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(2023:その 5) みかぐらうた十二下り目解釈(組織)

※アマゾンで2023年の講演原稿を出版するにあたって、2023年1月28日段階で内容を一部改訂したので本文を修正をしております。

十二下り目のおうたは、会社経営をしている立場立場としては組織論を述べているのではないかとひしひしと思えてくるのです。
優秀な管理職の方が4名いたら組織は盤石です。
徳川家康ではないですが、四天王がほしいなぁ~と切に思っています。

以下神殿講話の原稿です。**********************************************************************
本日は、みかぐらうた十二下り目の解釈と組織についてお話をしたいと思います。(かしわ手)
 
みかぐらうたは、立教の御宣言をされた天保9年(1838年)10月26日から30年後の明治元年の1年前である慶應3年の1867年におや様が70歳の時に書かれたものです。
 
やんぴ師匠さんの本の内容から以下のことが想像されます。
 
一下り目から六下り目に書かれていることは、みかぐらうたが書かれた慶應3年の3年ほど前の元治元年(1864年)頃におや様がされた話や出来事を歌にしたものです。(みかぐらうたを書かれた時点からは過去の出来事です。)
 
七下り目から十下り目は慶応3年当時のお道の状況や出来事を歌にしたものです。(みかぐらうたを書かれた時点からは現在の出来事です。)
 
十一下り目と十二下り目は慶應3年の8年後の明治8年以降のお道の進展を予言した歌になっています(みかぐらうたを書かれた時点からは未来の出来事です。)
 
今回はやんぴ師匠さんが書かれた12下り目の解釈を参考に私なりに組織とはどうあるべきかを考えたことをお話します。
 
以下やんぴ師匠さんの『みかぐらうた 十二下りの真意』からの抜粋です。

いよいよ最後の十二下り目となりました。

十二下り目は慶応3年を現在として将来の「ふしぎなふしん」を予言して歌にされている下りです。
八下り目で普請の用材(人材)が揃った。
今度は普請の職人を揃える段階に来た。
普請に取り掛かるその日までに(一部略)棟梁を集めよう。
という内容が歌になっています。

早速、解釈を進めながら詳しく説明していきます。
『一ッ いちにだいくのうかゞひに なにかのこともまかせおく』
「何よりもまず、大工飯降伊蔵(注1)の扇の伺いに、すべてのことを任せておく。」

おさしづに、
「さあ/\席というは元は大工や。十二下りの止めはどういうことか分らんではあろうまい。」(明治23・6・17)とあります。

「だいく」とは後の本席、飯降伊蔵のことをさします。
伊蔵は入信して間もなく扇のさづけを戴きましたが、それは50〜60名が戴いた扇のさづけと同じのです。

ここで言う大工の伺いにとは特別に与えられたもので、言上(ごんじょう)の伺いと言います。
(中略)
「何かの事も任せ置く」とは慶応3年から見て将来、伊蔵の言上の伺いに何かの事も任せるようになるという意味でしょう。

『二ツ ふしぎなふしんをするならバ うかゞひたてゝいひつけよ』
「(世の立て替えである)ふしぎなふしんを進めるというならば、(めいめい分からないことは伺い棟梁の伊蔵を通して)神に伺いを立てて聞くように。」

『三ッ みなせかいからだん/\と きたるだいくににほいがけ』
「せかい中から次々と来たる(ふしぎふしんの)大工候補に、においがけをしておきなさい。」 

この場合の大工とは、職業としての大工ではなく、信仰上の大工にあたる人材のことです。

『四ッ よきとうりようかがあるならバ はやくこもとへよせておけ』
「優れた棟梁候補がいるならば、早くこちらへ寄せておけ。」

『五ッ いづれとうりようよにんいる はやくうかゞいたてゝみよ』
「いずれ棟梁が4人必要となる。分らないことは早く伺いを立てて伊蔵を通して尋ねるように。」

おや神様のたすけは4人の人材で進められているように思います。

元治元年に肥のさづけをいただいた人は4人。
明治7年12月26日に「一に、いきハ仲田(注2:仲田儀三郎)、二に、煮たもの松尾(注3:松尾市兵衛)、三に、さんざいてをどり辻(注4:辻忠作)、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井(注5:桝井伊三郎)」と、身上だすけのさづけを渡されたのも4人。棟梁も4人。

伺い棟梁である飯降伊蔵を含めた4名は誰か?それは私には分かりません。梅谷四郎兵衛(注6)がその中に入っている気はします。

『六ッ むりにこいとハいはんでな いづれだん/\つきくるで』
「(大工が必要だからと)無理に来いとは言わない。いずれ次第についてくるようになるのだから」
(一部略)

『七ッ なにかめづらしこのふしん しかけたことならきりハない』
「(おたすけを通して新しい大工が付いてくる。)何とめずらしいこのふしん。仕掛けたことなら切りなく続く。」

『八ッ やまのなかへとゆくならバ あらきとうりやうつれてゆけ』
「(ふしぎなふしんの用材〈人材〉を切り出し〈発掘〉に)山の中(未開の地)に行くならば、荒木棟梁を連れて行け」

荒木棟梁とは一般的な言葉ではなく教祖が、教えの上から独自におっしゃったもの。新しい原木を切り出し、荒ごなしの製材をする大工の元締めの者です。

『九ッ これハこざいくとうりようや たてまへとうりやうこれかんな』
「この仕事は、小細工棟梁や。これは、建前棟梁。これは鉋で仕上げする。」

小細工棟梁とは材木を細かく加工する棟梁のことで、お道の教えのあらましを入信者に事細かく伝える棟梁のことです。 

建前棟梁とは材木を組み立てて建築物にする棟梁のことで、立派な信仰者に育て上げる棟梁のことです。

(一部略)
『十ド このたびいちれつに だいくのにんもそろひきた』
(一部略)
では、このこの度とはいつか?

私は、明治20年陰暦正月26日の事だと思います。

教祖が現身をお隠しになられた後は、教祖から本席と定められ任せられた飯降伊蔵の扇の伺いで神意を伺いながら、伊蔵を含めた4人の棟梁(一部略)によってふしぎなふしんを進めている。

(一部略)4人の棟梁を選ぶ段取りを進めるが、ついに明治20年陰暦正月26日の本勤めに合わせて人衆が揃った。
(一部略)
教祖が現身を隠されてふしぎなふしんが本格的に始まった。

教祖は現身を隠されて後も存命の理をもって世界を駈け巡ってたすけ下さることに思いを致し、ふしぎなふしんの一員としての自覚を高め、陽気に勇んで十二下りのおつとめをつとめさせてもらいましょう。

やんぴ師匠さん『みかぐらうた 十二下りの真意』より

というものです。
 
簡単にまとめると、4人の棟梁が多くの材木(ようぼく)を統括する。
それぞれの材木(ようぼく)を使ってお道という建物のふしぎなたすけ普請を実行していくというものです。
この4人の棟梁とは以下の通りです。
・言上のさずけをする伺い棟梁である本席飯降伊蔵様
・材木(ようぼく)を山の中に入って見つけだして来る荒木棟梁
・材木(ようぼく)を細かく加工する小細工棟梁
・材木(ようぼく)を組み立てて建築物にする建前棟梁
この4人の棟梁が揃い、天理教の中心となって初めて天理教という組織が大きく伸びていくということです。
 
それではこれを一般的な会社組織に置き換えて考えてみたいと思います。
神様が作った世の中ですので、社長は当然おや神様かと思います。
伺い棟梁とは何でしょうか?
伺い棟梁とは言上のさずけをされる棟梁のことです。
神様からのご神言を言われる方です。
つまり社長の具体的な指示を社員に出す立場の方です。
これは社長と一緒でもいいのかもしませんし、副社長や会社の企画をたてる企画部長・総務部長なのかもしれません。
 
荒木棟梁とはようき用木(人材)を山から探し出す方になりますから、世の中から優秀な人材を会社にリクルートしてくる立場の方である人事部長・総務部長になるかと思います。
または、世の中から仕事を探してくる営業部長や仕事を企画する企画部長になるかもしれません。
 
小細工棟梁とは、実際の業務を細かく計画される方です。技術系であれば、設計部長などの技術を統括する立場の方になるかと思います。事務系であれば、営業部長や企画部長になるかもしれません。
 
建前棟梁とは、それぞれの会社の業務を組み立てていかれる方です。工場長やプロジェクトリーダーなどの製品製造・工程管理全般を統括する立場の方になるかと思います。
 
このように社長の下に4人の優秀な棟梁つまり管理職の方がいて、その下で多くの用木つまり社員がいれば、会社という組織は大きく伸びるということかと思います。
 
ここからは一般論で、信仰の話とは違いますが、 一人の優秀な社長さんがいて事業を起こして売り上げを伸ばしていっても、一般的にある一定の売り上げで限界が来ると言われています。
これは年間売り上げ3億円の壁と言われています。
どんなに優秀な人間でも、一人で事業の企画をして、お客様や仕事を個人的な人脈で探してきて、その仕事を実際にこなしていくのは限界があります。
これが売り上げベースで約3億円になります。
これ以上の5億円、10億円と会社の売り上げを伸ばしていくにはどうしても優秀な管理職、番頭さんが必要になります。
そのような方が4人いると組織は盤石になります。
 
一人の人間がきめ細かく指導できる部下の数というのはせいぜい5人~10人程度です。
ですので、社長は優秀な4人の管理職ときめこまかな意思疎通を図ることで会社の方針の共有し、一緒に頑張って会社を盛り立てていく必要があります。
 
次にその管理職の方は自分の担当する業務の方針を目の届く4人程度の部下と意思疎通を図りながら業務指示をしていきます。
こうやって4人×4人×4人・・・とやっていけば、会社の方針が社員全員に伝わるピラミッド状の組織ができあがっていき、どんどんと会社は大きくなっていくと同時に会社全体が同じ方向を見て仕事をすることができます。
 
軍隊などもまさにこのような組織構造になっています。
 
現在の組織論としては至極当たり前で一般的なことではありますが、おや様は156年前の慶應3年にこの十二下り目で、宗教上の組織が前提ではありますが、一般的な組織論も述べられているのではないかと感じました。
実際に創生期の天理教はおや様の出直しの明治20年のタイミングでは4人のようき棟梁が揃っていたので、その後に急激に教えが広がっていきました。
 
私も自分の会社でようき棟梁が4人揃ってくれないかと人材を探していますがなかなか難しいものです。
でもあきらめずに今いる社員を育てていくと同時に、ようきぐらしで社会貢献ができる会社を一緒に作っていきたいと思っていただける優秀な方がいれば外部からでも探し出していきたいと思っています。
きっと今の天理教の組織に於いても神様はそのように考えられていることと思います。
 
みかぐらうたでは、このように会社経営に置き替えても解釈することができるとしみじみと感じております。
十二下り目のおうたを噛みしめながら、私も会社経営を頑張って行きたいと思います。
 
 以上つたない話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)

 
(注1)
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飯降伊蔵 いぶりいぞう
生年月日 1834(天保4)年12月28日出身地 大和国山辺郡向渕村(現・奈良県宇陀郡室生村大字向渕)飯降文右衛門、れいの5人兄弟姉妹の5番目の四男亀松として生まれる。
お出直し 1907(明治40)6月9日出直し(享年75歳)
櫟本村で大工として生計をたてておられ、1864(元治元年)、妻さとの病気をきっかけに天理教に入信する。
1882(明治15)年、お屋敷に伏せ込む。
1887(明治20)年、教祖中山みき出直し後、本席となり神言をつたえ草創期の天理教を指導された。
伊蔵先生の口を通して、親神様の筆録を記したのが「おさしづ」として、同教の原典とされる。

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(注2)
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仲田儀三郎 なかたぎさぶろう
仲田儀三郎は教祖(おやさま)の最も古い信者の一人で、天保2年(1831)5月25日、現在の天理市豊田町に生まれた。
文久3年(1863)33歳の時、妻かじが長男岸松を生んだ後、身体の具合の悪いのをたすけられて入信した。
1カ月後には同村の辻忠作も入信し、2人でよく教祖に仕えた。
明治になって右衛門を名乗ることができなくなって、仲田は佐右衛門から儀三郎へ、辻は忠右衛門から忠作へと改名したが、教祖(おやさま)や周囲の人々は「さよみさん」「ちよみさん」と呼んでいたといわれる。
儀三郎は、『稿本天理教教祖伝』や『稿本天理教教祖伝逸話篇』にたびたび登場し、教祖の側で教祖にいつも仕え、「取次人」として寄り来る人々に話を取り次ぎ、各地へ「おたすけ」に行ったり、「おてふり」を教えたり、また、教祖のお伴をして警察や監獄に拘置されたりしている。
元治元年(1864)の春頃から、教祖は熱心に信心する人々に「扇のさづけ」を渡されていたが、儀三郎は山中忠七と共に、「扇・御幣・肥まるきりのさづけ」を頂いた。
同年の「つとめ場所」の普請については、畳6枚を受け持った。
明治7年の「かぐら面」のお迎えの時にも、秀司や飯降伊蔵などと共に、教祖のお伴をして前川家に行っている。
明治7年(1874)陰暦10月、教祖は儀三郎と松尾市兵衛に対して「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」と言われ、神職と問答をしている。
折り返し大和神社の神職が、翌日には石上神宮の神職が5人連れで教祖を訪問し、教祖との間で問答が行われた。
これがあって、奈良県庁の社寺掛から呼び出しを受け、さらに12月23日には、教祖が山村御殿(円照寺)へ呼び出された。
山村御殿では役人の要請に応えて、儀三郎は辻の歌に合わせ、おてふりを行った。
これ以後県庁はお屋敷へ参拝人が出入りしないように厳重な取り締まりを始めた。
12月25日には、奈良中教院から、辻・仲田・松尾が呼び出しを受け、信仰差し止めをし、お屋敷の幣吊・鐘・簾などを没収していった。
翌26日、教祖は「赤衣」を召されることになり、「一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井」と4人に直々さづけの理を渡された。
明治8年には、「かんろだいのぢば定め」に同席し、明治11年秀司を講元とする真明講設立の時には世話人として名を連ねた。
この頃から官憲の取り締まりが厳しくなり、教祖やお屋敷の人々と共に度々引致、拘留、科料などを受けた。
明治16年の三島村から頼まれて行った雨乞づとめにも参加し、この時も警察に引致され、後、科料されている。
明治17年頃からはこうしたご苦労を教祖にかけたくないとの思いから教会設置に尽力した。
明治19年の教祖最後のご苦労となる警察への引致・拘留にも教祖のお伴をした。
明治19年6月22日、56歳で出直す。
教祖は、「錦のきれと見たてたものやけど」と言われ、その死を惜しまれたという。

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(注3)
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松尾市兵衛 まつおいちべえ
松尾市兵衛は天保6年(1835)4月15日、現、奈良県生駒郡平群町自石畑で、野口吾平の長男として生まれた。
安政4年(1857)5月13日、近村、若井村の松尾市郎兵衛の長女はるのところへ婿養子に行き、楢蔵、与蔵、くにの3人の子供があった。
元治元年(1864)くにが生まれた後、はるは出血多量で一時危篤状態にまでなったが、同村の岡仙吉という人から神様のお話を聞き、お願いしたところ、18日目に床上げをするところまでなおり、20日目には夫婦そろって教祖(おやさま)のもとへお礼参拝に出かけた。
松尾市兵衛30歳の時である。
明治5年(1872)7月2日のこと、長男楢蔵の右足の関節に大きな腫物が出来てこまっていたとき、市兵衛は教祖のもとへお願いに上がると、教祖は
「それでは、行ってあげよう」
と仰せになり、この時、教祖は75日の断食の最中であったが、約4里(16km)の道を歩いて赴かれた。
教祖は松尾宅に13日間滞在され、いろいろお話を下さり、7月14日の午後、おぢばへお帰りになった(『稿本天理教教祖伝逸話篇』25-27頁)。
それから松尾夫婦はますます信仰にはげみ、朝の暗いうちから若井村を発って毎日のようにおぢばへ参拝した。
明治7年10月のある日、教祖は仲田儀三郎と松尾に
「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで。」
と仰せになり、2人は大和神社の社務所へ行き、神社の由来を神主にたずねた。
だんだん尋ねているうちに、先方は答えられなくなり、そんな愚説を吐くのは庄屋敷の婆さんであろう、怪しからん話だと怒ってしまった。
後日、石上神宮の神主が教祖のところへ文句をいってきたが、教祖の話に何とも反論できず、奈良県庁へ訴えた。
それが動機となって、明治7年11月15日の山村御殿における取り調べになり、以後、お道(天理教)に対する反対も激しくなるが、教勢はますます活発となり伸びていくことにもなった(『稿本天理教教祖伝逸話篇』115-118頁)。
松尾市兵衛は、明治11年(1878)の夏ごろより病気にかかり、仲田儀三郎、辻忠作、増井りんなどがおたすけに行ったが、明治12年1月17日出直した。45歳。

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(注4)
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辻忠作 つじちゅうさく
辻忠作は、教祖(おやさま)から直接仕込みをうけた高弟の一人で幼名を忠右衛門といい、天保7年(1836)大和国山辺郡豊田村(現、奈良県天理市豊田町)に父忠作、母りう(おりう)の長男として誕生した。
父のしつけと生来の負けず嫌い、それに何事にも熱中する性格とが相まって、1年を3年分にも働くということで、千日さんと綽名されるほどの無類の働き者に成長し、23歳で家督を継ぎ忠作と名乗った。
忠作は妹くらの精神障害を助けられて教祖に心が向き、追うように長男由松の原因不明の高熱をたすけられて信仰の心を固めた。文久3年(1863)忠作28歳のことである。
毎月26日、月に一度の参拝という形で開始された信仰は、やがて野良仕事がすめば夕食もそこそこに教祖の所へ通いつめて教えを受けるようになった。
元治元年(1864)には「肥のさづけ」を頂き、最初に「てをどり」の手ほどきを受けた。
忠作の信仰は、同じ豊田村の仲田儀三郎と競う形で固められ、明治6、7年頃には何かにつけて、教祖のお供をするようになった。
教祖と共に留置されたり、警察から信仰を止めるよう強要されたりしたが、動じるどころか、ますます信仰に熱が入り、履き替えの草鞋を2、3足も腰に結んで人たすけに歩き回り、ついには警官に「根限り信仰してみよ。その代わり本官も根限り止めてやる。」と言わせる程になった。
また、記憶力に優れ、事にふれては書き留めた忠作の手記は、天理教の初期の歩みを知る上で貴重な資料となっている。
明治19年(1886)の春から、教祖の指図によって家業を長男の由松に委せ、お屋敷に詰めて人々に親神の教えを取り次ぐようになった。
一途で子供のように純真な人柄は多くの人々から慕われたが、明治38年(1905)7月12日、70歳の生涯を閉じた。

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桝井伊三郎 ますいいさぶろう
嘉永3年(1850)2月12日、大和国添上郡伊豆七条村で農を営む伊三郎、きくの三男に生まれた。
幼名を嘉蔵といい、ついで伊右衛門と呼ばれ、父伊三郎が明治元年(1868)に出直したのち、伊三郎を襲名した。
19歳の時であった。
伊三郎の入信は元治元年(1864)であるがその前年、母は夫が喘息で難渋しているため、あちらこちらの神仏に願いをかけていたが、よくならなくて、困り果てていると、隣家で傘屋を営んでいる矢迫仙助から、庄屋敷の神さんに参るよう勧められた。
早速庄屋敷へ急いだ。
そして教祖(おやさま)に初めて会った。
教祖は、きくを見るなり
「待っていた、待っていた。」
と言葉をかけてくださった。
教祖の温かくやわらかな心に、きくはいっぺんに心を引かれた。
夫の病気は、ほどなく治まった。
翌元治元年、伊三郎15歳のとき、母きくが病気になった。
それ以前にも、母とともに教祖のところへ参拝していたところから、母の苦しむ姿を見るに見かね、夜の明けるのを待ちかねるようにして、教祖のもとへ願いに行った。
すると教祖は
「せっかくやけど、たすからん」
と言われた。
伊三郎は家へ帰った。
家では母が苦しそうにしている。
それを見ては母をたすけてくださいと、再び教祖のもとへお願いに行った。
すると教祖は
「気の毒やけどたすからんなあ」
と言われる。
伊三郎は家に帰った。
家では母が苦しんでいる。
それを見ては、たすけてくださいと、三たび、教祖のもとへお願いに行った。
日は暮れて夜になっていた。
すると教祖は、
「子供が親のために心を運ぶ、これが真実や、真実なら神が受け取る」
と言われた。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』16「子供が親のために」参考)
伊三郎は転げるようにして家に帰った。
数日後、母の病気は、すっかり直ってしまった。
桝井家では、入信の日を元治元年7月14日としている。
明治7年(1874)6月18日の夜に「神楽本勤」のとき、教祖よりのお言葉で「月よみのみこと」の座についた。
それ以後、かんろだいを囲んでの本づとめのときは、常に「月よみのみこと」の役割を受け持つことになった。
同年12月26日、教祖は初めて赤衣を召されて、みずから、「月日のやしろ」であることの理を、形で鮮明にされるが、同日、4人の人にさづけを渡された。
伊三郎は「かんろだいてをどりのさづけ」を頂いた。
この日が、身上たすけのためにさづけの理を渡された始まりとなった。
明治9年春の初め頃、伊三郎は中山秀司のお供をして、堺県庁へ出かけて、蒸風呂と宿屋業の許可をもらってきた。
この営業が始まると、伊三郎は風呂たきや宿屋の番頭もした。
来客は神様のお話を聞きに来る人が主で、朝と晩はおかゆ、朝帰る人たちだけはご飯を食べられたという。
また、この年8月17日、大和国川東村小坂へ辻忠作、仲田儀三郎などと、雨乞づとめに出張している。
さらにこの年、教祖の仲人で西尾ナラギク(桝井おさめ)と結婚した。
挙式は扇子一対をかわすという簡単なものだった。
明治16年8月15日、三島村での雨乞づとめに加わったというので、50銭の科料となった。
明治19年2月18日、教祖最後のご苦労の節で、櫟本分署で15日間拘引となったが、伊三郎も10日間拘引された。
明治20年2月18日(陰暦正月26日)午後のおっとめに、伊三郎はかぐらとてをどりをつとめた。
明治21年、天理教会所設置が東京で認可されるが、この設置とともに、天理教会本部理事を命ぜられた。
またこの年7月には伊豆七条村から引き移り、本部のうちに一戸建てを建てて住まいした。
明治35年7月の「教会取締条規」の制定によって全国を10教区に分けて取締員が任命されるが、伊三郎は第7教区(岡山、広島、鳥取、島根、山口)と第8教区(徳島、香川、愛媛、高知)を担当、同40年5月の「教会組合規程」によって、組合長となり岡山、香川、徳島の各県を担当した。
明治41年12月14日教庁録事、本部員を拝命。
明治43年7月1日出直した。61歳。

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梅谷四郎兵衛 うめたにしろべえ
弘化4年(1847)7月7日、河内国古市郡東坂田(後に西浦相乗阪田、現在は大阪府羽曳野市東阪田)に梅谷久右衛門・小きんの三男勝蔵として生まれた。
万延元年(1860)、数え14歳の時、親戚筋の「左官四郎」浦田小兵衛の養嗣子となり、四郎兵衛を名乗る。
明治4年(1871)5月、上野たねと結婚。
長男、二男の出直しが続いた後、明治10年に三男梅次郎が生まれた。
同年末、養父の出直し後、事情により浦田の家を出て梅谷に復籍、分家。明治12年、薩摩堀東之町の妻の実家跡に転居。
翌年、長女たか(後の春野タカ)が生まれた。
以前から内障眼(そこひ)を患う実兄梅谷浅七に薬を送るなど心を掛けていたが、明治14年、弟子巽徳松の父親と雑談中に大和の生き神様の話を開き参詣を決意。
2月20日、巽徳松とともにおぢばに参詣。
取次から聞く話に感動し、即日入信。
10日後には7、8名を連れておぢばに帰り、3度目は同行者30名という。
明心組の講名を拝戴し、講元となった。
入信直後からおぢばにつとめ、5月14日のかんろだいの石出しひのきしん、明治16年には御休息所の壁塗りひのきしんをしている。
明治15年の毎日つとめのとき初めておつとめに出る。
明治16年教祖(おやさま)御休息所お移り直後、赤衣を拝戴した。
この年に四男秀太郎(後、喜多治郎吉の養子)が生まれている。
明治15年10月と19年2月の教祖御苦労のときは、差し入れに行っている。
明治20年教祖お隠れの時は、家事取り締まり。
明治20年5月16日、息のさづけを拝戴。
入信した明治14年、中山眞之亮の後見役山澤良治郎の依頼により、教会設置を求めたが頓挫。
直後また、依頼により阿弥陀池和光寺へ手続書を提出。
明治17年、中山眞之亮もまじえて協議がなされ、5月に四郎兵衛を社長として心学道話梅谷四郎兵衛講究所天輪王社を大阪府に願い出た。
梅谷宅に標札をあげて、順慶町で参拝所普請に掛かったが、別に教会設置の動きが起こって、おぢばに教会創立事務所が置かれ、頓挫。
明治18年、教会創立事務所では選挙制や月給制度が協議されるようになり、四郎兵衛は参加を拒んで、おぢば参拝も1年ほど控えた。
参拝所普請は四郎兵衛の手で再開、明治18年末に飯降伊蔵を迎え上棟を祝った。
明治21年、教祖1年祭中止直後の教会設立協議に参加し、眞之亮の上京の際は、留守役を頼まれて4月からおやしきに寄留している。
教会本部設置とともに会計係兼派出係に任じられ、その後、本部建築係や別席の取次なども勤めている。
四郎兵衛は入信後も左官の仕事を続けていたが、明治20年6月、弟子の巽に譲って転居。
家族に洋家具商を営ませたが、翌年2月に廃業した。
この頃、筆1本が買えず、母と子が泣いたこともある。
明治22年2月から約1年、梅次郎は材木屋へ奉公に出た。
明治22年1月15日、船場分教会設置の許しを得て、初代会長となった。
天輪王社を解消、跡地で増改築を行い、10月に開廷式執行。
以後、分教会に住み込んだ。
明治22年12月23日、妻たねもおさづけを拝戴。
明治28年、詰所普請に掛かった。
翌29年、それまで月のうち10日間本部に勤めていたが、分教会の月次祭前後以外はすべて本部に勤めることにし、明治30年からは詰所に移り住み、明治32年5月31日、まだ22歳の梅次郎に分教会長を譲った。
2代会長は、米国布教やロンドン布教を推進している。
明治40年7月、京都と和歌山の教会組合長。
明治41年12月、本部員。
大正5年(1916)12月、本部会計主任。
大正7年4月、2代真柱教育委員。
大正7年8月14日、たねが出直し、四郎兵衛も翌大正8年5月29日に出直した。73歳。

喜び勇んでブログ(https://yorokobi-isannde.com/nakata-gisaburo/)より

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