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湯布院に魅せられて 2

このシリーズはその昔「アーバン・リサーチ」で連載した連載コラム
「LOOK BOOK COOK RECORDS 23 」からの再収録です。
というのも、
来たる11月30日から、私の魅惑の湯布院でアート展をプロデュースするからです。タイトルは、「 freedom dictionary 展 in 由布院 」
今年、2月〜3月渡って京都・東京で行った展覧会の第二弾ともいう展覧会です。今年35年目を迎えた、アートと選曲 雑誌「freedom dictionary 」
携帯や紙面では感じられないアートや選曲のリアルに伝えたいのです。
そのリアルな場は同時に交流の場でもあります。
特に若い人たちにはそこで人の多様性に触れて欲しい。
この考えに同調するグループがこの由布院には生まれたことが、
開催に参加した理由です。

芸術交円


芸術交円 geijutsu.kohen のステイトメントです。

美意識とは目に見えるようで、どうも説明がしにくい。しかし、美意識の高い人物や街が纏う雰囲気を他と比べた場合、その人や街の美しさは明らかになる。合理的に物事が突き進み、分断され共通言語が見出しづらい社会に、私たちは“美意識”という曖昧なものが、交点を捉え、深い繋がりを構築する力があると実感している。

芸術交円 geijutsu.kohen

少し回り道しましたが、湯布院で私が感じたコラムです。


偶然と必然の交じり合う
偶有性の海を泳ぐ
桑原 茂→の由布院旅情 その三
夢の輪 知恵の輪 奇跡の輪



旅情という響のイメージからは上記のような画像が浮かぶが、
旅情本来の意味はそこで出会った人々との触れ合いではないだろうか。
そして旅情を謳う私にも湯布院では奇跡的な出会いがいくつも連なった。
温泉旅館では私のベストだった
由布院「 亀の井別荘 」
そこへ今回は選曲家としてお招きを頂いたという奇跡。
大分県、秋の文化イベントの一つとして由布院で開催された
「 蓄音機コンサート 」への出演だ。
声をかけてくださったのは、
東京の神保町から由布院に移られた
「蓄音機の梅屋」の梅田英喜さんだ。
そこから始まる
夢の輪 知恵の輪 奇跡の輪 
今回の主題は人の輪の妙です。
まず、梅田さんの紹介で3泊4日の宿泊先に選んだのが
「束の間」。
ここの露天風呂の開放感は半端ない。
蕩ける温泉の質と温度は五つ星。
更に、ご主人の堀江洋一郎さんのおおらかさに
すっかり心身ともに癒されるのです。
また、今回は取材を優先し素泊りを選んだ。
初日は蓄音機愛好会の打ち上げでご馳走になったので、
二日目の夜からの外食だが、堀江さんのアドバイスは
湯布院駅からのメイン通りの中程を脇にしばらく歩いた先にある
知る人ぞ知る名店 焼き鳥屋「串焼き CARNE」
ファミリー全員集合にも、カウンターに男ひとりにも、
そして何より地元のみなさんにも人気のオススメスポットです。
由布院 夢の輪知恵の輪奇跡の輪 
その輪の原動力の要が伊藤剛好さんだ。
由布院の名所でもある金鱗湖の辺りにある「Cafe La Ruche」
同じ敷地内にあるシャガール専門のギャラリー、共にオーナーである。
お父上の代から続くこの地で、ご自身も19年に渡って商いされているそうだが、
まだ40代の若さだ。といって今時のIT長者のようなギラギラ感はなく、
佇まいは金鱗湖の水面のようにとてもたおやかだ。
しかも大変な家族思いとくれば、女性にはモテるだろうな。
更にありがたいことに、
私の過去にも精通されており、
話す一言、一言、耳に心地よいお褒めの言葉の温泉に
すっかり有頂天になり、あろうことか、
図に乗ってシャガール絵画にボウイの曲を当て振り選曲するという暴挙に出た。
生きることは誠に恥ずかしい。
で、草原を荒馬が駆け抜けるような颯爽とした日々をお過ごしの
伊藤さんのお陰でお会い出来たのが中谷健太郎さんだ。
由布院の主であり、あの亀の井別荘を創造された奇跡の輪の中心人物だ。
私が由布院を訪れたのは今回で5回目になるが、これまでお宿はいづれも亀の井別荘だった。
ある時は脳科学者の茂木健一郎さんをお連れしたこともある。
今も変わらずだが、その頃の茂木さんは日々締め切りに追われ、
温泉に浸かってゆっくりお話しすることは叶わなかったが、
お陰で、この時、茂木さんと一緒に、中谷さんご夫婦にもご挨拶させて頂いている。
思い起こせば最初の訪問は30代の後半だっただろうか。
和のティストにさりげなく洋が加味されている風情に
ただならぬ気配を感じた。
たとえば、部屋に通され最初にいただく茶菓子は地元の名品がふつうだが、
私が最初に目にしたのは、重い木彫りの皿に無造作に盛られた旬の果実の香り高いマーマレードだった。
高級旅館ならば、どちらも渋い濃い美味い日本茶を立ててくれるが、
そこに芳しいフレッシュなマーマレードとは誠に憎い粋な演出だ。
日本間の設も重厚で落ち着いている。無駄がない。
もちろん、スリッパなどというゲスなものはここにはない。
当たり前も余計な飾りもないのだ。
木の香りに包まれた八角形に組まれた大浴場に立ち込める白色の湯気が
ゆるゆると心の緊張を旅の疲れをほぐしてくれる。
湯上りの火照った身体に風を入れる部屋までの道行に映画好きなら我が目を疑う
「天井桟敷」
これこそまさにサロンと呼ぶに相応しい。


宿のご主人が以前東京で映画の助監督をされていたとは耳にはしていたが、
見事な書庫の選書にモダンなセンスにもう一気呵成に一目惚れしたのだ。
しかも、このサロン名の由来が、フランス映画の邦題「天井桟敷の人々」からに違いないとすれば、
つまり、フランスがナチスに占領されていた時代に作られた映画だったことを思い起こせば、
この宿のご主人は映画好きなだけではなく、きっとレジスタンス( 自由と解放を求める政治的抵抗運動 )な
反骨精神をお持ちの方に違いないとお見受けし一人唸り納得鑑定したのであった。

そして、部屋に招かれた。
中谷健太郎さん、御年 84歳。owakai
「 フリージャズ 我執す てんと思いけり 」 岡潔
違うがな、ジャズじゃあらしまへん。フリージア 植物でんがな。で、
「 人と人との間にはよく情が通じ、人と自然の間にもよく情が通じます。これが日本人です。」
「情緒と日本人」岡潔著 
  嵌った。


伊藤さんも、知恵の輪の皆さんも、
誰もが敬愛を込めて、
中谷さんを、健太郎さん と呼ぶ。
そんな信頼の人、健太郎さんの笑顔に、
初めてお会いした緊張がホッコリ解けていく。
まさに、人間温泉だ。
さて、私がこのコラムで健太郎さんのことを話したかったのは、
実は、健太郎さんが「革命家」だったと気がついたからだ。
「 戦乱の世紀が終わったけれど、新しい世紀もまた暴力の予兆に満ちています。だから世界中の人は安全で、

静かで、心癒される「 時 」と 「 場所 」を求めている。それを提供できる湯布院という町こそが、
これから多くの人を救い、そして、その故に、町自身も救うのです。」
(2000年九月 湯布院町長さん宛て・中谷健太郎私信)
頂いた健太郎さんの書籍、「 由布院に吹く風 」からの引用だが、
これは革命家の言葉である。
60年安保に挫折した闘士は、
由布院で新たな革命を成功させたのだ。

蒼いスリッパの側にぬいぐるみの鳥が置いてある。
子供が遊んだままなのだろうか・
うん?鳥が消えた。あれ?あの鳥は本物だったのか。
小鳥もきっと健太郎さんの温もりを求めて遊びに来るのだろう。

目を見張るとはこの書庫。天井桟敷風な天井から垂れ下がっている紅白のロープは何か?
健太郎さんが深く沈んだソファから読書後に立ち上がる際の杖の役目をするロープだった。
膝が怪しい私にも大変嬉しい設だこと。
” この膨大なコレクションの期間は?" 
" 五十年くらいかな ”
健太郎さんには笑顔で答えてくれた。
緊張のあまりとはいえ、なんとつまらない質問をしたのだろうか、今更ながら恥ずかしい。


何だろうか? この問いに、私が答えられる日が、
人ごとのように待ち遠しい。

その心は、読みたいのです。


素泊まりで、すべて読み終えるまで このぬる湯に浸かっていたい。
欲望の最高峰 読書なり

「 心の眼が開いていないと、もののあるなしはわかるが、もののよさはわからない。たとえば秋の日差しの深々とした趣はわからないのである。」
    岡潔


さて健太郎さんのこれまでのことを少し、
30才を過ぎた頃、結婚まもない奥様と東京から由布院へ戻られたとのこと。
理由はお父様の病死で宿を継ぐ必要があった。が、健太郎さんは助監督の仕事を諦めきれず、
物理学者で随筆家の宇吉郎伯父に相談したところ、癌で座敷に横になっている伯父が即答した
「すぐに帰れ」
撮影所は業界の狭い人間関係でできている。しかもシノギを削る場所だ。
宿屋は違う、宿屋は内外の広い人間関係でできていて、
しかも人様が、のんびりするために来られる場所だというんです。
「立派な人たちが心を開いて、ワザワザ訪ねてきて下さるような仕事は、
旅館のほかにありやせんぞ」

で、お戻りになったそうです。
 
元々、亀の井別荘は、その昔、別府の奇人・亀の井ホテルの油屋熊八翁が、
健太郎さんの親戚筋に由布院にVIP招待用の別荘を作らせたことが始まりのようで、
熊八さんは、その頃九州横断道路を造って観光ルートを中国・上海にまで伸ばしたいと企んでいた人で、
由布院はそのロビー拠点だったようで、当時の政財界の要人、文人を招いて人脈を固めようとしていたそうです。 
お迎えしたのは以下のような方々だったそうです。
犬養毅 大内暢三 荒木貞夫 若槻礼次郎 李鴻章
(ルーツの説明を端折りました故ご容赦を)


健太郎さんのことだろうか?痺れるタイトルの書籍に遭遇。読まなければ。
で、話は、再び「 由布院に吹く風 」中谷健太郎著
「怒りをこめてふりかえれ」
ある時健太郎さんは、本棚にこの作品を見つけ次のようなメッセージを投石している。
(一部カットアップで引用させていただく)
今から45年前の国会議事堂。その10年前に日本が独立して、サンフランシスコでアメリカと単独講和条約を結んだ。
それが今延長される。待てよ、今度は世界の国々を相手に「全面講和」を結ぼうよ。主体的な全面講和によってこそ、日本は本物の独立国になる。世界に向かって均等に胸を張ろう。等距離外交を打ち立てよう。アメリカとだけ手を結んで、「安全保障」をねだるのは危険すぎる。多くの人の血が流れ、東大生の樺美智子さんが殺された六十年安保闘争の核心が、このような願いであったことを、今思い出す人は少ない。鍋・釜を叩き、こうもり傘を振り回して、ワタシも警官隊の諸君と向き合った、大きな「怒り鳥」を一羽、
鳩尾の上に飼い慣らしながら…。そこから何が生まれたか?次の70年安保闘争の惨敗と、浅間山荘事件、パレスチナ民族解放戦線につながる「孤立」と「断然」の道のりだ。同じ町に住み、同じ国に生きて、お互い何を望み、
何を共有したいと願っているのか、そのことを全力で明らかにするのでなければ、「連帯」など生まれはしない。学んできた事、体験したきた事、
考えてきた事柄を突き詰めて、人たちに明解に示し続ける。お互いに投げかけあって磨き続ける。それが「怒れる若者たち」が自分に課した「ふりかえる」行為の中身ではなかったか?「願い」をとりあえずの旗印にして、
「仲間」を有利に導こうと姑息に動けば、歴史は「議会制民主主義」という「数の暴力」をむき出しにして襲いかかってくるだろう。
数冊おいてヘミングウェイの「日はまた昇る」があった。
こいつは洒落ている。「怒りをこめてふりかえれ」「日はまた昇る」か、
よろしい。これで行こう。(ふるほん福岡vol.3.2005)一部引用

革命家、健太郎さんの熱い想いがヒリヒリと伝わってくる。
こうした哲学が思想が由布院の未来を輝かしい町へと結実させる原動力でもあったのだろう。
この本の前書きでは、このように述べられています。
私がこの町で希望を失うことなく
四十年間、なんとか生きて来られたのは
「 小さな町こそが美しい 」
という信念に支えられていたからです。
この一節は2003年に当時の役場の皆さんへ送られた手紙の一部です。
健太郎さんが15年前の70歳の頃書かれたものですが、
「 小さな町こそが美しい 」
十五年後の今日、日本を見回してみると、
この言葉の精神を受け継ぐ町が希望を灯し
身の丈以上に大風呂敷を広げた町は
もしかしたら暗く沈んでいるのかもしれません。
最早、30年前に後進国と呼ばれた国々が
今や、私たちの国を見下ろしている。
傾きかけたこの国を呪う前に
私たちは、健太郎さんの歩んだ足跡を
もう一度見直す必要があるのではないか?
健太郎さんはこう言います。
「 中と外が呼吸するという視点と力点が必要なんですね。
町が長い歴史の中で、どのようなものを取り込み、どのようなものを生み出してきたかといった、
ダイナミックな呼吸作用としての僕らの闘いを見てくれれば、
由布院をめぐる情報も変わってくると思うんですね。」
私が幸運にも由布院の奇跡の輪に加わり、拙い言葉伝えたいことは、
由布院には大きな希望があると感じているからです。
そう、革命家である健太郎さんの精神をしっかり受け継ぐ人の輪が
由布院にはちゃんとあることだと思います。
伊藤剛好さんを筆頭に、中谷さんを健太郎さんと呼ぶ次世代の経営者たちです。
その奇跡の輪に幸運にも繋がれたことが私の旅情の最高の収穫だったのです。
で、私の心に残っている健太郎さんの言葉は、
「 対立的信頼関係じゃ 」
答えをむき出しにできない問答を繰り返してきた健太郎さんならではの
これ以上はない 前向きな 言葉だと思った。
人間愛とでも呼べば良いのでしょうか?
はたまた、正しい答えだけでは人は生きていけない。とでも。
といって、諦めているのでもない。達観しているのでもない。
で、紅白のロープの近くで、販売化と書かれた本棚を物色していると、
小さなバッチを私に見せて、
実は、フクロウの会というのがありましてね。
色々な人が訪ねてきてね、色々頼んでくるから、
私はね、ホウ、ホウ、ホウ、と頷いていてね。
ホウ、ホウ、ホウ、なら
yes でも noで もないからね。
ホウ、ホウ、ホウ、ってね。
それで、ふくろうの会のバッチを付けていればね。
バッチを指し示してね、
はい、私はふくろうの会のメンバーなんですってね。
それなら波風立たないでしょう。
一休さんのようなとんちの効いた愉快を話してくれる。
知恵のある人のユーモアには必ずとんちが効いている
またして一人納得唸っている。
で、ふくろうの会とは、
フクロウはギリシャでは「知恵の神さま」あるいはその「使い」と考えられておりました。
今、私たちの身辺で湧き起こっている「戦争と暴力の予兆」に
「知恵」をもって立ち向かおうよ、というのが「ふくろうの会」です。
湯布院の外れに「日出生台」があります。陸上自衛隊の演習場です。
そこに沖縄の米軍第三海兵師団がきて、実弾演習を始めるというのです。
明治三十年代に拓かれた旧日本陸軍の演習場が平成の代になって、
米軍の力で強化される。ロシア・中国・太平洋と次々に展開された戦争の歴史が、
更に未来に向けて固定され、約束されるのです。子供たちのために、
私はそのことを悲しみます。なぜ人は戦うのか?「平和」を願うからです。
親しい家族やふるさとを守るために人は戦い、血を流す。そして「戦い」には
勝たなければならないから、国は軍備を強化する。はっきりしています。
強い武力が弱い武力を撃ち負かす。それを「平和」というのであるか。
それは「戦い」であって「平和」ではないのではないか。
それならば「平和」であるためにはどうすれば良いのか?
それをはっきりさせてゆこう、というのが「ふくろうの会」の趣意であります。


二日目の午後をたっぷりと健太郎さんの庄屋サロンで過ごさせて頂き、
ほんの少し打ち解けた話ができるようになったので、
私が初めて亀の井別荘を訪れた時のマーマレードの話をふったところ
健太郎さんは、小動物の墓石ほど重い書籍を持ち出してきて
紅白のロープが天井からぶら下がる丸テーブルに置いた
うちには色々な方お見えになってね、この本もデュカスさんがもってきてくれてね。
しかもスペインに視察に伺った時には視察団全員に特別なディナーを振舞ってくれたりね。
健太郎さんはとても嬉しそうに話してくれる。私も心が弾む。
「立派な人たちが心を開いて、ワザワザ訪ねてきて下さるような仕事は、
旅館のほかにありやせんぞ」

すぐ帰れ!の号令を出した物理学者で随筆家の宇吉郎伯父さんのあの時の台詞は、
半世紀を過ぎた由布院で誠だった。


違う。違うと確信した。人間は平等でもないし、人種差別もある。
だが、あらゆる文化の中でも 食は  美味しい笑顔で分かり合えると 
思っていた。

しかし、明らかに感性が違うのだ。だからこそ、わかろうとする 
前向きな こころが 大切なんだと思う。


文・画像 初代 選曲家 桑原茂→


情報

「 亀の井別荘 」
https://www.kamenoi-bessou.jp/
「 蓄音機の梅屋 」
http://umeya.bz/
「 束の間 」
https://tsukanoma.club/
「Cafe La Ruche」
https://www.chagall-museum.com/cafe/index.html
 
 「串焼き CARNE」
https://tabelog.com/oita/A4402/A440201/44009640/

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