名演奏としてのアブラヴァネルのチャイコフスキー(MUSE2023年5月号)

 モーリス・アブラヴァネルはギリシャ出身のユダヤ人指揮者。若き日には大戦間のドイツでクルト・ヴァイルの紹介などで活躍していましたが、ナチスの登場によりドイツを追われて渡米した多くの音楽家たちの一人でした。彼が落ち着いたのはユタ州ソルトレイクシティ。モルモン教の街としても名高いこの地で長大な残響を誇る大ホールを拠点とするこのオーケストラを彼は育成し中興の祖とまで呼ばれるに至り多くの録音を遺しています。その芸風は世界最長とさえ呼ばれるホールの残響の長さが大きく影響したもので、旧大阪フェスティバルホールを拠点とした朝比奈/大フィルの正反対。音価を短く歯切れよく取り残響に埋もれない明晰さを確保しつつ、結果として音自体の力感よりは非現実的なまでの優美さに洗練美が上乗せされたその演奏は数あるチャイコフスキー録音の中でも響きそのものの幻想美という点ではまさに最高! 旧ソ連時代の演奏に共通していた力感を前面に押し出すマッチョの極みのようなスタイルの対極に位置するものでした。彼らが米VOXに遺したこのチャイコフスキー(とグリーグ集)はちょうど4チャンネル録音の時代に収録されたもので、メインチャンネルは明瞭さ重視で集録されそこにリアチャンネルからの残響が加わるという方式を採用した4チャンネル再生にはまさにうってつけのものでした。残念ながらCD化された際にステレオ2チャンネルにメインとリアの信号をミックスしたときにリアの音量が控えめにミキシングされたため本来の音響からは遠のいていますが、にもかかわらず耳を澄ませばメインの楽器に近接したマイクが拾った直接音の背後にさえ長い残響がうっすらとながら聞き取れてしまうほどのものなのです(我が家ではスピーカーマトリクス方式でメインチャンネルの左右の位相差信号を取り出しメインアンプから独立したミニアンプに流すことで疑似的ですが4チャンネル再生っぽく鳴らしています)
 そんな女性的なまでにしなやか、かつ洗練された音響美に加え解釈面でも実に深いのがアブラヴァネルのチャイコフスキー演奏の素晴らしいところで、この『悲愴』は冒頭でベートーヴェンのソナタ由来のテーマが打ち出された後の主部への移行が独創的。ほとんどの演奏で主部に入った瞬間に冒頭の遅いテンポから速いテンポに切り替わるのですが、アブラヴァネルだけは冒頭のテンポを保つことでベートーヴェンのテーマとの類似性を強く打ち出すと同時に、それを段階的に速めていくことでその後の区切りに縛られない自由なテンポ変動を予告するという一石二鳥の解釈を示しているのです。このテンポ変動の自由さは優美な響きの中に激しい焦燥感をもたらすことに成功しており、狂える美女とでも呼びたくなる美観と凄みを併せ持つ説得力にただ感嘆するばかりです。
 そしてそんなアブラヴァネルだからこそ、この『悲愴』の第3楽章が4番や5番に比べ激しい性格のものになっている意味にも気づかせてくれるのだと。元ネタになったベートーヴェンのピアノソナタの3つの楽章の進行をチャイコフスキーもまたこの曲の3つの楽章で辿りつつ、そこに交響曲としては極めて異例の遅いテンポと暗澹たる嘆きのフィナーレをもたらすことで、ベートーヴェンには決してなりえない自分自身の真情を吐露しつつ全曲を見事に締めくくる。おそらく旧ソ連の体制下では打ち出すことはおろか匂わせることすら許されなかったはずのチャイコフスキーの一面を誰よりもアブラヴァネルが強く打ち出していると感じればこそ、この全集は僕にとってかけがえのないものなのです。
 こうしてみると、チャイコフスキーは前作の5番で『運命』を意識していたように『悲愴』では同名のピアノソナタのみならず同じ番号の『田園』交響曲も下敷きにしていたのではという気もします。『田園』が3楽章形式で完結する楽曲のフィナーレにも似た曲想を第3楽章に与えつつ、それを続く「嵐」で否定してから新たな境地のフィナーレを呼び込んでいるように、チャイコフスキーはピアノソナタのフィナーレに共通する曲想を持つ第3楽章そのものと真逆の性格のフィナーレでそういう終わり方を否定した。自然の背後に神の存在を感じたベートーヴェンとは真逆の終わり方の交響曲第6番『悲愴』 チャイコフスキーは遂に己がいかにベートーヴェンとはかけ離れた存在であるかを真っ向からここで打ち出すに至ったわけですが、それはやはり前作5番での苦闘の経験があればこそだったのではと僕には思えてならないのです。そしてその芸風ゆえに『悲愴』のみならず、そんな苦渋を音楽的美観の内部に秘めた5番の特質を誰よりも鮮やかに打ち出しているのもまた彼アブラヴァネルであることも。

 名演奏とはどういうものか。音楽の分野においてはお世辞にもメジャーとはいい難いクラシックというジャンルの中にも星の数ほど演奏家がいて、その何百倍も聴き手がいるのですからその数だけ答えがあるのは自明の命題ですが、あくまでその1つとして書かせていただくならば、僕にとっての名演奏とは曲そのものに目を向けさせてくれ、曲のなにかに気づかせる、教えてくれる、そんな演奏を心からの感謝を込めてそう呼びたいというのが僕の答えです。だからどんな曲を演奏しても演奏家自身の音楽的主張が前に出過ぎて曲の違いを覆い隠してしまうものは飽きてしまいますし、曲の違いに応じて対応を変えられる柔軟性を幅広い曲を取りあげる以上は持っていてほしいと切に願っています。むろん一人の演奏家が全ての曲に対応するのは無理なのですが、だからかくも多くの演奏家が世に必要なのだとも僕は思うのです。

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