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キリギリスの夢

1. 11月

「なんかさぁ。この受験勉強やって私達、どこに辿りつくのかなーって考え始めちゃって」

2杯目のコーヒーをこぼさないように机においてから椅子をひいたところで、隣に座っていたひぃくんが長い髪をまとめ上げながら大きくはぁ、とため息をついた。そして独り言とも誰に話しかけているともつかない口調でぼそぼそと言い出したのだ。

11月に入り、大分街路樹が色づいてきた時期だった。いつものフードコートで、いつものようになんとなく二浪の3人が集まってそれぞれの勉強をしていたときで、聞き流そうかと思ったけれど、私は発せられた言葉の意味がよく分からなくて「ん?」とひぃくんの横顔を見る。

「・・・それって、悩み?この時期に意味なんて考えるものか?あ、心境変化の報告?それとも独り言?志望校でも変えるの?」

今日は3人のうち誰よりも早くここで勉強を始めていたらしいオノちゃんが苦笑いしながらノートから顔を上げて言う。

「俺、今めっちゃ集中してこの問題解いてんだけどさ。なんなのその分かりづらいつぶやきは。一緒に考えて欲しい、ってやつ?」

まぁまぁ、といいながら私も割り込む。

「そう言うオノちゃんもさ・・・’その’問題はアタシのです、集中したいなら学校の自習室にいきましょうよ」

私はその確率の問題を20分くらいあーでもないこーでもないとこねくり回したあと、ついさっきギブアップしたところなので機嫌はよくない。気分を変えようと新しいコーヒーを買って席に戻ったら、丸テーブルの向かい側にいたオノちゃんがその私の問題集を手許に寄せてその問題を解き始めていたというわけだ。数学科だった人の手助けは有り難いんだが正直すらすら解かれたらめっちゃ悔しいから。
出題範囲に書いてあっても出るかどうかはわからない確率問題は、不得手感も手伝って私には鬼門なんだが、試験に出ちゃったらせめて小問のひとつやふたつ書けるくらいにはならないと大きく点数を落とす。実際去年受験した公立校で大問3つのうちひとつが確率問題で、あわあわしているうちに試験が終わった、いろんな意味で・・・

「自習室の雰囲気が嫌いな人間がここにいるんだろ、ここは俺らの自習室と同じだよ」
「それで・・・今のはひぃくんの新しい悩み報告だった?」
「おい、無視すんなよぉ」

各自2時間くらいは集中して勉強していたのもあって、全員おしゃべりのタイミングだったみたいだ。オノちゃんは笑いながら自分も次の飲み物を買うために立ち上がり、ひぃくんは んんんーーーと言いながらストレッチし身体をひねる。美人がごきごきと背骨の音をさせるのは・・・どうかと思うが。

「んー、そうねぇ。そもそも『なんで受験勉強しなきゃいけないか』って浪人生には無駄な疑問よね?なのに思い始めちゃったの、受からなかったらタダの無駄になる勉強をどうしてやってるんだろ、もう止めちゃいたい、とか・・・潰れちゃいそうな感じに」
「・・・うん」
「それがなんか最近さ、気付いたら〈疑問もなく惰性で勉強してる自分〉が日常になってるのよ。それもある意味ダメよね・・・」
「えーと・・・ごめん、やっぱり言ってることは分かってないけど、とにかく今 新たな人生の疑問を持たなくてもイイのではないでしょうか?センター※まで1ヵ月ちょっとしかないんだし。」
  ※大学入試センター試験、1990年〜2020年で終了。現在の大学共通テストにあたる。

まぁねー、といいながらひぃくんは手許の冷めたチャイを一口飲み、はぁ、とまたため息をつく。
「ま、そんな無駄なことを考えること自体、既に逃避なんだよね。あー逃避逃避。逃避ばっか」
「・・・しゃーないよ、それは。私達は常に逃避の海を泳いで渡っているのよ」
着地場所のないいつもの話。

「で?なんの話だったの?」

戻って来たオノちゃんをチラッと見て、でもそれに答えずにひぃくんはノートを拡げる。

「なんでもない。いつもの逃避からの独り言です。」
「まぁな、嫌になるよなぁ、なんで今またこれやってるんだろ、って思うよ。早く終わらせたいよな。」

話を切り上げようとするひぃくんの言葉にかぶせるようにオノちゃんが言う。でもそれは嫌な感じではなくて、とても優しい、理解してるよと言ってるような響きだ。オノちゃんらしい。

世の中にイルミネーションが輝き出すこの時期は、高校3年生の受験生はもちろんだけど浪人生には結構つらいのだ。寂しいとか世間から取り残されてる感とかだけじゃなく(もちろんそれもあるんだけど)、またこの時期こんな気分かぁとか、いよいよ本番が目の前なのにこれでいいのかというような「浪人生心理」ともいえる追い詰められ感とか。。。逃避すると自分が追い込まれるし、でも気分を変えないとさらに気持ちが追い込まれる。ほんと、いろんな意味で心に「来る」。

1人で勉強していると時間の感覚が狂いどうしようもない不安感に襲われる。時間は無いと思うのに永遠にこの1人の戦いを続けて行くような気もする。どんなに勉強しても不合格しか手の中に入らないのではないか。そんな気持ちに 後ろからじりじり近寄られて取り込まれてしまいそうな気分になる。

つまりは「もうこんなの止めたい」の泣き言を言いたい時期なんだ。私の頭の中にはこういうとき、イソップ寓話のアリとキリギリスに出てくるキリギリスが現れる。高校時代という夏を謳歌してた私。今ぼろぼろになったキリギリス3人が頭を突きつけ合って、でもそれぞれの「この冬の越え方」を真剣に考えている画が浮かぶ。

「・・・でもさ、こうやって独り言につきあってくれる君たちがいて、私はしあわせだと思うよ」

ひぃくんのところから着地点を決めない話題は 宙にぽわんと浮かべられた。その大きなシャボン玉のような話題を、ため息と自嘲的な笑いとで吹き上げたりくるくる回したりしながら、ひとくちずつ3人でぱくりぱくりと食べては小さくしていく。そのシャボン玉がなくなったらまた勉強時間だ。消化不良にしないために、問題集をひらくのだ。

多浪生の私達は抱え込みすぎないように、逃避する自分を責めすぎないように、上手に分け合って今日の〈気分の波〉をそんな風に乗り越える。単調な時間を繰り返して前に進む。脳の一部分を麻痺させて私達は今日も勉強をするしかないのだ。

2. 仲間

私、加地妙子は受験した学校に全敗して2浪目を地元で過ごすことにした。1浪目は東京の、医歯薬進学に的を絞った専門の予備校に行っていたが、浪人生なのにさすがに2年も東京に出して貰うのは気が引けたから。最後の不合格通知を受け取ったあと地元の予備校の試験を受け(クラス分けという目的もあるけれど予備校にも一応入校試験がある)、ラッキーなことに授業料免除になった。親へ「サボってたわけじゃないんですよ・・・」の言い訳材料が出来たようでちょっとほっとしながら、今年は予備校には自宅から通っている。まぁどうせ通るなら大学に通りたかったんだけどな・・・

高3のときのクラスメートだったオノちゃんこと尾ノ内佑介も今年同じ予備校に入ってきた。私立の数学科に現役で入ったのに「やっぱやりたいのは手でなにかを生み出せるエンジニアリングって思っちゃったんだよね」とすっぱり大学をやめてきたオノちゃん。「お、こんなところでまたクラスメートだな、タエ」と予備校で声をかけてくれたときは、地元に2浪生(正確にはオノちゃんは違うけど)として戻った仲間がいたことに私はちょっとほっとした。

オノちゃんは高校時代はまぁクラスメートとして他愛ない話をする程度の友達だった。でも多浪生同士として仲良くなってみたら賢さはもちろんのこと、オモシロくて、ごくたまにちらりと毒も吐くけれどその後に必ずフォローも入れてしまうようなお人好しさが滲む、どこから見てもいいヤツだった。高校時代の友達にも後輩にも慕われていたオノちゃんがしっかり見えてくる。オノちゃんには多少の性格の難とかないと人間のバランスとれないよ、と言ったらそれは褒められてるの、怒られてるの?と真面目に聞かれて困った。

国公立理系を目指すもの同士でもともと履修科目もかなり被っている私達は予備校でいつも行動を一緒にしていた。予備校の事務のひとに「え?付き合ってる訳じゃなかったの?」と言われた事もあるが・・・ この状況で、元クラスメートで、冗談の通じる気持ちのいい距離をもてる友人とつるむことにどうして周りはなにがしかの色をつけたがるんだろうと思う。オノちゃんもその都度、苦笑いしてる。「世の中の興味の場所なんてまぁ、そんなもんだ」とか言う。

ひぃくん・・・くん付けで呼んでいるけれど女性だ。私にとって浪人の仲間ウチでは一番気の置けない友人となった樋口恵理衣エリィは、実は学生時代には全く接点がなかった。高1のときは別クラスだったし、高校2年からは文系と理系でと校舎も違ったから文系の彼女とは校内ですれ違うことすら殆どなかった。さらにいえば、ひぃくんは私では住む世界が違うと感じてしまうほどの美人で有名だった。私は彼女をフルネームで知っていたけれど(エリィという名前も似合いすぎててカッコ良かった)向こうは地味な私を同じ学年にいたとも、いやもしかしたら校内にいたことも認識していなかったのでは?と思っていた。
ひぃくんは昨年度の2月にけっこうな交通事故に遭って、3月末にようやく退院出来たらしく、ほぼ問答無用の2浪決定だったようだ。彼女が松葉杖で予備校にきて、入り口前の段差で肩掛けの鞄を落としそうになっていたので手を貸したところから仲良くなった。

「高校のときから知ってたよ、だってタエ、友達多いじゃない。いつもみんなと笑ってて羨ましいなぁって思ってたもん」

友達、はそんなにいわれるほど多くはなかったと思うが、それでもひぃくんにそんな風に覚えていて貰えていたことに驚き、こそばゆいような気になった。というより、高校の友人達がそうしていたように名前で呼んでくれたことが嬉しかった。(ちなみにひぃくんは本名「エリィ」で呼ばれるのを嫌がるので、周りの子は皆苗字のほうからのあだ名をつかっていたようだ。)

高校時代のひぃくんはバンド仲間の男の子たちと大抵一緒にいた。美人の周りを固めるバンドメンバーたちの図。私からはかなり近寄りがたさを感じていたんだけれど、「ほら、あの近寄りづらいメンバーがいたせいでね、私にはあんまり同性の仲良しが出来なかったのよ。いいヤツらなんだけど私が女の子だなんてこれっぽっちも思ってなかったんでしょ。」と彼女は笑った。そのうちの1人が彼氏だと聞いてたよと話すと大口をあけて笑いだす。
「やめてぇ、同じピアノ教室から一緒に脱走したっていうだけだよ、まだハナ垂らしだった頃の話だしね。アイツはほら、○△女子高のあゆかちゃんとずっと付き合ってたし。あ、おかげさまであゆかちゃんはその頃の唯一の私の女友達になってたかも」
そしてちょっと自嘲的な笑いを私に向けて「それにみんな私を裏切って現役合格よ、あゆかちゃんも含めて。酷い話だわ」と言った。

大学に落ちるってのはなんなんだろう。合格圏内っていわれてたって落ちるときは落ちる。少なくとも、落ちた人間にはそう感じられる。テストの出来は確かに素晴らしく良くは無かったけど、でもそこまで悪かったか?アイツが受かったのに・・・みたいな、ね。

「でもさぁ、ただの筆記試験なのに全人格を否定された気分になるよね。そんな紙切れで私を決めるな!っていいたいけど、・・・それは受かってから言え、ってことだよね。」

そんな感じでとても率直に自分の思った事を話すひぃくんのことを 私はすぐに好きになった。それに文系の彼女が勉強していることは私が全く学んできていないことばかりで、それを聞いてたり見せて貰ったりしているだけでも楽しかった。もしかしたら私、文系科目を勉強したかったのかも。そんなことを思うくらいに。いや、きっとそれも逃避なんだけど。

3. 浪人生のリズム

浪人生にとっての予備校の意義は、と言えば一番には生活のリズム付けじゃないか、と私は思っている。
勉強はいつだって自分がやるかやらないか、だ。分かり易く言うなら「たくろう」(・・・お笑いコンビでももちろんミュージシャンでもない、自宅浪人生のことを宅浪生とよぶのだけれど、)の勝率が結構悪いと言われる理由はそこにあるんだと思う。

移動時間もなにもない、掃除洗濯も親がしてくれてごはんの準備や片付けをする必要もないという、ちょっと聞くと「それ、勉強をいくらでも出来る環境だよね」というのは実は一番勉強を続けづらい環境かもしれないと2年目になってよく思う。数日とか、人に拠っては1−2週間までならできるかもしれないが、1年間を受験にむけて走りきるのは誰でもできることじゃない。いや、そんなの出来る人いるんだろうか?
くどいようだけれど浪人時期を終えられるかどうかは自分をどう律することが出来るかにかかっている・・・のじゃないかと思う。


「わ、ひぃくん、大丈夫?」
いつものように登校したら、長い髪をゆるくしばったひぃくんが大あくびをしながら教室に向かっていて、冗談みたいに彼女がふらふらと壁にぶつかったところだった。

「また遅くまで起きてたんでしょ」
「あー、おはよう。いや、さ、この間現国の読解で出てた文章、前に読んだ本だよなぁと思って引っ張り出して読んじゃって。一気読みしちゃうからダメよね、その部分の解釈だけにしとけばいいのに、私ってばまたやっちゃったよ」
「まぁ、それも好きだから、だよね。でもせめて朝に読むようにしろって、またオノちゃんに・・・」
「おはよ、なんだよ寝起き以外の解釈がなさそうな顔して。」
「オノちゃん、ほんとにタイミングがすばらしいわ」
「なにが?」
「まぁいいから、行こう。ひぃくん、また午後にね」

元気なさそうに手をひらひらさせて、ひぃくんは教室に消えていく。

オノちゃんは朝にしっかり起きて1日を始めるタイプ、ひぃくんは私と同じ、夜更かしタイプだ。もちろん夜更かしが効率的とは私達も思ってはいない。よく模試の日がちかくなると私達はオノちゃんに朝起きろよと小言を言われる。模試も受験も、朝から集中力が発揮できないと駄目だから。

世の中のワカモノ、中学生や高校生は夜中に勉強するのを「スタイル」だと思っているのか頭がよくなるコツだと思っているのか、下手すると試験前の徹夜とかやりがちだ。いや、私とひぃくんもむしろそれをやっていた。
でも本当に出来る人達をみてると大抵「朝」を使っているものだ。そりゃそうだろう、疲れてしわくちゃヨレヨレの新聞紙みたいになった頭を使って勉強するより、しっかり眠ってエンジンがかかりやすくなった頭で勉強を始める方が絶対効率は良いに決まってる。

「だけど人間ってなぜか朝寝坊が好きな動物でしょ」

ひぃくんは不可抗力を訴える。確かに朝の時間を律するって結構きついし、大抵のひとはいつまでも布団の中で寝ていられることを「とりあえずやりたいこと」とか言う。
自分に甘い私はもちろんご多分にもれずで、夜はどうしても12時くらいまで引っ張ってしまうし朝はいいやと思ってしまうと平気で10時11時まで寝てしまう。

毎日朝に起きること。出来たら毎日少しずつ体も動かすこと。集中出来る勉強時間を確保し自分の苦手克服には数週間・数ヶ月でのスケジュールを立てるのも大事だ(出来ないんだけど、大事なことは知ってる)。そんな受験のコツ、みたいなのは予備校の最初の頃にいわれる。大体のひとはその場で忘れて、多浪生になるとだんだんその重要性が身にしみて分かってくる。分かったところですぐ出来るものでもないのだが。


実はひぃくんは宅浪をしようと思っていたらしい。その頃退院したばかりというのもあったのだろう。でもお見舞いに来てくれた高校の元担任に「お前の性格は、多分宅浪では辛すぎるぞ」といわれたのだそうだ。
私も2浪が決まったとき、同じ予備校に行っていた仲良くしてもらっていた多浪生に「どこでもいいから予備校は行ってた方がいい」といわれた。だからここの試験を受けたんだけど。

ときどき大手予備校がやっている全国公開模試みたいなのは、希望大学の合格確率をA〜E判定で出してくれる、Aは合格確実な感じ、Eは箸にも棒にもかからないってやつだ。宅浪生には自分の学力を試す上でも勉強のスケジューリングの上でも上手く使えばいいんだろうけど・・・実際は自分で試験に申し込みその結果を踏まえて次やることを検討する、とかを1人でやるのって結構地獄だと思う。

それに、予備校の授業では一通りセンター試験なり二次試験で狙われがちな大事な部分を網羅してくれる。応用範囲の広いポイントをちゃんと選んで授業してくれる。先生もプロだから授業も分かり易くて面白い(大体はね)。自分の弱点のことや勉強のスケジュール、下手すると疲弊する心のことも 予備校の担当の人が相談にのってくれたりする。使い方次第ではほんと、至れり尽くせり。
だから、「勉強は自分一人でやるもの」だけど、こういう場所は結構大事なんだと思う。


予備校にはそれぞれ志望進路別・学力別のクラスがあることが多い。そのほうが教える方だって効率的だろうし、同じクラスということは学力が近くて同じ学部を目指しているひとがいるってことで、友達が出来ると情報共有も出来る。

「加地さん、夏に医進クラスで国公立対策講習あるらしいですよ」
「この間紹介されてた物理の問題集、私達取り寄せますけど加地さんも要ります?」
予備校スタッフからの情報が早い一浪くんたちから声をかけて貰えてよかった、ということは多々ある。まぁ、仲良くし過ぎると遊びにも誘われて断るのが面倒にもなるから、何ごともバランスだ。

でも本当に私はラッキーだったと思う。自宅から通うから洗濯とかごはんの心配は殆どいらないうえに、オノちゃんとかひぃくんみたいな良い友達もいたし彼らと一緒にいるおかげもあって他の予備校友達との距離もちょうどよかった。実際一年目の時より、無駄にプレッシャーを感じることなく淡々と勉強を進められているんじゃないかと感じていた。なにか上手く生きるコツをつかんだキリギリス。そんな風に自分を褒めていた。

4. 秘密基地みたいな

文系のひぃくんとは当然授業は一緒にならないから、4月のころは授業後に予備校の自習室で会うだけだった。でも予備校の自習室って、現役生(つまり高校生)も結構使っているし、よく知らない周りの人全員がめっちゃくちゃ賢く見えてくるという、まぁ悪い方の自己暗示にかかりやすくプレッシャーに負けやすい。少なくとも私はそうだった。

もうひとつ、よく笑い話になるあるある話だけれど、静かな自習室内には絶対一人は筆圧が異様に高い人がいて、カツカツカツ カリカリカリカリ、とスゴイ勢いで書いてたりする。間違えて、あるいは運悪くその人の近くなんかに座っちゃうと一気にやる気がなくなるんだ。(まぁ小さな理由をみつけて勉強という現実から逃げたい私達なのではある)

「あのねぇ、私さぁ予備校自習室のプレッシャーが嫌なの」
あるとき、一緒に昼ごはんを拡げていたときひぃくんが言い出した。

「あ、分かる。俺もなんだよなぁ。」
結構マイペースにやっている(と見える)オノちゃんまでそう言うのだ。

「プレッシャー?」
「いるじゃん、ページをうるさくめくるヤツ。ばさばさってさ。それは音で集中しにくいってのもあるけど、もっといやなのは問題をすごい勢いで解いてるのがわかる音とかをたてるやつ。」
「だって、それ全部当たってるかどうかなんてわかんないし、単に落ち着きがないひと、ってこともあるでしょ。すごい基礎的な問題集やってる現役生とかも見たことあるよ」
「でもさ。気が散るって言うか、プレッシャーに感じちゃうのよ、私は」
「そんなもの?」
「そんなものだよ」「そんなものでしょ」

まぁ、うるさい人は確かに居るけれどね。でも予備校から一番近い図書館は大抵自習スペースは朝からいっぱいだ。自習スペースが比較的空いている図書館となるとバスで移動しなければいけなかったから、結局しばらくは予備校の自習室か掃除で追い出されるまで授業後のクラスに居座ることでしのいでいた。

「ねぇ、イイ所みつけた。ちょっと夕方つきあって」

ある日ひぃくんがお昼の時に嬉しそうに言うので、どの辺?と聞くと にやにやして後でね!という。一体どこを見つけたんだろう。

「少し歩くんだけど」
授業がおわってひぃくんと合流すると、そういってひぃくんは駅に向かった。
「駅から予備校側って、どうしても予備校生と講習うけにくる現役生が多いじゃない?大体のバス停もこっちだし」
夕方の駅前は、確かに同年代の姿、制服姿が多い。駅ビルには安いファミレス、コーヒーショップとかパン屋さんみたいな気軽に入れる店も多いから、学校帰りなんかに集まりやすいんだろう。

ひぃくんはずんずん駅ビルのなかを突っ切ることの出来るコンコースを抜けていく。反対側の駅ロータリー周辺は人が多いけれど、そこをさらに少しあるくとオフィス街だ。今は帰宅ラッシュの始まりの時間なのか、人波は後ろの駅の方へ向かっている。

すこし駅前通りを歩いて、緩い坂の途中で左折すると路面店にレストランをいれたビルを始め、オフィス街のお客さんをねらっているのであろう飲食店が多いエリアだった。角のコンビニから3件目くらいに入り口ちかくに花屋さんがあるビルがあった。

「ここ、知ってる?」
「うん、K書店が上にあるからね。何度か来たことあるよ」
「それがさ!ここが盲点だったんだ」

そこは確かにちょっとお洒落目な店が多く入った商業ビルだった。洋服のお店なんかは1階の一部と2階に少しあって、あとの場所・上層階はオフィス型の店舗と生活雑貨みたいな落ち着いたものをおいた店で占められてた。フードコートが4階にあり、そのすぐ上階には私も来たことのある本屋さんが入っていて、最上階は指圧サロンとかカルチャーセンターなんかが入っている。ビル全体が1日を通してそんなに人が多いところではなかった。ビルのターゲットの年齢層は30代から40代なのだろう、もともとが安いものをさがしてふらりと入る、みたいなつくりではないみたいだ。

書店にいくときあまり気にも止めていなかったが、4階は建物の正面側3分の2位の面積がフードコートだった。小さいコーヒーの出店、軽食を売る店、そして自動販売機コーナーもあった。

「昼時は多分このビルのオフィスの人かな、お昼を食べたりする人も居てね。でもこの辺、ランチの店とか多いじゃない。そんなに混んでないの。人が居るときでもそんなにうるさくないし、なによりテーブルが多いから絶対どこか空いてる。どう?見つけた私、すごくない?」

確かに学校帰りなんかの高校生の姿は駅ビルの中みたいには多くなく、予備校からも駅を挟んで徒歩15分前後とビミョウに遠いために予備校生はそうそう来ない場所だった。同じ年代で来るとすれば上階の書店のためで、そのすぐ下の階で腰を下ろすひとは殆どいない感じだった。というか、私自身何度もここに来ていて、そこを覚えていなかったくらいだ。いろんな意味で私達が気に入る条件が揃っていた。もちろん冷暖房完備だし。

「すごい!ねぇ、オノちゃんに教えたら、学校よりこっちに来そうだよね」
「明日教えてあげよう。とりあえずタエに見せて褒めて貰おうと思った!」
「エライ、ほんとにえらい!ね、この角の大きめの丸テーブル、多少なにかを拡げても場所に余裕あるしね。すごい〜〜〜!」

そうやって、初夏のころには3人が夕方にはなんとなくいつも一緒にそのフードコートで勉強するようになっていったのだ。示し合わせたことはないのだけれど、なんとなく他の浪人仲間なんかにはバレないようにしていたから、ここ殆ど秘密基地だね、と時々笑った。


5. ひぃくんのこと

一緒に過ごすうちに分かったのだがひぃくんは初対面の人への人見知りがびっくりするくらい激しかった。170cm越えの背の高さに整った顔立ちとくせ毛だという緩くウェーブした長い髪を揺らして、さらに服のセンスもいいしもう誰もが振り向くようなひとだ。でも生活も派手めか、と思いきや、あまりの人見知りっぷりに最初は人当たりのいいオノちゃんですらも話しかけるタイミングをはかっていたっけ。そして仲良くなるときも、まるで石橋を叩いて渡るがごとく、の臆病っぷり。何度「そんなことくらい聞いてきても嫌いにならないってば!」と笑ったことか。

けれど、いったん打ち解けるとひぃくんはノリもいいし本当に面白い、なんだったらもの凄くかわいらしいひとだった。そうやって私といることにひぃくんの肩の力が抜けたところでオノちゃんがうまく加わり、3人は自然と仲良くなったのだ。

オノちゃんとひぃくんは高校時代それぞれ違うバンドだったけれどどちらも音楽をやっていた。だからだろう、特に音楽の話がよく合うみたいだった。勉強の合間には特に、他愛ない、くだらない話をしては爆笑している。一体どこにそんな大笑いできるネタが転がっているのかと呆れるくらいに。浪人生には絶対に必要ないであろう地元のライブハウスの情報や地元でちょっと目立ってきたバンド情報なんかも時々交換していた。

そういうことと無縁だった私は、といえば下手に二人に気を使わせるよりは、とそのまま静かに勉強に戻っていた。別にそういう会話内で二人に気を使って欲しい訳じゃ無かったし。実際それぞれ目指す学部なんかも全く違うから特定の勉強のことも特に話題にはならなかった中で、二人が趣味のことで話に花を咲かせるのは一緒に聞いていても楽しかった。

大体において3人の間で交わされているのは本当にくだらない「雑」談ばかりだった。軽い口当たりの話は口から発せられても受け止められてもあっというまに跡形もなくなくなる、記憶にものこらないのではと思うものばかりだった。その程度の話が浪人キリギリスの私達には一番心地よかったとも言える。

世間のイメージする「暗い、閉じこもって一人で(無駄になりかねない)勉強してる浪人生」とは程遠い毎日を送れたのは、やっぱりひぃくんとオノちゃんという、全くタイプが違うけど一緒にいると不思議と気持ちが楽になる友達がいたからだ。母にも「心配したほど、鬱々としないみたいね、よかったわ」といわれたくらいだから。


高校が夏休みに入るのに合わせて、予備校は夏期講習をあれこれ組んでくる。予備校に朝から夜まで、それまで顔をみたことのない高校生が増え、新たに追加された自習室までも学生で溢れた。
自然と、私達は自分の取る講習がおわると各々の時間で例のフードコートに向かった。私は不得手科目の講習を多めに取ったものだから、そこにいくのは2−3日に一回くらいのペースになった。

あるとき、久し振りに3人で勉強しているときだった。
ひぃくんが、オノちゃんにいろんな質問をしたり話をしたりしている。今日は集中しづらい日なのかな、と思っていたけれど、途中であれ?と思う。

ひぃくんとオノちゃんが話すことが、音楽以外のものが増えていたのだ。
もちろん二人が仲良くなっているのは知っていたし、お互いが邪魔にならない程度に話をしているのだから全然構わなかったけれど、ひぃくんがオノちゃんを知るための質問が多くて・・・周りに比較的関心が薄い私ですら「なるほど、そういうことね」と分かってしまった。

まぁ分からない訳じゃ無い、オノちゃんは人当たりが良くて、言われてみたら顔も平均点以上。本人がちょっと気にしているらしい背の低さも周りからしたら平均より少し低いってだけだから、別に問題ってことでは無いだろう(まぁ、オノちゃんよりひぃくんのほうが少し背が高かったけど)。高校時代を思い返せばハンドボール部の副将だったっけ、確かどんなスポーツもできたし、頭も良い。あぁ、高校時代といえばオノちゃんのバンドのファンだった女の子達も結構いたしな。

「オノちゃん、良い人の塊だよね。男友達であんなに気楽になんでも話せるひと初めてだし、いままでよく分からなかった〈人気者である理由〉ってのをいちいち見せて貰ってるわー。」

あるとき私が何気なく言ったら「それは恋とは違うの?」ってひぃくんに1度聞かれた。あ、誤解させちゃったかな?と思う。

「違うと思うな。オノちゃんは人間として尊敬してて大好きなんだ、ひぃくんと並べて選べっていわれたら困る感じの。」

あのときの答えは、ひぃくんの誤解をちゃんと解いただろうか。伝わっただろうか。ひぃくんがオノちゃんを好きなら大喜びで応援するよっていえば良かったかな。

それになにより浪人生といえど私達は20歳はたち前後の、本来人生を謳歌していいワカモノだ。ちょっとくらい胸ときめくことがあったほうが、おかしくなりそうな思考や折れてしまいそうな心を正常範囲に保てるというものだ。
仲良しになった女の子の恋バナに、私までちょっと嬉しくなっていた。


6. 居場所はまだない

9月の半ば、模試を終えて帰宅したら玄関にお客さんのものらしい靴がそろえてあって、奥から母の笑い声が聞こえる。リビングドアを開けて覗くと、久し振りの笑顔が迎えてくれた。

「タエちゃん、お邪魔してます」
「あ、理子さん!ご無沙汰です、いつ帰ってきたんですか?」
「一昨日かな。お土産もあるし、拓真と一緒にこちらに伺おう、とおもってたら、拓真が風邪っていうから置いて来た。タエちゃんにうつすから駄目よ、って」

7歳上の兄・拓真の恋人の理子だった。母と理子二人の前には海ぶどうとグラス、どしっとした真っ黒な瓶に入った泡盛の古酒クース、母の作り置きの小鉢と、手作りのチャーシューも並んでいる。兄たちは来年の6月に結婚式を挙げる予定でいるのだが、母は気さくな理子が大好きで、遊びに来てくれるとご機嫌だ。

「今日はお父さんもいないし、女の宴会よ。理子ちゃんには泊まってってもらおうと思って。」
「理子さん、おにい抜きでもっと来て欲しいくらいですよ?なんだったらおにいの部屋、理子さんのものにして住んで欲しい」

あははは、と笑う母はご機嫌だ。そんなにお酒が強くないのだが、珍しく飲んでいる。そうか、そういえばお父さんは明日の会議が朝イチだから前乗り出張っていってたっけ。

「タエちゃんももし良かったら少しだけどう?あーでも、勉強する?」
「え、どうしよっかなぁ。それ、古酒ですよね?外じゃなかなか手にはいらないしなぁ」
「たまにはいいわよ、妙。少しくらい飲んだってあなたは平気でしょ?今日は模試を終えたところだし。それにお父さんが帰ったら一瞬でなくなるわよ」
「うん、じゃぁ少し戴こうかな」
「ごはん、このチャーシューで食べるのでいい?」
「あ、自分でよそうから。ねぇ理子さん、これってどういう飲み方がオススメなの?」
「良い質問!私はロックがオススメだな。そのままでもいいけどね。これねぇ、ほんのり甘くてこくっとしてて、美味しいよ。」

理子は兄より3歳年上で、つまり年齢は私の10歳上だったが、兄より気楽にいろんな事が話せる気がする。先日7年働いた会社を退職して、ついこの間までダイビングインストラクターをやりに三ヵ月ほど沖縄に行っていたのだ。で、これからは先日まで務めていた会社の助っ人で業務に関わる翻訳とかをやるらしい。

理子は基本的に興味があれば何でもぱっと飛びつくようにみえて、結構自分の人生設計を俯瞰しながら必要なピースをはめ込むようにそれらを選んでいるようだった。業務関係の翻訳の仕事を、というのも結婚後も仕事が続けやすいように、という考えもあるらしい。一時期は一生の仕事に、と考えたというダイビングの方は今回の仕事を最後に、もうレジャーでたまにするくらいでいいの、という。
どちらかというと家にばかりいる兄にとって、こんな理子は外界との窓口みたいな存在でもある。

私は茶碗にごはんをよそい、小さな盆の上にその茶碗と箸、それから私の好きななめたけの瓶を乗せる。それから小さめのカットグラスに氷をいれて乗せ、ダイニングテーブルに運んで行った。

「理子さん、沖縄はまたこのあと行くんですか」
「いやいや、今回は今までのお礼もあって、のバイト。この先はもう遊びでしか行かないだろうし。でもこの最後一ヵ月は、潜るよりダイビングスクールの飲み要員だったね。」

私が持っていったグラスに理子がこれくらい?と聞きながら古酒をいれてくれ、さらに母にも注ごうとしたが母はまだいいわ、という。お土産だから、というのもあるのだろうが、理子の前には古酒ではなく缶ビールがあった。

「いただきます。ーーーへぇ、泡盛とかってもっとクセがあるんだと思ってました。優しい味ですね。って、偉そうに言えるほどお酒を知りませんけど」

理子はにこにこして「そりゃ良かった」と言う。「古酒のほうが円やかになるよね、味は」

「海ぶどうも、新鮮なのはやっぱり違うから、食べてね。私がとってきたんだから」
「え?!海で???」
「あはははは、ごめんごめん。わんさか海ぶどうがあるところから掬った、って意味ね。仲良しになった海ぶどう養殖業のおじさんが、話のネタに養殖の水槽から取ってけ、って言ってくれただけ。」

目の周りが赤くなっている母はにこにこと話を聞いている。こんなふうに酔った母をみるのは久し振りだし、本当にリラックスしているようだ。普段は毎日私に大分気をつかってくれていたんだなぁと思う。

「タエちゃん、引きこもってくらーく生きてるんじゃないかと思ったけど、大丈夫そうね。ごめん、私 浪人生活ってよく分かんなくてさ」
「心がけて外に行くようにしてます。あ、予備校って意味ですよ、もちろん。朝にお弁当つくって同じ時間のバスに乗るようにして。」
「エライねぇ、お弁当つくって行ってるの?」
「まぁ、母の作り置きを入れさせて貰うとかですけど。お昼を毎日買うとかじゃやっぱり高くつくし、それに毎日2回くらいは気分転換とか眠気覚ましにコーヒー買ったりするんで、結局お小遣い使いまくりです。」
「そうかぁ。なんか、いろいろ知らないで通り過ぎた世界だなぁ。私の高校は小さい田舎の学校だったから進学か就職かで、浪人するひとなんてほとんどいなかったと思うし。」
「浪人してます、ってあんまり威張れない状況ですからね。一応ひっそり暮らしてますよ。」

浪人生ということばは日本の社会では認知されているし大学受験を考える立場になるとその人達が周りに結構いるのにも気付くけれど、同世代の人間全体をみたらあえてその立場を選ぶ人達は少数派だろう。大学は行かなければいけないものでもないし、行きたいなら現役合格できるところを受ければいい・・・というところをあえて浪人するなんてどうかしてる。

「私、大学のとき1年間アメリカ留学してたでしょ。その時きいてびっくりしたけど、あっちの大学に入るときに必要な統一テストって、年に何度かあって好きなときに受けて良いんだって。点数悪かったらまた受けられるし。日本ではテストを全国一斉にやることも驚かれたけど浪人生が結構いる、って話は一番説明が難しかった。学生でもなくて働いてもないStatus、身分とか肩書きっていうの?そんなものがあるってこと、夢を追えるのは幸せだねといってくれる人もいればクレイジーっていうひともいたからね。」

日本は上の学校へ行って上の資格をとれば分かり易く年収が上がる、みたいなアメリカ式なわけじゃない。大学に行きたいなら受かったところに進学すれば良いじゃないか、受かるところを受けたらイイじゃないか・・・私もそう思う。思うけど、その私は浪人生だ。

「浪人を選ぶいろんな理由はヒトそれぞれあるんだろうけど、基本的にあまり普通の思考回路を持っていない人間のすることかなぁ。」
「えータエちゃん、それはいくらなんでも卑下しすぎだよ」

私の卒業校は一応その地方の進学校なので「大学に行かない」という選択肢はどの生徒の思考のなかにもほぼ100%ない。でも地方の良さというかバカさというか、ほんのり頭の中に花が咲いているというか・・・高校時代遊んだから1年くらい(浪人するのも)仕方ないよね、という雰囲気は結構高校内の生徒のなかにあったことは否めない。

その考え方自体かなりおかしいと思う。でも同時に、結構な割合の生徒達がその変な考え方が許される家庭に育っているということだろう。かなり恵まれた、変わった環境にいる変人の同級生達。そんな「かなりオカシイ」が3乗くらいで乗っかっている浪人生達は今日も効き手の小指側を鉛筆の粉で真っ黒にさせ、この年齢のワカモノの1日の過ごし方としては普通ではない時間を重ねている。あの寓話のなかのキリギリスも、ヤバイと気付いたらきっと今の私達みたいに慌てて働いたんじゃないだろうか。

「だって浪人するって・・・まともじゃない、というか、効率的じゃないですよね。学生とか社会人とか主婦とか、そんなふうに何かの形で社会と関わる立場じゃないし。浪人生がすぽっと受け入れて貰える居場所みたいなのは、それこそ予備校の外にはまったく無い。」

お酒のせいか、気を許してる未来の姉の前だからか、言っても仕方ないと自分のなかに溜めていたモノがどんどん出てくる。

「自分でも思うんです。入れる大学に入って、いわゆる仮面浪人して他の学校にいく、とかのほうが 周りから見てもなるほど、ほかのことを勉強したいって気付いたんだね、とか思ってもらえるじゃないですか。だけど浪人生活ってそんな甘いものじゃないって言うか・・・今一緒に勉強している元クラスメートは、仮面浪人じゃ受験は越えられないからって大学辞めた人で」

どうしたって社会の中に溶け込める場所のない立場にいるというのは 忘れようとしても拭おうとしても不気味な影のように私達の背中に貼り付いている。キリギリスなりに行動遊んできたことの報いはうけている。

「すごいね、そんなひともいるんだ」
「そういう友達がいるから、大学に入るのに今の環境がかなり恵まれてるって気付いたというのもあるんですけどね。友達に、同級生が二人いるんで、いろいろ気持ちのはけ口になってくれて有り難いです。」

浪人生であることは、当たり前だけれど2年目、3年目・・・となるごとにプレッシャーが大きくなってくる。感覚が麻痺してしまうひともいるようだけどね。とにかく肩身の狭さ・世間の目・所属するものがないことはもちろん、言い訳することもできない立場。多分浪人を許している親たちだって結構つらいところがあるんじゃないだろうか。

「私自身より、お母さんの方が辛いかも、って思ったりします」
「ご近所の目とか友達との付き合いの中での話とか?」
「そうそう」
「何言ってんの、お母さんは別に何もしてないからそんなこと気にしなくて良いの」

そういってくれるが、つと俯いて母はちょっと涙を拭った。辛いから、の涙じゃないことはわかる。

この世の中、頑張れば、時間をかければ必ず報われるもんでもないと、浪人生の私達は知っている。だけどそんな私達をだまって見守ってくれる親とか家族とかが、手をつないで私達の小さな居場所をそっと守ってくれている。だから「報われる」を手に入れることを、私が諦めちゃいけないんだと思うんだ。

7. 三人四脚

浪人生にはいろんな公開全国模試というのがほぼ毎月ある。勿論全部受ける必要はない(そんなのお金の無駄だから)。でも10月、11月はセンター試験(現在の共通テストにあたる)の模試と、有名私大模試がだいたい行われるから、だれもが1つか2つの模試を受けている。ここで現時点の学力をみたり、最終的にどのあたりを補強するかを考えるのに大事なのだけれど、同時に受験勉強に飽きてしまったりする気持ちを立て直すのにイイ刺激にもなる。そのひとつの模試を受けた直後の私達の会話が ひぃくんの「受験勉強やって私達、どこに辿りつくのかなー」だった。

そして・・・12月を目前にして、机に最近の公開模試結果を拡げてやる気を失っていたのがひぃくんだった。いや、彼女の場合軒並み良い点数でよい判定だったのだが、

「なんかさー。ここでこうなるとちょっとやる気、失う・・・」

とか贅沢なことを言っているのだ。

「なぁ、樋口。お節介とは思うけど、リズム崩すなよ?」

その日の帰り道、三人で駅に向かう途中でオノちゃんは真顔になって一言、ひぃくんに釘を刺した。基本、キツいことは本人にはいわないオノちゃんがそういう言い方をしたことにびっくりしたけど、友達だからこそなんだろう。実際今のひぃくんの感じ・・・緊張の糸が切れてはいないけどだらん、としている感じは浪人生としてあまりよくない。私も去年この時期にやる気を一時的に失ってそんな感じになったのを覚えてる。でもひぃくんにどう言えばいいか、私だったら見ているだけだっただろう。

「そうだね・・・ひぃくん、授業出なくてもお昼くらいは一緒にしようよ。私、もう午後の授業は出なくてもいい感じだしさ。お弁当持ってこっちにくるよ」
「そうそう、俺もくるから。・・・っていうかタエ、いま俺をなんとなく抜かさなかった?」
「え、オノちゃんほっといても朝にひとりで勉強するひとじゃん、仲間は基本的に要らないひとでしょ」
「そんなことない!仲間、ほしい!ひぐちぃ、俺たち仲間だよな?」
「そうだね・・・私、オノちゃんの顔を拝みに来ようかな。合格の手応え知ってるひとから御利益貰わなきゃ」
「おう、俺の顔くらいでリズム保てるなら安いもんだ、見に来い、見に来い」

うふふ、とひぃくんは嬉しそうに笑う。好きな人に会うってモチベーションがあればちゃんと出てくるよね、リズム崩さないよね・・・私は彼女の笑顔を見ながら思う。なぁんて、私も人の心配してられる状況じゃないけれど。


私達のあまり良くない予感はあたってしまった。ひぃくんは予備校だけじゃなくこのフードコートにもだんだん顔を出さなくなった。

「だって寒いんだもん」 

12月に入って数日、私は帰宅してからひぃくんに電話をした。彼女は電話の向こうでバツが悪そうにそう言う。

「いやほんとに・・・寒いとさ、古傷が痛むのよ。言い訳みたいだけど、何気に地味にメンタルやられるんだよね」

そうだった、春先のひぃくんの事故はかなり酷かったと聞いてた。骨盤骨折をして血管内治療とかで出血を止めなきゃいけなかったとかなんとか。子宮とかが残せたのはラッキーだったって聞いた。集中治療室にしばらくいたらしい。いつもさっぱりとして明るいひぃくんしか見てなかったから、その時のダメージをどうやって乗り越えてるのか乗り越え切れてないのか、全く考えていなかった。

「ねぇ・・・ひぃくん明後日、誕生日でしょ?あったかくいられるようなプレゼント準備したからさ、出といでよ」
「え?嘘!?タエが編んでくれたセーターとかマフラーとか?」
「はははは。どんなプレッシャー?私編み物できないし、どこの受験生が編み物するんだい。でも本当にホッカイロはプレゼントの中にいれてあるよ、しかも貼るタイプ、この時期の必需品!ねぇ、プレゼント渡したいし、出てきてよね。」

わかったわかった、と答えてからひぃくんはちょっと真面目モードになっていう。

「ごめんね、心配してくれてありがと。ちょうど今日ね・・・オノちゃんが帰りがけに家に寄ってくれたんだ。怒られちゃった。」

怒られちゃった、と言いながらも嬉しそうなひぃくんの声をきいて、オノちゃんナイスフォロー!と心の中で思う。

「よかったね!」
「え、怒られたんだけど。・・・でも、そうだね。タエにはバレてたよね。うん、嬉しかったよ」

電話を切って私はすこしホッとしていた。さっき聞いたらひぃくんはオノちゃんが受ける予定のA大学をうけることにしたんだそうだ。これまで考えていたB大学よりちょっとレベルが上がる感じだけど、ひぃくんなら大丈夫だろう。恥ずかしいからセンターが終わるまで黙っててね、センターでコケたらA大なんていえないもん。そういう彼女の声は明るくて、あぁ、勉強のリズムも大丈夫かもって思った。

この時期リズムを崩したらなかなか戻れないのを私達は知ってる。言い訳もつくれないし出来ないから結局自分で自分を追い込んでしまう。だから心からオノちゃんがいて良かった、ひぃくんに元気をあげられる人がいて良かったと思う。

時計をみるとまだ夜9時半だった。
いやいや、今一番頑張らなきゃいけないのは私だよ。今日あと1〜2時間はやって寝よう。で、そろそろちゃんと朝の勉強時間を確保しないと。

8. 冬

誕生日のあと、ひぃくんはリズムを少し戻した感じだった。なのだけど、同時にそのころ急に気温が下がったりした。そうなるとやっぱり傷が痛むんだろう、家から出てくるのが辛いんだと彼女は時々愚痴っていた。

ひぃくんはあんまり長くいつものフードコートに居座らなくなったけれど、また1日に一回はやってくるようになった。私達と雑談してそのまま帰ることもあったけど、とにかく少しでもリズムを保つ気力を失っていない彼女に私達はちょっとほっとしていた。
それに実際のところ、ほっとしたのは私自身のためでもあった。オノちゃんと話すことや、ひぃくんが来てそこに加わることで私も元気になって頑張らなきゃという気分になるから。本当に浪人生心理はやっかいだ。

ところでその頃、私はちょっと気ののらないミッションをひぃくんから渡されていた。

「オノちゃんクリスマスプレゼントに欲しいモノあるかどうか、チャンスがあったら探っておいてくれない?」

えーやだよ、じぶんで聞いてよーと言ったのだが「出来たらでいいから」と結局押し切られてしまった。
どうせ欲しいのはモノじゃなくてA大合格とかっていうんじゃないの?と心の中でぶつぶつ文句を言っているところへ 私の肩をたたいて「調子はどんな?」といいながら、オノちゃんがフードコートに現れた。

「あれ、もう今日は帰ったのかと思ってたよ」
「あー、予備校がっこうでちょっと質問してた。化学のK先生、午後2時以降なら時間あるっていってたから」

いつもより小さいサイズのカフェオレを持って、同じテーブルにオノちゃんが座る。

「しかし日が暮れるの、早くなったなぁ」
「ホントだねぇ。でも私、この時期って嫌いじゃないよ。なんか暗くなるのは早いけどそのぶんイルミネーションとかキレイじゃない。ま、受験生じゃない立場で、さらに彼氏もいたらもっと良いのかもしれないけどね!」

ちょっと自嘲的に笑うと、そうだなぁ、とオノちゃんもしみじみ言う。「ええぇぇ、タエは彼氏くらいいつでもできるから大丈夫とか、冗談でも言って欲しいなぁ」と絡んでおく。

「彼氏、作る気あるの?」
「え、今はないけど、そりゃいつかはね、ありますよ。今はそんなふわふわしちゃう気分になったら脱・浪人生ができなくなりそう。これでも結構追い詰められてます。」
「たしかに。俺もそうだなぁ」

わぁ、彼女を今作る気ない、みたいな今の発言部分はひぃくんには内緒だ。ま、同じ大学にいけたら状況は変わるだろうけどね。今は今のこと。
カフェオレを啜って、相当熱かったらしくオノちゃんは舌をちょろっとだして眉間にシワを寄せる。

「べろ、火傷した?でも舌でよかったよね、粘膜部って身体のなかで一番っていうくらい治りが早いらしいよ」
冷たい水を続けて口にいれていたオノちゃんがへぇ、という。

「タエは家が医者なのか?だから医学部?」
「おじいちゃんがね。うち、お父さんは関係無い仕事してるのよ、化学プラント関係のね。でさ、△△県におじいちゃんの小さな医院があるんだけど、私いつか手伝えたらな、って昔から思ってて。あの町好きだし。おじいちゃんっ子なのよね。だからあそこの県立医大いけたらおじいちゃんちから通えるし、いいなって思って」

そっかぁ、とオノちゃんは相槌を打ったあとで、

「俺、医者とか歯医者とか、憧れたことはあるんだけどなれないとおもうんだよね。うちも親はふたりでエンジニアだし、医者の世界はわかんないってのもあるけど」

と言った。なれない?どういうこと?

「俺さ、色盲なんだよ」
「しきもう?」「色弱、ともいうかな」

ああ、健康診断で変な緑色とかピンク色とかの丸で数字が書いてあるのを読め、っていう検査する、あれ?

「そうそう。遺伝らしいけどね。あれで数字が読めない。で、医学部とか受けられないって中学の時聞いてさ。あ、そんなことないって高校で言ってくれた人もいたんだけど、それ以前に別にすっごく進みたい方向じゃなかったし。じゃ、いいか、って感じで。」
「日常に支障、感じることってあるの?」
「いや?だって昔からこの色の世界で生きてるんだもん。でもあの検査を最初に受けてそれを言われたあと、母親がなんか落ち込んでたなぁ。その光景思い出すとちょっと、こっちもヘコむけど」

ふうん、といいながら、これは慰めた方がいいんだろうか、でもなにをどう言えばいいんだろう、と考えると分からなくなって黙ってしまった。

「あ、ごめん。心配して欲しいとかそんなんじゃなくてさ。タエと勉強してるの楽しかったから、こういうふうに同じ勉強できたら楽しいんだろうなって思っただけ。でも、一緒に勉強してて楽しいと思える誰かに出会えるって、ラッキーだよな。大学行ったらもっとそういうヤツに会えるといいな」
「そっか、そうだね。」
「でも、色弱の話はここだけな。べつにいいんだけど、それで困らせて黙らせたり気を使わせるのもいやだし。今もタエ、黙ったもんな、分かり易く」
「ははは、ごめんね」

確かになんでも気楽に話せるし、ちょっと難しい話も同じレベルで、もしかしたら私なんかよりもっと深い知見をもって話ができるオノちゃんは最高の友人だった。

「私さぁ、浪人して辛いなぁって思う事多かったけど・・・あ、自業自得の結果ってわかってるけどね、でもほら、メンタル結構やられるじゃない。そんな中で、私もオノちゃんとかひぃくんに出会えて仲良くなれてほんとに有り難いって思ってる。ラッキーだなって。」
「面白いよな、高3のときはタエがこんなに話せるやつなんて思わなかったし。」

どうやらお互いへの評価は同じ感じみたいだね。

「・・・・あ!そういえばオノちゃん、この間ひぃくんに『出てこい』って叱りにいってくれたんだって?ありがとうねぇ、ひぃくんが言ってた、オノちゃんが家に来てくれてすごく嬉しかったって」

オノちゃんがちょっと微妙な顔をしたから、慌てて言い直した。

「えーと、そんなんじゃなくて!いくら同じ駅を使う近さと言っても、わざわざきてくれて、目の前でちゃんと怒ってもらえることって感謝しなきゃって言ってたんだ。寄ってくれた心遣いが嬉しかったって。」
「そうか、よかった。樋口に勘違いさせたかと思った」
「え?」
「樋口のこと友達としては最高にいいやつって思ってる、でも浪人生してるからさぁ、へんな期待させたり誤解させたら嫌じゃん」
「あぁ、そうか」
「実は樋口な・・・思い違いかもしれないけど結構俺のことみててくれてるのかなって思う事多くて。ありがたいことだけどさ。。。でも今時期、そういうの難しいよな」

ああ、浪人生という微妙な立場。
そのときテーブル上にあった、このフードコートの一角にあるクレープ屋さんのちらしが目に入った。「クリスマスバージョン」クレープのちらし。

「ところでオノちゃん、クリスマスに欲しいモノとか考えてる?浪人生だから自粛中?」

クリスマスバージョンクレープは甘党なオノちゃんが好きそうなクリームがこれでもかと盛られたデコレーションで、私はそのちらしの写真をオノちゃんに見せながら聞いたのだ。

「お、そのクレープいいね。そういうプレゼント歓迎だな」

ちょっと誘導だけど、これで一応ひぃくんには報告できるぞ。
気の重いミッションをまぁなんとかこなした、と思って、私はすこし気分が軽くなった。


9. プレゼント

私達は仲がいいとは言え、特に時間や曜日を決めて同じところで勉強しているわけじゃない。それにこの時期くらいからますます各自のやりかたというかリズムが出てくることが多い。ひぃくんは勉強のリズムは取り戻したらしいけど時々腰のあたりが痛むとかいって、明るいうちに家に戻ることが増えた。

日曜の今日は誰も来ないかもなぁ、そう思いながら10時の開店時間のすぐあとにいつもの席に座ったら、ほどなくしてひぃくんが現れた。今日は誰も来ないかと思ったよ。私もそう思いながらさっき来たところ。
挨拶程度の雑談をして、すぐにそれぞれの本とノートを開く。店内はまだ静かで、控えめにクリスマスソングのBGMが流されている。耳元で響く、私の物とはリズムの違うシャープペンシルの音と紙を繰る音。ふと、雑音が聞こえる場所の方が子供の勉強は捗る、みたいなことをどこかで読んだな、と思い出す。

確かにちょうどいい雑音が周りにあるときは結構深く集中できる。過去問の一年分を終えて ふぅ、と首を回していると、右側から変な音が聞こえる。え?ととなりのひぃくんを見ると、彼女がおでこを机に着け、両手を左の腰に当てて微かな声でうー、とうなっていた。

「ひぃくん大丈夫?痛むの?」
「あ・・・ごめん、中断させた?うーん、ちょっとね。痛み止め飲んだからすぐ効くとは思うんだけど。」

ひぃくんのノートのよこに一箇所空になった薬のシートがある。でも痛み止めを飲むくらいには痛いんだね。うっすら涙目の彼女をみて、同情することしかできない自分を責めたくなる。痛み止めは、一時的にでも眠くなるから日中は使いたくないんだ、と以前にひぃくんが言っていた。

「大丈夫だいじょうぶ、自分に合った眠くなりにくい薬も今では大分わかるし。ほら、今日めちゃ寒いし、今夜から雨だって言ってたでしょ、だからじゃないかなぁ。そういう急激に天気が変わるときはね、自分の身体のほうが正確に反応したりするから」

確かに窓の外はまだ冬の透明な青空が拡がる。そちらを眺め、ちょっと悔しそうにあーあ、とひぃくんはいう。

「それでも前よりいいの。秋になった頃なんて、曇りから雨になるくらいで激痛の日もあったんだよ」
「そうなの?気付かなかったよ、ごめん・・・」
「タエの謝ることじゃないって。」

病気、という状態じゃなくてもひぃくんみたいに痛みとか身体の不調と生きていかなきゃいけないひとは沢山居るんだろうな。ただ座って勉強するだけの今ですら、ひぃくんにはそんな邪魔がつきまとうんだ。

「なんか・・・フェアじゃないよ。いや、誰に文句言ってんだって話だけど。同情しか出来ないで友達面してる自分にかな。それで医者目指すの?って」
「タエ、変なところ真面目すぎ。」

シャープペンシルをおいた私に、苦笑いしながらひぃくんが言う。

「あのさ。医学部目指す人に言う言葉じゃないかも、なんだけど、ある程度まで治療をして貰った先の回復するとかは全部その人個人しかできないんだよ。お医者さんじゃないんだと思う。諦めてるわけでも非難してるわけでもないんだ、現実そうなんだなって思うのね。そしてね・・・私の身体は実際、むちゃくちゃ頑張ってるよぉ。半年前の私はまだ松葉杖一本をお守りみたいに持ってたでしょ。時々ね、なんでもないところでバランス崩すから手放せなかった。でもほら、今は全然。すごくない?」

うん、あなたはホントにすごい。回復してきていることも、弱音を吐かないところも、それでも大学入試のために机に向かうところも。
「だからそんな顔しないでってば」とひぃくんは私の肩をつん、とつついた。

「事故のことはそりゃ思い出せば怖いけど、二浪を余儀なくされたって思えば悔しいけど、でも生きてたし良い友達もできたって感謝もあるんだ。ただこういうね、この若さで天気が変わりそうなとき身体の奥で鈍い痛みを感じたり、寒いとこっちのケガした足の方がどうも調子よくなかったり・・・ バカみたいに聞こえるかもしれないけど、続くとちょっと鬱々としちゃうのよね。」

めずらしく元気のない声でひぃくんがすこしだけ弱音を吐いた。私は問題集から顔をあげて聞いていることしかできない。なんて言ってあげればいいのか、全くわからなかった。この間突然色盲のことを話してきたオノちゃんもそうだけど、心が弱ると身体の不調もまた耐えがたくなるのかもしれない。

「でも心配無いから。センター終わるまで予備校がっこうはもう行かないと思うけど、天気がよさそうならここを覗くから。センター試験終わったら絶対愚痴をいいにここに来るからさ。」

センター試験の会場は、不思議と浪人生仲間はばらばらになることが多かった。友達を探すのは夕方、試験が終わってからだ。

「その前にオノちゃんにクリスマスのクレープ、買ってあげるの忘れないでよ」
「あ、そうだった!それはしないとね?ほんとはオノちゃんと仲良く二人だけで食べたいけど、特別にタエもいていいよ?」
「いや、いいって。邪魔しません。甘いモノそんなすきじゃないし、二人のアマアマなのもごちそうさまだわ。」

冗談よ、と笑ったあとひぃくんは真面目な顔をする。

「ありがとねぇ。でも真面目な話、私達普段から会う約束とかしてないじゃない。お互いの生活リズムへのリスペクトっていうか。それを崩す気はないし、自分の事でいえば正直なところほんとに、電車に乗って駅からここまで歩くのも辛いって日もあるんだよね。センターの日程に向けて身体のリズムに合わせようと思ってるから、オノちゃんに会えなくてもそれは仕方ないや。探らせといてそれ?っていわれちゃいそうだけど」

そうだね。私達は浪人生だからやっぱり優先事項が他の人とは違う。恋愛・友達、そして楽しいクリスマス。どれも優先順位はずっと下。それにひぃくんの場合はまだ身体が大きな不安材料なんだから。

「それにさぁ、・・・しばらく前だけど、オノちゃんが今は恋愛とかお預け時期だからって感じのこと言っててね。んーって感じだったけど、考えようによっては今失恋確定とかしないほうが自分のためだもんね」
「まさか、この間やる気ないとか言い出した時期に?」
「あっ、ごめんごめん、ちがうよー。もっと前。10月くらいだったかなぁ、ハロウィン仕様のものが店に並んでた頃ね。でもそのおかげで、じゃぁ同じ大学行ったら違うかな、って思ったから志望校変える気にもなったし。」

そうか、臆病なひぃくんが志望校を考え直す背中を押したのはそんな会話だったんだ。

「・・・なんか手伝えること、あったら言ってね。」
「うん、ありがとタエ。・・・じゃ、家でお母さんが一人だからそろそろお先して、お昼は家で食べようかな。あれ、今ごろ来たの、珍しく遅めじゃんオノちゃん」

手に2つの白い、薄くて小さな紙袋をもって、鼻先と頬と指先を赤くしたオノちゃんがそこに早足でやってきた。

「おっと、もう帰るのか。あぁ樋口ひぐち、これちょっと早いけどお前にクリスマスプレゼントな。タエにもお揃いな」

小袋を渡してくれるオノちゃんのひんやりした指先からまだ外の冷気が感じられる。その袋はオノちゃんやひぃくんの住む町にある、ちょっと有名な神社のお守りを入れたものだった。

「最近みんな時間もばらばらだし。会えるときに渡しとこうって思って今日寝坊ついでに行って買ってきたんだ。」
「わぁありがとう!なに?恋愛成就?」
「んなわけねーだろ、学業のお守りだよ。」

ほんとにこの二人のこういうやり取りが微笑ましい。私はその袋からお守りをそっと出してみる。

「え・・・ねぇオノちゃん、私の、家内安全って書いてあるけど」

ひぃくんとオノちゃんがすごい勢いで覗き込んできた。

「げっ マジかよ!おかしいなぁ、同じの3つ買ったつもりだったのに。交換してもらってくるよ」
「すごーい、タエ引いてるね!ついてるよ!私もどうせならそっちがいいかも、交換しない?」
「交換なんていいよ、家内安全上等!心の平穏は身近な家族が幸せなところから!ありがとうオノちゃん。センターのとき机の上の、誰からも見える所に置くね!周囲をビビらすお守り!」
「なんだよ二人して。タエも嫌味か。これでもオマエ達を思って・・・」
「わかってる、わかってる、嬉しい!!!そうだ、帰るまえにオノちゃんにクリスマスプレゼント買ってくる、ちょっと待ってて」

そう言うとひぃくんはクレープ屋さんの方に小走りで向かった。(そうそう、普通に歩いてると分からないが、小走りになるとひぃくんはすこしびっこを引く。気にしてるかもしれないから言ったことはないけど。)

「あれ?タエがこの間俺にきいたのって、お前からのプレゼントってことじゃなかったんか」
「ごめん、私甘いモノはあんまり好きじゃないんだわ」
「なんだよそれ、タエが食べる訳じゃ無かろうに」
「あ、じゃぁいつものカフェオレ買ったろ、クリスマスプレゼントとして」
「3人とも前倒しクリスマスか。まぁ有り難く戴くけれども」

私が席を立つのと入れ替わりでオノちゃんはとなりの空いてる席に座った。まだ両手をこすり合わせているオノちゃんを見て、寒そうだから、と私のチェックのストールを膝にかけてあげた。

「・・・?」
「あ、戻ってくるまでそれ膝にかけててよ、結構あったかいでしょ。さっき、お守りもオノちゃんの指先もひえっひえだったよ」
ねえ!オノちゃーん、チョコレートソースいる?コーヒー風味のソースもあるってよ?」

むこうからひぃくんが声を張り上げる。

「うわ、周りの迷惑かんがえろよぉ大声だして。チョ・コ・で !
「・・・あんたもな?」

笑いながら私はコーヒー売り場に向かう。
この二人と一緒にいるとホントに元気をもらうな。

「カフェオレMサイズください、砂糖無しで」

むこうでは二人がクリームが落ちるだの一口だけ分けろだのやっている。あーうるさいうるさい、他のお客さんに迷惑だよ?そうつぶやきながらも笑ってしまう。
私達キリギリスだってずっと頑張ってる、冬の間にちょっとくらい笑っていたって罰はあたるまい。コーヒーサーバーのぶーん、という低い音とスチームミルクを入れるしゅおおおおお、という音を聞きながら、向こうの席の二人を見る。

クリスマスは私達受験生には別な意味でドキドキし始める時期だ。第一の関門、センター試験までのカウントダウンが始まるから。気持ちがキリキリし始める前に一緒に笑える時間があってよかったな。
私は熱いカフェオレのカップを受け取るとゆっくり向きを変えて、こぼさないようゆっくりゆっくり歩く。受験生に取りこぼすとか落とすとか転ぶとか禁句だしね。


10. 気付いて

この冬一番の寒波、とかいうのが入ってきたのはそのすぐ後だった。お馴染みの「西高東低の強い冬型の天気図で・・・」が朝のテレビから聞こえる。
神社へ行って身体が冷えたのか、オノちゃんは風邪をひいたらしい。「水曜の物理のノートだけとっといて」と電話がきた。
ひぃくんはあの日 寒さがこたえるのう、とかおどけながら帰ってから、こっちには出てこない。私は一人でフードコートにいるのももぞもぞするので、勉強する場所を予備校の自習室に変えていた。

寒いからか、あるいは冬期講習前で高校生が予備校内に目立つようになってきて浪人生は居心地が悪いからか、自習室は結構空いていた。空いている分思ったより集中もできて、気付いたら夜8時を大きくすぎてた、なんてこともあった。

「ここにいた」

そんな感じである日、授業後自習室にいたら声をかけられた。顔をあげるとオノちゃんが立っている。

「あ、久し振り。もう風邪はいいの?」
「うん。ダメだよな、休み癖がつくわ、この時期に」

あはは、ダメだわそれ。そう笑う私にオノちゃんが

「あっち、いかない?」

という。あっち?あぁ、フードコートね。でももう暗くなるから、ひぃくん、来てても帰る時間じゃないの?

「あー、樋口はそうだよね。ね、行こうよ」

まぁ、一人じゃないならもう少しの時間あっちで勉強してもいいか。最近息抜きも少ないし。

「わかった、今片付ける。入り口で待っててよ」
「うん」

そういえば頼まれてた昨日の授業のノート部分、家に置いて来ちゃった。問題集なんかを鞄にしまいながら思い出す。ルーズリーフを使っていると時々こういうことをやってしまう、必要な部分を家に置いて来ちゃうとか。頼まれてた授業ノートは明日でもいいかな。

「おまたせ!ごめん、気付いたら昨日のノート、持ってくるの忘れてた。」
「いいよ、勝手に頼んだものだし、今日はいきなり来たし。あとででもよろしく」

外に出るともう空は紫がかった群青になって、西の方に向いたビルの窓の反射がオレンジ色のグラデーションを残すくらいだった。冬至あけはしばらく日の短さが寂しさともの悲しさを空気に色濃く漂わせる気がする。
駅のコンコースにあるパン屋さん前を通るとき初めて、今日がクリスマスイブだと気付いた。

「わすれてた!ケーキを売ってる台が表に出てるのを見て思い出した、今日イブじゃん」
「えっまじかー。なかなかイブを忘れる20歳女性っていないだろうよ」
「うるさいなぁ、ちょっと追い込みで問題解いてたから、世間のことから頭が離れちゃってたんだよ、受験生の鏡とお呼び。」
「えらいえらい。・・・で、今センターのための問題やってんの?」
「ううん、それはあと1週間ちょいしたら始める。今はまだ二次のほうをやってる。マルチョイ※をひたすらやってたら、頭おかしくならない?私寝ちゃうもん」           ※マルチプルチョイスの選択肢問題

それにしても、これまで気にしてなかったけれど駅周辺のこの時期のライトアップはわくわくするし、学生時代より華やかになってる気がする。今までちゃんと見てきていなかったライトアップにキョロキョロしていたらオノちゃんに笑われた。子供かよ。そういうオノちゃんもなんか嬉しそうじゃない。

フードコートのあるビルも、ドアの両脇にシンメトリーに飾られた金と白のデコレーションのツリーから始まって とても美しいディスプレイが入り口前から続いていた。クリスマス仕様できらきらさせた赤や緑のアイテム達と、そして今年のテーマカラーらしい金色と白のアイテムがセンス良く飾られているのは知っていたけれど、この日が落ちる時間になると輝きが増してため息が出そうなほどに綺麗だ。

「ここってさぁ・・・こんなに綺麗にライトアップされて、飾られてたんだね。いつも昼間に来てたし、帰りはお喋りしながらだったからか気付いてなかったよ。ホントに綺麗・・・なんかデートしてるみたいだわ!」

そう言ってしまってからふと目を上げて あ、と思う。1段上のエスカレーターに立っているオノちゃんの背中がちょっと揺れて、緊張したみたいだったから。

え、なに?

オノちゃん、と声をかけようとして出来なかった。

なんでいきなりここに来ようと言ったのか。いつもこざっぱりした服装のオノちゃんはそういえば今日はうっすら良い匂いがしてる。今日の授業にはいなかったのに夕方にやってきたオノちゃん。そしてその今日はクリスマスイブだ。え、そんなの関係してるの?思い過ごしじゃないの?

いかに私が鈍感だろうとこれらを無意味と受け取ったらアホなんじゃないか、という思いと私が気にしすぎなんじゃないの?思い込みすぎなんじゃない?というブレーキとが頭の中でぎーぎーとせめぎ合う。
だってオノちゃんだよ?なにか受験科目とかセンター試験とかの話があったのかな?必死に考えるけれど頭のなかは全くうごかない。

オノちゃんはいいやつだ。本当に大好きだ、こんなに気の置けない友達になれるなんて思ってなかった。でも、・・・私には「そういう」のじゃないと思う。いつかひぃくんに話した言葉がぐるぐるしている。

急に私達の周りのクリスマスソングのBGMが遠のく気がする。いつもなら話をしなくてもなんでもないオノちゃんとの間の沈黙がぐわんと耳のなかで大きくなって、私の周りの時間が突然どろっとした粘度を持ったように感じる。鈍感な私でも、オノちゃんがなにか息を潜めるようにぐるぐると考えている気配くらいわかる。長い長い20秒ちょっと。

黙ったまま2階から3階へのエスカレーターに移る。そういえばオノちゃんのエスカレーターで立つ位置が少し近くなり、いつも私に半分身体をひらくような位置で立つようになっていたのはいつ頃からだろう。仲良くなったからだと思って気にも止めてなかった。残酷な鈍感さだったんじゃないか。その彼の立ち位置はエスコートというには距離があるけど、でも私が転んだりしても(実際私はよく何でもないところで転ぶ)手をすぐ出せるくらいのところ。そうやっていつでも下らない私の話をちゃんと聞いてくれて、いつでも一緒に笑ってくれていた。一緒にいなくていいときにもそこにいてくれたんだ。

沈黙のまま4階にいくエスカレーターに乗りかえたところで、つ、とオノちゃんはさっきより背中を見せる形で立った。うわぁごめん。私が黙ってるからだ。ごめんオノちゃん、それともこれは私の大きな勘違い?

「・・・受験とかじゃなかったら良かったのに」
「え・・・っと?」
「浪人生の辛さ、だな」

そういって振り向いたオノちゃんの笑顔は、さっきまで私達の間に一瞬流れていた緊張感なんて絶対気のせいだった、と思うようないつものものだった。私はオノちゃんのその言葉の意味を測りかねて、曖昧な笑顔をつくる。

いつものように飲み物を買い・・・今日はオノちゃんが二人分買ってくれたのだけれど、そしていつもの席に座る。いつものように「雑」談をし、笑い、センター試験で今年はどの科目が意表をつくだろう、と予想し合った。去年は日本史が結構難しかったっていってたよね。俺ら地理・政経で良かったよな。今年は有機とか、結構ひっかけ問題でるんじゃない?そんな話を。古文漢文はそうそう変な物出さないから平気だよ。さっきの気まずい感じは気のせいだったのかと思うくらい、私達はいつもどおりだった。

いつの間にか外はもうしっかり夜の色になり、窓の外も通勤通学の人波が一段落した感じがしてきた。フードコート内に数年前から鉄道会社のCMでめちゃくちゃ有名になったクリスマスの曲がかかる。

「・・・なんでクリスマスの曲って、失恋系が多いのかね」
オノちゃんが思い出したようにぼそっと言う。

「ん?ああ、この曲?」
「メロディはめっちゃ綺麗だけど」
「大事な人や家族と一緒にすごすクリスマスだから、失恋したことを余計思い出すってことかな。私は自分の失恋のことなんて思い出したくないけど、男の人は違うのかしら」
「え、クリスマスに振られたの?」
「ちがうちがう、でもあれはサイテーな思い出ではあるから思い出したくもないの。この曲もメロディすきだけど歌詞はイマイチ響かないのよ。そういうとこもあり得ないオンナなんです」

その彼はとにかくカッコ良い人だったんだ。彼の誠実さにやられたと思ってたのに、実際は二股かけられてたよー。もうずーーーーっと前の話、中3のときだけど。笑えるよね。
今のオノちゃんに今こんな話題で良いのか?と思いながらも勝手に口が動いている。この場を自虐ネタで「気の置けない友達の私達」に持っていくのが正解なのか不正解なのか、よく分からないけど喋り続けなければいけない気がした。

「そろそろ帰るか。あんまり遊んでると心に悪い」

私のフラれ話からしばらく続いた沈黙は、オノちゃんの受験生リマインダーの言葉で終わる。

「うん、そうしようか。カフェオレごちそうさま。・・・ねぇ、なんで私にカフェオレだったの?私いつもブラック飲んでるの知らなかった?いや、美味しかったけどさぁ」
「え、あれ?俺、また間違えた?なんだかなぁ、この間の家内安全といい・・・」

つい吹き出してしまう。これは何でもそつなくこなすと思ってたオノちゃんの、おっちょこちょいという数少ない欠点か。
今日はこのまま浪人生仲間としてそのまま終えるのが正解な気がしてきた。

エスカレーターを一緒に下りるときには 来た時みたいな緊張感と沈黙はもうなくて、そこに立つのはいつものオノちゃんだった。
全部私の思い違い、気のせいだったのかもしれない。どういう態度が、どういう言葉が一番今の私達に相応しくて 私の大切なひとを傷つけなくて、この目の前の優しいひとが普通に明日に向かえるようになるんだろう。軽い目眩がするくらい考えていたけれど、自分では正解が見つからない。

駅に着くと電車を使うオノちゃんとは改札前でバイバイと手を振って別れ、私はその先のバス停に向かう。振り向くとオノちゃんがまだ改札に入らずそこに立っていて、気付いた彼は向こうで小さく手を振ってから改札に吸い込まれていった。
何か大事なことを言わせなかったような気がするのは思い上がりだ、きっと。

バスは暖房が効きすぎて首回りのストールが暑いくらいで、私は冷たい窓に前髪を押し当てた。そこから見る窓の外はからっからに乾いた寒い夜、あのクリスマスソングみたいな雨も雪もない。駅から離れるほどにクリスマスライトアップは疎らになり、私の軽く混乱した頭の中もひんやりしたおでこから徐々に冷めていく。

冬になって食べ物がなくなったキリギリスは、次の春からは改心したんだろうか。改心してアリの真似をして暮らしたらあったかい冬が来るかと思ってたのは甘かったのか。改心した結果が出るまではどこまでもアリのように一心不乱に働かないとね・・・またギターをひいて楽しく夏を謳歌できるように。頭の中で繰る寓話絵本のストーリーは滅茶苦茶だった。

がくん、とバスが止まり目が覚めた。慌てて周りを見渡すと見慣れたバス停だった。

「すいません、あの、降ります!」

ガラスに押し当てて赤くなったおでこを前髪で押さえながら、私は慌ててバスを降りた。

11. クリスマス


「クリスマスイブ、どうしてた?ケーキ食べた?」

挨拶もそこそこに、ひぃくんが話しかけてきた。まだ朝8時半、予備校の自習室でひぃくんと会うのは久し振りだった。

「おはよう、メリークリスマス! 勿論食べたよー。ひぃくん今日調子よさそうね?」
「そうなの!なんかすっきり!と目が覚めまして。家に居るのも勿体ない天気だったしね。すこしは光合成しなきゃ、って、出てきた」

左斜め前の男の子がちらりとこちらを見る。すぐ横のテーブルの女の子も。
私達はすみません、と小声で謝り、「10時になったら(行こうか)」とお互いに目配せをする。


一時間半後、ひぃくんと私はいつものフードコートに向かっていた。今日はなんだかすこし暖かい。ひぃくんはご機嫌な感じで鼻唄を歌っている、しかもクリスマスの日に鼻唄はなぜか演歌だ。この見た目とのギャップは彼女の大きな魅力なんだけど、せめて失恋ソングでもいいからクリスマスっぽい曲を選んだら良いのに。

「なんかご機嫌?」
「え?そうねぇ、別に何もないんだけど、天気が良くて身体がしゃきっとしてるとなんか嬉しくてさ。ねぇ、すごくない?いつも不調がある身体だからこそ知れる、なんでもない幸せ!!!」

調子にのってくるり、と一回転したひぃくんは勢い余って転びそうになる。

「危ないってば。ほら、電車が着く時間みたい、人多いよ?」

ちょうど私達は改札前を抜けようとしたときで、改札から沢山のひとが吐き出されてきたタイミングにぶつかってしまったのだ。歩くペースをすこし落として人をやり過ごす。駅ビルを抜ける頃には人波も一段落ついた。

その少しゆっくり目な歩調のまま歩道橋を二人で歩く。冬の抜けるような青空は好きだ。すこし暖かいせいか、珍しく雀の声がうるさいくらいに手前の植え込みから聞こえてくる。

「あれ、オノちゃんだあ。さっきの電車だったんだね。おはようーオノちゃん!」

いつもより元気なひぃくんに気圧されたかのように あ、うん、おはよう、とオノちゃんはぱちくり、と目を瞬かせた。

「なんだよ、なんか良いプレゼントでももらったか?そうだ、メリークリスマスだな、タエ、樋口」
「プレゼントっていえばそうかな、体調がいいのよぉ、最近なかったくらい。あ、ばぁさんみたいっておもったでしょ。駄目よ、顔に出てる!・・・そういえば私達、こんなところで一緒になるの、初めてだね。」

よくしゃべるひぃくんは調子のいい証拠。そして私達も釣られて笑顔になれる。彼女のパワーだ、すごいよね。

「確かにね、合流はいつものとこか、予備校かだもんね」
「なんか暖かすぎて、しかもみんなで笑顔で歩いてて、3月こんな風に歩くのかなって一瞬想像出来ちゃった。よしっ合格イメージ!」
「都合良すぎだけど、いいなその想像。イメトレしておけば叶うかも」

気持ちの良い日射しの中、わいわいと話しながらこのメンバーで歩けるのはなんとなく幸せそのものという気がする。この空気感と笑顔が、ちょっと心に引っかかっていた〈今日オノちゃんといつもみたいに接することができるだろうか〉という心配を吹き飛ばした。そこには浪人キリギリス3人衆しかいなかった。心地よいものしかなかった。

親からなんのプレゼントもらった?という話をしている最中にひぃくんが「あ、そうだ!」と立ち止まる。私達もなに?と足を止める。

「オノちゃん!突然だけど私もA大うけるから!昨日お父さんにクリスマスプレゼントは3月の発表になるよう頑張る、A大行きたいって言ったら思いのほか喜んでくれてさ。まだ受かってないのにね。うちの父、A大卒なんだよ。願うことは口にだせ、ってアドバイスされたから、言っとく!」
「おう!そうか、樋口ならいけるよ、大体なんでB大を志望してるかわかんなかったし。お前なら同じエリアのA大だって余裕なのにって。」
「ありがとう、これからスパートかけるよぉ。ねぇ、タエも一緒に受けようよ」
「ご冗談でしょう、そこまで頭よくないって。A大の医学部いけたら一生の運使い果たすわ。私はC県立医大でいくわ。」
「なぁ、また二人で俺を応援しわすれてるぞ」
「だから、オノちゃんはほぼ決定事項だから!」
「応援しわすれじゃなくて、私達が追いかけます、って話よ!」

いつものフードコートのあるビルは、ちょうど午前中の光が入り口に降り注いで昨夜みたいなロマンチックさはないものの、クリスマスデコレーションが太陽の光に輝いていた。

「なんか、俺らの行く先が輝いてる、って感じじゃね?これ。なんか嬉しいな」
「ほんと!太陽の下のクリスマス飾りもいいねぇ」
「あ、ねぇ、ちょうどいい。今日上でちょっと良いランチしようよ。クリスマスだし、私達の前倒し成人式も含めてってことで」
「いいねそれ!そういえば一昨日ウチも成人式の案内葉書きてた。もう記憶にも残ってなかったわ、だってセンターの3日前?ありえなーい」
「え?二人とも成人式行かないの?」
「え?オノちゃんいく気なの?」「出席する気あったの?余裕だな・・・」

私達はキリギリスだ。息も絶え絶えに冬を乗り切る。
でもアリたちが以前やっていたことを遅ればせながらもやってきている。
まだ晴れがましい場所は似合わない。でもいつかキリギリスの服装で そういう場所にも行ってやる。
今はあれもこれもお預け。でもまた歌う夏はくる。

キリギリスだって夢を見る。

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