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マイノリティとかマジョリティとか

自分を俯瞰する

私には、「自分を俯瞰する」という感覚があります。

私は他の誰かにはなれないので、他の人がどんな感覚で「自分」のことを見ているのか、ということはわかりません。

「自分を俯瞰する」ということについては、こちらの記事でも少し触れています。

この記事を書いた時に、あ、そういえばあの時もそうだったな、と思い出すことがあったので、書いておこうと思います。

固定観念の呪縛から抜けた日

私は、出産したことがありません。

自然にまかせて、今に至ります。

ここに至るまでは、世の中の、出産適齢期と言われる時期を過ぎても出産経験のない女性の多くがたぶんそうであるように、それなりに悩んだり傷ついたりもしてきました。

でも、私はここに至るまでの過程で、ある意味では、「新しい自分」というものを出産したのかもしれない、と思っています。

結婚してある程度の年数がたったころ、妊娠と出産を期待する周囲のプレッシャーがきつい時期がありました。

周りの勝手な価値観を押しつけられ、それに応えられない自分を「できそこない」のように感じて、顔で笑って心で泣く日々を過ごしていました。

周囲のプレッシャーに負け、悲劇のヒロインになりきっていた、ある日のことでした。

そんな自分から「スポッ」と意識が抜けて、その状況を俯瞰している自分を、突然感じたのです。

あれ?
そういえば私、そんなに子供産みたいって望んでたっけ?

出産適齢期の女性は、子供を産んであたりまえ。
子供を産み育てることこそ、女性の幸せ。

こうした世間の固定観念に縛られ、それこそが女性の唯一の価値なのだと思い込まされ、身動きがとれなくなっていたのですが、突然、あれ?となったのです。

自分に戻る

そもそも私は、結婚に憧れることすらなかった人間でした。

当然、子供を産むことや家庭を築くことに、夢を抱いたこともありませんでした。

それは、家族や血の繋がりというものに対して、不信感を持っていたからだと思います。

特別複雑な家庭で育ったわけではありませんが、特別恵まれた家庭で育ったわけでもありません。

が、幼い頃から、人間の「表の顔」と「裏の顔」というものに敏感で、「幸せそうに見える家庭」が「幸せな家庭」とは限らない、という思いは、ずっと持っていたように思います。

そんな私でしたが、縁あって夫と出会い、結婚しました。

その後、先に書いた流れを経て、あれ?となった私は、改めて、全ての固定観念を疑い、取り払ったうえで、自分の心と向き合ってみました。

産みたいのか、産みたくないのか。

結論を言えば、絶対に産みたい理由も、絶対に産みたくない理由も、特別見当たりませんでした。

自然にまかせて、授かれば産むし、授からなければ産まない。

とてもシンプルでした。

心がフラットになったところで、じゃあ、自分の人生を主体的に考えるとしたら、自分はどうありたいのか、と考えてみました。

自分と「血縁的な繋がりのある子供」にこだわらず、自分と縁ある全ての子供を「精神的な繋がりのある子供」として寄り添いたい。

もっといえば、縁ある全ての人に寄り添いたい。

自分のやりたいことをやりつつ、自分自身にも他人にも、愛のある生き方がしたい。

私には、「腹の奥底の方から喜びがわいてくるような感じのするもの」こそ、自分の魂が望んでいることなのだと、これまでの経験からわかっていたので、そう自覚するまでに、あまり時間はかかりませんでした。

偶然か必然か、多くの子供たちと縁を持てる環境の中にあり、私の望みは叶っています。

そんなこんなで、今に至ります。

戦争の原型を見る

あるひとつの視点から見れば、私は「マイノリティ」な人生を歩んでいると言えるかもしれません。

でも、できるできないの問題こそあれど、私にとっては「何を選んでもいい」ので、そんな自分を卑下することも、誇ることも、必要ないように思います。

自分が望むように、ただ、在ればいい。

自分自身がそんな感じなので、他人が何を選んだとしても、それはそれで、全て素晴らしいのだ、と思えます。

自分で自分を認めたら、不思議と、こういうスタンスの私に攻撃を仕掛けてくる人は現れなくなりました。

「自分とは違う価値観を持つ人と争う気持ち」を捨てたら、目の前から争いが消えました。

私はここに、戦争の原型を見た気がしています。

自分を肯定するために、他人を否定する。

自分の外側にあるものを見て、自分の幸せをはかっている限り、永遠に争いのループから抜け出せず、浮いたり沈んだりして苦しむんだろうな。

元々こういう考え方をするところはありましたが、ここでさらに大きな気づきを得たことで、より日常的に意識を持って自分を眺めるようになった気がします。

自分という人間はひとりしかいない、ということを考えれば、誰もが「マイノリティ」であるはずで。

地球に住んでいる、ということを考えれば、誰もが「マジョリティ」であるはずで。

目の前の現実的な問題の数々に感情を揺さぶられ、どっぷりと飲み込まれそうな時ほど、俯瞰する視点が教えてくれることに耳をかたむけたいと思います。

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