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ナカタヤのサブレー、あるいは記憶に残る何かについて。

何かの拍子に、ふと、その味を思い出す。それはナカタヤのサブレー。ナカタヤのサブレーが食べたい。

ナカタヤとは、幼い頃、当時暮らしていた町にあったレストランの名前である。いまにして思えば、レストランというよりは食事も出すケーキ屋といったお店だったのではないか。たまにレストランでエビフライを食べたり、クリスマスにはささやかなデコレーションケーキを買ってもらったり、そんな記憶がうっすら残っている。

ところで、そういったお店では、よくレジの傍でちょっとした焼き菓子など売られていたりする。会計の折になんとなく目のつくような場所にそれは置かれていて、思わず「あ、これも一緒に」などと手にとってしまうような類のものだ。ナカタヤのサブレーもまた、そんなふうにして買われていたのだと思う。

おそらくそんなふうに買ってもらっていたはずのそれは、生地がしっとりしていて、その中に干しぶどうが一粒埋まっているところが他のサブレーとは異なっていた。といっても、幼い時分にいろいろなサブレーを食べ比べたはずもなく、実際のところはそんな気がしているだけかもしれない。確かめようにも、もうとっくの昔にナカタヤはお店を閉めてしまっている。それでも、僕はいまだにこのナカタヤのサブレーの味を遠い記憶の中に思い出すことができる。その香りや食感、舌が干しぶどうを探りあてた時の楽しさと一緒に。

そして、その度いつも感嘆させられるのだ。人間の記憶がもつ再現力ってなんて素晴らしいのだろう、と。

五感を通して記憶されたものの再現力は、ただそのままに再現されるのではなく、すっかり自分では忘れていたようなその当時の感情も含めて再現してくれる点においてなにより素晴らしい。

もちろん、記憶にあいまいさはつきものだ。実は思い違いだった、なんてこともある。だが、そういったある意味「ノイズ」が混じっているからこそ、思い出というかたちで召喚される記憶は、ただ精細だとか克明だとかいった以上にリアルな手触りをもつとは言えないだろうか。つまり何が言いたいのかというと、

僕らはもっと自分の記憶力を信用してもいいんじゃないか

ということだ。言い換えれば、

みんな写真に頼りすぎ!!

ということである。

どんなに美しく撮られた料理や景色も、自分の五感を通して刻まれ醸成された記憶ほどの情報量は持ちえない。仮にいま、僕がどこかでナカタヤのサブレーの写真を発見したとしても、僕がぼんやりとした記憶の中で味わう「ナカタヤのサブレー」に比べれば、そこれはどこかよそよそしく、べつの誰かの記憶のように味気ないはずだ。

つい先日、あるピアニストの演奏を聴きにいった時のこと。演奏している間、ずっと最前の席からカメラで写真を撮り続けている客がいた。この人には、その素晴らしい演奏が聞こえていたとしても1秒たりとも聴いてはいない。つまり、体験としてはその場に居合わせなかったのと同じである。体験していないのだから、いくら写真を見返したところで一片の感情も呼び起こされはしないだろう。

最近は美術館でも撮影OKの展覧会が増えたせいで、写真を撮りまくる人を頻繁に目にするようになった。あれも理解できない。気に入ったものを2、3枚というのならわかるが、片っ端から写真を撮っている人も少なからずいる。悪いこと言わないから図録だけ買って帰った方がいい。入場料がもったいないし、そもそもあなたの写真よりプロがちゃんとした機材で撮影したものの方が美しさという点ではるかに優っている。

ちなみに僕の場合、美術館では、下世話にはちがいないが、「どれか好きな作品をひとつ貰えるとしたらどれにする?」という視点で鑑賞している。ひとつに絞らなきゃならないのでけっこう真剣に見る。場合によっては順路を逆戻りしてもう一度確認したりもする。したがって、展覧会に行ってもしっかり覚えているのはわずか数点にすぎない。そのかわり、これもいいけどあれも捨てがたいなどと迷いながら見た作品ゆえ、記憶にしっかり刻まれて何かの折にふと思い出される。こうやって脳内にコレクションされた作品は、その豪華さと多彩さにおいて、コートールド美術館にも大原美術館にも負けない僕だけの美術館をつくりあげる。すこぶる愉しい。

このあいだの天皇陛下即位の礼のパレードの折も、自分の前をパレードの車列が通過する間、多くの人がカメラやスマホを構えている姿が気になった。早朝から並んで場所取りし、実際にその姿を見ることができるのはほんの数秒間に過ぎない。なんで自分の目で見て、その姿を記憶に刻み込もうとしないのだろう? 不思議でならない。

記憶のキャパシティには、確かに限界がある。しかも、年齢とともにそれはますます小さくなってゆく一方だ。でも、そんな中でも生き残り、何かの拍子に不意に再現される情景があるとすれば、たとえどんな些細なものであったとしても、それこそが自分にとってはだいじな宝物とは言えないだろうか。

以下、11月23日〜25日の日記です。

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