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その声がどこから聴こえようとも

私が「からだの叡智」と呼ぶものは、

それを神経生理学的に説明すれば、「いくつかの神経シナプスが同時多発的に発火している」ということかもしれないし

心理学的な用語を使えば、「ゾーンに入った」「フロー」「マインドフル」という状態なのかもしれないし

宗教哲学的には悟りや解脱に近いのかもしれないし、もしくは啓示や預言のようなものなのかもしれないし

スピリチュアル的な解釈なら、宇宙やハイヤーセルフや守護天使といった「大いなる何か」からのメッセージということになるのかもしれないし

ローマ時代なら「ジーニアス(創造性を授ける精霊)」の声ということになるのかもしれません。

人生が行き詰まったように感じたとき、苦しくて精神的に追い詰められたとき、ひとつの「どうか願いを叶えて!」と必死で祈っているとき、

どこからか聴こえてきた「声」に救われることがあります。

その「声」を何と呼ぶのかは、その人の信ずるところやが軸を置く領域によって、いろいろです。

古いインドの寓話「暗闇の象」と同じです。

暗闇で大きな象に触った人たちは、触った部位によって異なる感想を言う。長い鼻に触った人、太い足に触った人、大きな耳に触った人、しっぽに触った人。同じ一頭の象に触っているのだけれども、視点によって印象はがらりと変わるという話です。

深い悩みの沼から救い出してくれる「声」、その声を何と呼ぶのかは人それぞれに違うけれど、でもきっと指しているものは同じなのではないか。私はそう思っています。

つまりそれは、浴槽からあふれ出す湯を見たアルキメデスが「ユリイカ!」と叫んだ瞬間に受けとったものと同じもの、

インスピレーションであり、
ひらめきや直感であり、
人生を切り拓くイメージであり、
真理でもあり、

私はそれを「からだの叡智」と呼んでいます。



なぜなら、その「声」は、音も形も色もないものだからです。

「声」だけれど、音として耳で聴くわけではない。目に見えるわけでも触れるわけでもない。おそらく物質ではない。

そのような実体のないものを感知するためには、「からだ」がなければならないと思うからです。

たとえれば、電波とスマホの関係に似ています。

電波には実体がありません。少なくとも、私たちの日常生活の中で「これが電波というものだ」と認識できるものがあるわけではないし、空を見上げたら電波が雲や虹のように飛び交っているわけでもありません。

私たちは、電波というものがあるということを知っています。通信衛星があり、基地局があり、4GとかWI-FIとか、電波を受信するために毎月安くない料金を払っています。

そのように電波には実体がないけれど、スマホがあればそれを受信できます。誰かからのLINEメッセージとして、画像として、インターネットのサイトとして、オンラインゲームとして。

私たちは電波を認識することはできないけれども、スマホという受信機があることによって、電波という実体のあいまいなものを受信することができるのです。

からだもこれとよく似ています。

ひらめきやインスピレーションのような、実体のない何かがある。それは確かに存在していて、多くの人がその存在を認めているし、知っている。

ある人はそれを神の啓示だと信じ、ある人はハイヤーセルフからのメッセージだと感じ、ある人は神経シナプスの発火による幸運だと考える。宇宙からか天からか、あるいは自分の潜在意識からか、とにかく、どこかから届く「声」のようなものが、ある。

その「声」を受け取るのは、からだです。

受けとったひらめきを何かの形に活かすのも、必要な人に届けるのも、人生の指針とするのも、からだという受信機があってこそのこと。

だから私はその声を「からだの叡智」だと呼びます。



意識と意識でその声を受けとっているのだというなら、それはもはやこの世界のことではなくなります。

死後の世界があるとして、魂が還る場所があるとして、そこではからだなどいらなくて、意識と意識でだけ伝え合うことができるのだとしたら、

私たち、生きている理由がなくなります。

人智を超えた大いなる存在というものが、あるのかないのか、私にはわかりません。あるようにも思います。

でもそれだけの世界を生きるなら、もう今生である必要がなくなります。

神や精霊の世界だけで生きるなら、からだはいらない。潜在意識やハイヤーセルフと繋がることだけが大切なら、やっぱりからだはいらない。

意識だけ、心だけ、気持ちだけ、スピリチュアルや信仰だけで事足りてしまうのなら、からだが存在する意味はなくなります。

でも、私たちは今、このからだを生きています。このからだで生まれたことが生、からだが尽き果てれば死。魂だけの場所がもしあるとしても、とにかく今はこのからだで生きていることが、私たちにとっての「生」なのです。

私がその声を「からだの叡智」と呼びたいのは、こうした理由からです。



インスピレーションやひらめきであるその「声」を、からだが受け取るのだとしたら、

やっぱりからだが大切です。

どんなに強い電波が通う場所でも、スマホのバッテリーが切れていたらどうにもなりません。

誰がどんなメッセージを送ってくれても、スマホが壊れていたら読むことはできません。

どんなインスピレーションも、どんな真実も、どんな愛も、それを受け取る準備ができていなければ、からだがそれを受け取るコンディションでなければ、存在しないのと同じになってしまいます。



芸術家や研究者が素晴らしいアイデアを得るのが、単純作業や散歩の最中であることが多いように

アスリートが最高のパフォーマンスを発揮するのは、毎日のトレーニングで修練を積み重ねた結果であるように

瞑想や座禅が人をマインドフルな状態に導くように

どこかから降りてきたその「声」を受け取るのは、からだです。

思考だけ、意識だけ、魂だけ、思いだけ、では足りません。

たとえ感知はできなくても、魂や思いのような「伝わる力を持つ何か」はたぶん存在するのでしょう。意識だって、実体はないけれどもこれだけのテクノロジーを生み出しているのだから、祈りや念といったものも間違いなく存在しているのでしょう。

だとしても、からだがなければ意味がないのです。

遠く離れた場所まで祈りの力が届くのだとしても、その先にからだがなかったら、祈りはただ虚しく霧散するだけです。

潜在意識がすべてを思いのままに叶えてくれるとしても、からだがなければ叶ったことを経験できません。

愛の力が時空を超えるとしても、愛を放つからだ、愛を受け取るからだがなければ、それは夜に見る夢と変わらないのです。



だから私はその声を「からだの叡智」と呼びます。

インスピレーションもひらめきも、天の啓示も魂の祈りも、このからだに着地してこそのもの。

その声がどこから聴こえてくるのかは関係ありません。その声の正体が何であるかは重要ではありません。

どこから聴こえようとも、
その声が届き、受け取ることができるのは、

ただひとつ、この「からだ」だけだからです。