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信じるか信じないか、じゃなくて、採用するか採用しないか

新しい考え方やものの見方と出合ったとき、信じるか信じないかで判断しないようにしている。正しいか正しくないかをジャッジしているような気がするからだ。

例えば、宇宙人はいるという考え方。信じるということは宇宙人がいるという意見を正しいとみなすことと同義である。逆に信じないということは宇宙人がいるという意見は間違っているとみなすことと同義である。

世の中に絶対というものは存在しないのだから、信じるか信じないかという二者択一を迫られても困る。

だからぼくは、考え方やものの見方を「採用する」ようにしている。「世の中に絶対というものは存在しない」と書いたけれど、いまは一時的にその考え方を採用しているのだ。なぜなら、その考え方を採用していたほうが自分の人生がよくなる気がしているから。「絶対」と決めつけずに、本当にそうだろうかと調べたり、考えたりするほうが自分の視野が広がるように思える。(視野が広がると人生がよくなる……これも採用している)


これはすごく失礼なのかもしれないけれど、「神様」という存在をぼくはどちらかというと信じていない。でも神社に行く時とか、腹が痛くなった時とかは、「神様がいる」という考え方を採用している。

だからお賽銭もするし、二礼二拍手一礼もきちんとする。目を閉じながら、神様に自己紹介もするし、感謝の言葉も述べる。腹痛に襲われたときは「神様、お願いです。もう悪いことはしないので、お腹の痛みをおさめてください」とちょっと嘘をつきながらお願いする。

自分でも思うが、本当に都合のいいように神様という存在を扱ってしまっている。


世の中にはとてもじゃないけれど信じられないような考え方やものの見方があると思う。なんでこんなこと信じる人がいるのだろう、どうしてこんなものの見方しかできないのだろうと不思議でたまらなくなる。

でも一時的にそれを採用してみるという考え方をしていると、ちょっとだけ理解ができることもある。

採用したものを最終的にどうするかは、自分の人生にとって必要かどうかで判断すればいいんじゃないかと思うのだ。

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