜなんだろう。とはいえあるあるでも使われすぎるとこれまた嫌がられるというか飽きられるのだが。「先生のことをお母さんと呼んだ」みたいなのは未来永劫使われ続ける代表格ではないだろうか。
「よくあるあるあるネタ」となってくるともはや何がなんやら。

しかし「あるある」は似たような経験があったり、経験がないのに見たことある気がするから成立するわけだが、なぜ「よくある普通のこと」なのに笑ってしまうのか。ネタにすることで、一旦離れた視点からとらえるから受け取り方も変わってくるんだろうか。考えてみたが、『自分の経験というフィルターが通ることで安心感につながるのではないか?』というのが仮説である。ああ、これはみんなも共通して経験しているんだ、という安心感からの笑い。共通項を持っているおかしみ。
もちろん、ただの共通項でも面白くないのが重要なところだ。「赤ちゃんが泣くところ~」といってオギャアオギャアやったとして、「あるある~」とはならないだろう。当たり前じゃないか、と。ただ「赤ちゃんが初めて寝返りするところ」くらいをうまく形態模写できればウケそうな気もする。当たり前のシーンではあるがしょっちゅう見かけるわけでもない、くらいがラインなのかもしれない。

まあもちろんお笑い芸人になるとそんじょそこらのあるあるでは生き残っていけなくて、「より深く刺さるあるある」「あるあるを下敷きにしたないない」みたいなとこまで踏み込んでいくのだろう。
サラっと書いたが「ないない」って何だよ。まあこれはあるあるの体裁を取って全然共感できないネタのことと思ってください。「あるあるネタやります。先生が黒板消しを履いて廊下をスケートするところ」「ねーよ!」みたいにツッコミセットだと思うが。

さておき、今後も人間がいる限りあるあるは存在するのであろう。
人間、いつまでもあるあるを言いがち。

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