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【短編】 寛容桜は今年も ②

安達茂兵衛の旧家は意外にも現存していて、あっさり見つかった。

ところどころ増築されてはいるが、紛れもなく明治中期に財をなした豪農「安達家」の旧家だ。
急な訪問にも関わらず、現在の当主は快く対応してくれた。

「突然で恐縮なんですが、安達茂兵衛さんが編纂した文献について伺いたいのです。」
「ああ、【安達実記】だね。遠い所をごくろうさん。まあ、上がってお茶でも」
17代当主の安達幹夫は優しい口調で語ってくれた。

1750年(寛延3年)の労咳ろうがい=結核の流行は、確かにあった。
それにより100人超が亡くなったことも、代々語り継がれてきた史実だった。
その年の桜の開花の遅れと結核の流行を関連付けて記述することで、この地域で起きた悲劇を忘れてはならないという戒めを後世に伝える目的があったのは間違いないだろう、との事だった。

それがどういうわけか、時間をかけ「寛容桜が怒りを放出して村がひとつ無くなった」というフィクションに変化し自然伝播していったのだ。

明治時代の茂兵衛の頃に、この噂話が出来上がっていたか否かは定かではないが、茂兵衛が自分の村を大事に思っていた事は想像出来た。
隣の村とはいえ、同じような悲劇を繰り返したくないといった思いで、【安達実記】は編纂されたのだ。

安達家をあとにし、岡野と坂上は取材で得た情報と以前大学で聞いた、「桜が怖い人」の話をリンクさせていた。

「桜を怖い、と感じる人は一定数いるって話あるよな」
「確か、桜の木の下には屍が埋まってるとか、美しさと同時に怖さも感じるとか、フランスでの桜の花言葉が(私を忘れないで)だったり、有名な高僧が(桜の木の下で死にたい)と詠った、とか。色々この話の背景はあった気がしたな。」

二人はそういった話と弦巻村の結核流行の史実が絶妙に重なり「寛容桜」の噂が出来上がった、とする論文を仕上げた。

同時に若いSNSユーザーを中心に、寛容桜の「ご利益」目当てに深沢村に訪れる人は増える一方。

村人たちは遊休地を臨時駐車場にしたり農産物を販売することで思わぬ収益を上げたが、複雑な思いだった。

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