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育てるって、信じる事だと思う

娘も息子も大学生になって家を出て、さすがに最近は少しずつ自炊を始めている。自炊に限らず生きて行くこと一般に対して「思ったよりちゃんと出来てるな」と親として思い、少しホッとしている。いつかちゃんと気付き、必要な事の中から絶対聞いておいたほうがいいことを聞き、自分でいろんな事を手探りで覚えていく。それを出来るようになると信じていたけれど、実際出来るようになるまでの長い時間は 母としてはこっそり針の筵だったから。結果として見えていないのだから、他の人に非難されても何も言い返せない。

どんなこともそうだけれど、自ら奮闘し格闘する以外に大事な事を理解し上手くなる方法はないのではないか、と思っている。家事についてなんて、最たるものだ。入り口になる「技術」「知識」は、学校ではないので日々の小さな事から伝えて行けばいいと思うが形として「出来る」ところに到るにはとにかく時間がかかる。
あ、今日は「子育てに必要とされる基本のことを教えていない」と言われた事に対しての「言い訳」の文章なので、もしイライラさせてしまったらスイマセン。

見方によっては私の子育ての方針は回りくどいかもしれない。というか「無責任」と受け取られるだろうな。実際そう言われたことがある。子供達に家事すら教えていないと。

言い訳を最初にすれば、私的に「きちんと」家事は教えてきた。少なくとも必要な基礎は、理解できる年齢になったときに少しずつ教えてきた(それとそれを使っていつも出来る、ということは別だ)。ルーチンで子供達に家事のなかの何かをさせるというのをやってこなかったのは、基本を教えておけば必要性が出たときに自主的に考えざるを得ないし考えるということを出来る子供に育てておけばいい、と思っていたからだ。

家事の基礎を教えて必要性はあとで分かれば良い、どこで恥をかくかもわからないから、という考えもよく分かる。結局意味を考えず繰り返すしかその先に行けないこともある、というのは心から同意する。

勉強のほうだが公文はやらせた。やらなければいけない、ではなくて「放っておくと怠惰になる」年齢にチャレンジと最低限のやることを与えたかったのだ、成功したかどうかは甚だ疑問だが。
私だってドリルものって大嫌いで、続いたためしがない。でも学校でいやいややっていたドリルは確かに基礎になったから、その分野で飛び抜けなくていいからこの「あれ、アレが基礎になってるんだ」と気付く経験をして欲しい、それだけだ。

ただ、早い時期にその「繰り返しをする」を家事に広げると子供は「母が楽をしたいだけ」という安易な結論に辿りついて考えることをしなくなる。だから子供達に「続ける形での家事」では要求しなかった。私の分担を減らすためにやってもらっていたのは芝刈りくらいだと思う(それでも、多くで私がやっていた)。

大体やる気のない子供に教えても親がイライラするだけだ。コレに限らず「自分で自分のやり方を見つける」というのを私は子供達に選んで欲しいと思ってきた。

家事ではなく「勉強」で考えるとわかりやすい。「学ばされた」教育の中身で、何歳になったら必要性を感じられるようになるだろうか。私は40台も半ばを過ぎてからだと思う。それまでは本当の所なぜ横並びに学んで来たのか、なにが良かったのか、必要性はどこにあったかを短い言葉で言うことはできなかった。皆さんはどうなんだろう。

私はありがたいことに?違う文化の中に生活の拠点を置くようになった。このなかで降り積もる違和感や疑問、時に他人を怒らせたりする中で自分の常識や「こうあるべき」の外壁をこわされたり壊したりしなければいけないことが続いた。
結局マナーとか基礎知識なんてものは それぞれの社会や文化・地域で全く違うのだ。自分が覚えてきたことが正しいなんて、おこがましいにもほどがある。相手も同じように考えているはず、なんて幻想だし それは「心遣い」ではなく驕りだ。(付け加えておくが、マナーの基礎は多分他の家よりうるさく教えたとは思う。ただ、それはスポーツのルールと一緒で、マナーには時と場所というものがある、と伝えている。)

もうひとつ付け加えさせて欲しい。これらを「自分で気付ける子供」に育てると決めるのはチャレンジだ。結果はなかなか見えない、もしかすると一生見えないかもしれない。でも我が子のことを信じて、危ないところのフォローは引き受け、必要な所では手綱を締める。
周りからはきっと「あんなことも教えないで」と陰口をたたかれる。それでも子供の成長を信じる。
今、なんとか「まとも」になってきた子供達をみて私がホッとし、そこで「教えていない」と改めて言われることに激しい怒りを感じる理由だ。

身近な人に家事を子供に教えていない、と叱られたとき、反論したい気持ちは沢山あったが黙っていた。やり方や子供の育て方はもうそれぞれの人間の人生観でもあるから、その私を叱ったひとのやり方に合っていない時点で私は何も教えていないということになるのは仕方ない。

でも、と思う。
教わることが一番のしあわせではない。自分で掴んだやり方や、自分できちんと頭を下げて教えを請うこと、その時の本気度、全部が自発的に揃わないと驚くような世界が見える事はまずない。


日常はつまらないことの繰り返しだ。最初の勉強がそうであるように。つまらないことを「他の人に怒られるから」「他の人を嫌な気持ちにさせるから」という理由で教えるのは間違っていると思う。
つまらないことの「必要性」を理解できたとき初めて「つまらないことをそれでもやっている他の人」の気持ちが理解できるはず。そして、アメリカみたいにみんなが違う文化のなかに生きてて当然、という基本があると 「他の人」視線が【気のせい】だと改めて気づき、その上で「そんな他の人たちにも迷惑にならないように」というさらに深い考え方、見方もできるようになる。

だから、その人のいう「最低限教えてあげること」の7割は私にとっては教えなくて良い事、だった。教えることのほうが弊害が大きいとも思っている(が、それは私が海外に暮らしていて考えの基本が違うからで、その人を否定するのは間違っている)。
本人がなにをどこでどう身につけていくか。スマートではないかもしれないけれど、自分で尋ねたり失敗したりしながら身につけたものは忘れないし応用がきく。

子供が恥をかいたら可哀想だ、と言われた。
そうだろうか?恥をかく社会の背景を理解することの方が大事だと私は思っている。それも若ければ若い方がいい。トシをとっての恥は、結構心に堪えるから。

相手の文化を先ず知り、その中で自分の立ち居振る舞いを考え、わからなかったら勇気をもって尋ねて 最終的に皆が気持ち良くすごせる場を一緒に作れるようになる、そういうのが一番正しいスマートさじゃないかと思う。


ごくごく基本的なことや、安全に道具をつかうことを教える。
そのあと どういう風に学び、教わりたいか、は本人が決めればいい。
くどいが放っているように見せながら見守るのは難しい。子供達が出来るようになる、と信じる事は、言うほど決して簡単ではない。だって、自分でやってしまったり教えちゃった方が楽なんだから。教えておいて「前に教えたでしょう!」と怒る親になりたくなかっただけだ。

でもまぁ、【見ていない風で見ている、というのが本当はとても気を使うことで「万が一対策」を常にシミュレーションしなければいけない】なんて外見そとみからはわからないものだよね。それをあとで説明しても10人中9人は言い訳をするなって怒るしね(うちのオットですら時々それで怒るもの)。私が入れるフォローを「そこに居合わせて良かったね」と偶然が手伝ってくれたことだと思う人たちに、その前から考えてたなんて説明する必要なんかない。
だから、私が怒られていればいいんだと思ってる。相手が正しいと信じる事を打ち負かしたって何にも良い事もないから。


そして願った通り、子供達は少しずつ「あれこれ出来る」ようになっていく。彼らが自分の力でできるようになっている、と実感していればそれでいい(ここで言い訳しているけど)。「うちのかーちゃん、何にも教えてくれないから」そういう風に笑って話すようになってほしい。
そういう応用範囲の広さをもったカッコいい人間になっていってくれたら、親が他人にどう言われたって思われたって別にどうでもいいと思うんだ。

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。