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みかんせい人から恋愛小説家への手紙① 「バランス?」 #往復書簡

女性の皆さんなら中学・高校時代、仲良しのクラスメートに授業中に紙を可愛く折って「お手紙のやりとり」をしたこと、あるんじゃないだろうか。時に本音をこっそり忍ばせ・・・

声をかけていただいたとき、それを思い出した。本音の往復書簡、楽しそうじゃないですか。

まずはお礼を。「まともな人認定」して頂けて嬉しいです、変人でもマトモ、それって一番望む自分でしたので。

いただいたお手紙、隅から隅まで首が折れそうなくらい頷きまくりました。で、池松さんは(レーダーチャート式SNSアウトプット診断のお返事メールから感じていたけれど)こちらが心配になるくらい優しい方ですよねぇ。

【みんな「疲れている」感じがします】

もう、池松さん!優しすぎです。私の子供がそういう状態だったら「甘えを正してから言え!」って叱り飛ばすところです。他人だからやりませんが。

でも私のそれって、他人は私の知るところではない、って突き放しているとも言えますね。まぁ、叱り飛ばすこと自体が私の中での「母性」という認識に分類されますけれど。ここ、ビミョウに池松さんの定義と私のものとがズレてますかね?

池松さんの仰る「父性」「母性」は前者が「厳しく教え導く」文章、母性は「受け止め、抱きしめてあげるような」文章、って理解でいいのでしょうか?もしそうなら、確かに「父性」溢れる文章は敬遠されがちな時代なのかもしれません。

私の中では父性も母性も「子を育てる」ためのもの・・・だとすると「父性」は「戦う背中を見せる」ものと捉えています。そう定義すると父性溢れる文章は、読み手が自分を省みて自分で行き先を探す、今の時代にこそ求められるのではないかなぁと思うのです。
同様に、私にとっての「母性」は「最後はここで受け止めてあげるから行っておいで」と背中を押すものです。一見すると父性と被るかもしれないですが・・・後述しますが単なる甘やかしは自己肯定感と自助努力のバランスを個人が育てられなくなる大きな理由と思います。それは優しくない世界を生きて行く現実を伝えず、結局愛じゃないなと。

池松さんがズバリ、と指摘されたマーケットニーズのこと。

1:ヒトと比較されたくない。
2:ホメられたい。
3:みんなと一緒に手を繋いで「よかった」と安心したい。

まさにその通りと思います。「承認欲求」を文章の表面にありありと乗せている人もいるし、自己肯定感を履き違えて「(生まれたまんま、努力無しの)私のまんまでいいんだ」となっているひともいる。怒られそうだけど、はっきり言えば「子供だなぁ」と思うんですよね。

「冷たくない、このままの私を受け入れてくれる、私の為に回る世界に住みたい」と、彼らは言ってるように感じます。
しかし残念ながら「この世は冷たい」し、個人の為には回らない。

大人になるとは、自立するとは、ということを「年齢」「資格の有無」や「容姿を固める」「社会の安定した歯車になる」みたいな表面的なものに捉えているんでしょうか。そういう表面的なものに捕らわれるから自己肯定感が上がらないのでは、と思うくらいに。中身が成長しないままに、池松さんの書かれたような3つの言葉に帰着して座り込んでいる様に私にはみえます。(ああ、私は優しくないひとだ)

成長とは、大人になるとは、「自分のために回らない世界」とダンスできる場面を少しずつ増やすことと思っています。ダンスするためにステップの練習したりダンスに適した、相手を不快にさせない服装をしたり・・・・ 踊れるステップが増えたら、ある程度の時間はどこでも踊れるようになる。時にはダンスの場から離れて周りと談笑することで不得手な場面をやり過ごす方法を覚えていく。

HSP(Highly Sensitive Person)という言葉が市民権を(?)得るくらい、それぞれの人がご自分の繊細さとどうやって付き合って良いか分からない状態なのかなと思う事はありますが、自己肯定感とのバランスの取り方は 優しくされれば得られるものじゃないと思いませんか?

ごくたまにですが「ただ認めてほしいが通用すると思うな!」とちゃぶ台ひっくり返したくなることはあるんですよね。HSPは自分を守る砦じゃなくて、自分サイズを知ることのひとつに過ぎない。世界とダンスするときに背筋が伸びる服や靴擦れをおこさない靴が必要だから 自分のオーダーするポイントを知っていく。「甲高幅広の靴、ありますか」「あんまり堅苦しくなく、でも失礼にならない服ありますか」「この色が好きなんですけど」って基準を作るものだと思うんで。

少し話は変わって、私はアメリカに来ての15年ほどの子育てで、どうしても頷けないことがいくつかあります。
「子供のやることだし。」「出来ないんだから仕方ない。」
そう言って全て許す、という人が多い。
その結果、我が儘と紙一重な個人主義が増えてくる。その紙一重分こそバランス感覚と感じています。

すこし出来たら褒め称える(努力がなくても、その先が続かなくても)。
目標達成した人は褒めちぎる。その途中経過関係無く(見えなければ他人を貶めたり踏み台にしたことなんて問題なく)。
褒めるだけじゃなくて「望ましい進む方向性」の示唆がある場合はいいんですよ。褒められたらそれこそ正しく伸びるから。

ただ残念になるのは、親にも子供にも許すバランス、受け止めて貰える範囲のバランスのとれないひとがいること。単に生まれついて阿呆だってひとは居ないと思いたいので、だとするとバランス感覚をどこかで失ってるんだなぁって。特に母性の内包するバランス感覚が狂っていると間違いなくとち狂った所にバランスを取るひととなる。

「そのままのあなたがお母さんは大好きよ」
これはいいんです、ホントの事だしそうあって欲しいし。でも「そのまま」を社会に歩み寄る努力が要らない、として発してる親も受け取ってる子供もたまにいて、「そのまま」の程度についてバランス感覚がないんだなぁと呆れたり。

「あなたが嘘つくなんてあり得ないわ。お母さんは全てあなたの味方よ」
7-8割方いいんですけど、味方に付きながらもちゃんと子供が全体の中でどうするのがより良いかは判断しててほしい。そこを全く持たないと、一部に勘違いした子供が出てくる・・・(そして大抵とんでもないことになる)これもバランス感覚だとおもうんです。

「あなたはそのままでスペシャルで素晴らしいのよ」
その言葉のとおりなんですけど、子供の中には「そのままで」を良いように拡大解釈する子がでてくる(単に生まれつき傲慢なのか感謝や愛を感じる心が薄いのかは分かりません)。自己肯定感はなまじ高いだけに、努力しないのに「俺を認めない方がわるい」とか・・・・なんか、お伽噺の暴君か、みたいなひとを見かけます。

全て褒めて受け入れられるものだから自己肯定感は普通以上に高く 他者のことを想像する一歩すら知らず、結局あれこれがバランスのとれない個人として育ってしまった人に、「自助努力」は存在しない。ここでも「私のために回らない世界が悪い」ひとが生まれるんです。

・・・みたいなことを考えてくると、どんなことでもバランスってとっても大事だと思うんですね。
自己肯定感は低すぎても高すぎても何かを狂わせていく。そのちょうど良いところを探していく過程が成長で、微妙なバランスだからこその父性・母性の大切さかなぁと。

自分を変える努力無しに他人のせいにしていると行き止まりにしか辿りつかない。
「そのままで良い」キャッチフレーズの貼り付けられた下には「でもそのままではこの先行き止まり」看板がある、って感じ。

前提は「自分のためには回らない世界」、そして「自分にはこれでなら(この装備でなら)その世界とダンスすることが出来る」を見つける努力ができる・・・ その上で「今の自分でもOK」「だけどもうちょっと変われたらもっと素敵だよね」がうっすらでもバランスよく持ち続けられたらなぁ。

そんな感じのほうが、「認めてくれ」なんて言わなくても自然と一目置かれると思いませんか?いや、池松さんならそう思っていると思うんですけど。 

そのままでいい、は「未来永劫そのままで」なんてわけではないのに、「そのまま」の言葉に0か100かしか見ていないとそうなっちゃうんでしょうか。だから私は、まとめて言えばバランスの悪い人だなぁとおもうんですよ。価値観が急に変わったというより、バランスが悪すぎる個人だから価値を見出すものが狂っていると。

時代で価値観はどうしたって変わるでしょう。それにしても「いや、そのバランスはあり得ないでしょう」というものを引っさげている人が増えている気がします。うーん、「最近の若いモンは」発言でしょうか。


とにかく「バランス悪いひとが増えている」と感じている私には 今こそ父性ある(求められたダンスをこなし、厳しすぎるものを躱しながら生き抜く背中を見せる、あるいはそれを通して諭していく)文章はより求められていると思うんですね。

そしてこのぼやん、とした「バランス感覚」を色んな場面で習得していくことこそ、SNS空間でしなやかに生き延びる術を与えてくれそうに思います。どうでしょうか?


*最後にちょっと言い訳のようですが、
HSPという自覚を悪く言っていません。私はあのテストで80点越え(100点満点)ですし。その先の、社会とのバランスの取り方こそがそれぞれで最適解を探すものと思ってます。

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。