ここ一年ぐらいモヤモヤしているモ人から見たネット世間と、そこで自分が何を書きたいのか振り返ってみた話(有料かつチラシの裏)

ネガティブなタイトルと有料コンテンツで失礼します。モ人です。ともすればホントに愚痴でしかないものの「無料で誰でも読める場所に書くのは気が引ける…(不特定多数の投信ブロガー界隈の方々にケンカをふっかけるつもりはないのですが、読み方によってはそうともとれる内容になりそうなので)」ちょっと扱いにくいネタだと思うのですが、今までネタストックですらないもののモヤモヤ熟成していた気持ちがあるので、チラシの裏ふうに。

ネット世間…「ネット」というのはあくまで手段でしかない…といっていられたのも今は昔。今や、ある程度以上のリテラシーを持つ人間にはなくてはならないインフラとなった事を否定するのは難しくなったのではないでしょうか。そして、使う人間の量、規模が爆発的に増えた「ネットの海」では様々な人間が手軽に情報発信をしています。これをもって岡田斗司夫さんは「評価経済社会」の中で『情報化社会というのは、情報の量そのものが増えて、我々(従来の上方の受け手)が自分に適した情報をよりよく選択できる、という幸せな世界ではない』という風に書いています。そして、現状をみる限り、実態としての「情報化社会」とは「一つの事案に対する多様な解釈が『情報』として過剰に流通し、飽和する社会」という指摘そのままになっているように感じます。これは、全くもって腹に落ちてくる話であり、今頃の「ネット世間」も、まぁそういう側面が強いといわれると納得してしまいます。

一方、「ネット世間」とは自分で見たいと思わなければ何も眼に入ってこない世界でもあります。興味を持ち、「検索」というアクションをしない事柄は自分の見る「ネット世間」に反映されない世界。であればこそブログの書き手としてはSEO-Search Engine Optimization:検索エンジン最適化に力を入れる事はまっとうな手段でしょうし、Google八分というコトバがあるように「検索」に拾われない=一見さんからは存在していないと思われる世界でもあります。

なんかね、それでいいのかな?って思っちゃうわけですよ。自分の見たい世界の選択肢は増えている。マイナーな趣味・嗜好(思考・志向)の愛好者からすると、昔に比べて同行の士を探すのが容易になりましたよね。一方、偶然の出会い、セレンディピティは減っているような気もするんです。SNSなんかで自分がフォローしている人が回覧してくるネタの中に「あ、そんな魅力的なコンテンツがあるんだ。自分は気づいてなかったな~」というネタが潜んでいる事ってのは、自分にもありました。なるほど、コレも一つのセレンディピティでしょうし、コレを回覧する側が「キュレーション」って名前で実施しているのも知っています。しかし、それも「自分として、この方面のネタに関して信頼がおける人」フィルターを通したもの。その人の全てを肯定し、その人がチョイス-回覧してくる情報、解釈全部にどっぷりとひたっていたいわけではありません。このあたり、充分に、慎重に認識してないと自分と他人の境目がなくなったり、極端に同化していると思い込んで、逆に小さな違いが気になってくるという人もいるかもしれないので注意しておいて損はないでしょう。

例えば、ガンダム・ガンプラ・超合金レビューが好きでフォローしている人が、中韓叩きに熱を上げているのを見ると、ソッとリムったりしたくなるわけですよ。(ごく個人的な感想として、投信ブロガー界隈で人気のサッカーネタなんかは、あんまり興味が持てないので「ふーん」と流せるのですが、何かに対して攻撃的なネタ、何かを揶揄する書き方などなどネガティブな話は「見たくなくても眼に入る」からイヤですね)だからといって『というワケで、みんなでポジティブなTweetだけをしましょう!』とも思いませんが。

(SNSをはじめとしたネットの世界なんてのはそんなもんだって意見もごもっとも。自分だって無意識なウチにだれかを攻撃しているんでしょうし、自分のSNS・ブログを見て不快だって人も…まぁ、自分が把握できてないだけであっていらっしゃると思ってた方がいいんでしょうな。Twitterはネット世間の自由さ、その結果の混沌さが尖って表現されている、というだけであって。)

んで、ココからが特に自分と関係のある「投信ブロガー」界隈の話なんですが…

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