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私がヒーローと出会うまで。

「ヒーロー」と聞いて、どんなイメージを持つだろうか。

落ち込んでいるとき、誰よりも早く駆けつけてくれる。
常に正しい方へ、自分を導いてくれる。
ピンチのとき、身を挺して守ってくれる。

人によってさまざまなヒーロー像があると思うけれど、私にとってのヒーローを敢えて定義するなら、以下だと思う。

・何があっても自分の味方でいてくれる
・私に対して常に正しくあろうとしてくれる
・ピンチのときに、駆けつけてくれる
・私の大切な人を助けてくれる


子どものころ、泣いている母親の手を握り締めて、私はヒーローを探していた。母はこんなに頑張っているのに、どうして誰も助けに来てくれないんだろう。
本当だったら、私が母親にとってのヒーローでありたかった。そして、自分自身もちゃんと守れる、そんなヒーローになりたかった。だから常に正しく在ろうとした。でも、私の力なんて微々たるもので、こんな力じゃ誰かを救うことすらできないのがわかっていたから、ただ一人のヒーローが私たちを救い出してくれるのを、ただひたすらに待っていた。

 *

私にとってのヒーローを語るにあたり、昔話をしようと思う。

幼少期、家にはいつも母がいた。リビングで母とふたり、段ボールをつかった秘密基地をつくった。お弁当をもって公園に行き、一緒に砂場遊びをした。遠くから見守るのではなく、母はいつもとなりにいてくれた。夕方になると、台所からはおいしそうなにおいが漂ってくる。「私も早くお手伝いができるようになりたい」というと、うれしそうに微笑んでくれる母が、私は大好きだった。

父親はプロの料理人で、いつも忙しくしていた。
基本的に休日は家で寝ていて、うるさくすると不機嫌になる。だから父親が寝ているときは静かに、邪魔をしないように過ごすのが決まりだった。でも、たまに一緒に人形遊びをしてくれたり、家の前で遊んでくれたり。私の友達が来ると、オムレツやブルスケッタを振る舞ってくれる。そんな父が、私は大好きだった。

あるときを境に、両親は喧嘩ばかりするようになった。
泣きじゃくる母、怒声を上げる父。私はどうすればいいかわからなくなって、いつも必死で母の手を握った。震えてこわばり、動かなくなってしまった母の腕を、涙を流しながらさすっていた。まるで真っ暗闇にいるみたいで、大好きだった父は、恐怖の対象になった。

当時、私はアパートの2階に住んでいた。
今思い返せば、そんなに簡単に死ねるはずもないのだけれど、何度も廊下の窓をよじ登って、飛び降りて死んでしまおうとした。そのたび母は、泣いていた。夜遅くに家を飛び出して、アパート裏手のガスボンベの間から真っ暗な空を見上げたこともあった。遠くから、必死に私を呼ぶ母の声が聞こえてくる。一度だって、父が私を探しに来てくれたことはなかった。

離婚が決まり、仲が良かった友だち家族とも縁が切れた。いつも家にいた母は、スナックへ働きに出るようになった。黒髪に眼鏡で、簿記の資格を活かして事務員をやっていたような、絵にかいたように真面目で穏やかな母が、そんなところに働きに出たことには驚いた。でもそうしないと、生計が成り立たないのも、幼いながらにわかっていた。

荷物をまとめて、隣の町の小さなアパートへと引っ越しをする。そのとき引っ越しを手伝ってくれた男の人は、なぜか気づいたら新居に住み着いていた。「この人はだれだろう」そう思いながらも、私にギターを教えて可愛がってくれたから、もしかしたら新たな父親代わりなんじゃないか、と思ったりもした。でもその人は、母に愛されたいがために、私を大切にしているだけだった。最後は母に泣いてすがって、自殺未遂を図った。ネクタイを結んで死のうとする男の人の背中を、私は止めることもなく、黙って見つめていた。この人も、私の味方にはなってくれない。私のことを、見てくれない。

 *

私は「父親」という存在を、自分のなかでずっとうまく消化しきれずに生きてきた。父がいて母がいる。だから私がいる。生物学上の成り立ちは理解していても、私にとっての父は恐れるべき存在で、私にとっての父は、最終的に自分を裏切る存在。だから、父親なんていらない。絶対に私を裏切らない、ヒーローにそばにいてほしかった。父親を求める代わりに、私はずっとヒーローを探していた。このどうしようもない現実から、引っ張り上げてくれるそんなヒーローを。

 *

小学校5年生のとき、母が運動会にひとりの男の人を連れてきた。
サングラスにジャケット、スラックス。まったく運動会らしくないいでたちのその人は、青いカラーコンタクトをしていた。ひと言でいうと「変わった人」だった。

自殺未遂騒動があってから、私は初対面の人と話すのが苦手になっていたので、適当な愛想笑いをして乗り切ったように思う。でもその人(サングラスをいつもかけているから、グラさんと呼ぶことにする。)は、家に遊びにくることが多くなった。

グラさんは、仕事に出ている母に代わって、よく私に夕飯をつくってくれた。ラーメン、お好み焼き、焼きそば。「男飯」といった感じだったけれど、濃いめに味つけをされたそれらはおいしかった。グラさんは、私におこづかいをくれるようになった。「みんなと同じことができないと、仲間外れになっちゃうだろ」とよく言った。最初のうちは断っていたけれど、やっぱりみんなと遊びに行きたかったから、その言葉に甘えるようになった。

携帯電話を欲しがったとき、母は反対した。でも、グラさんは「他人がみんな持っているものを与えない、そんな育て方はかわいそうだ」と、母を説得してくれた。人並みの生活を送れるように、グラさんはいつも私のことを考えてくれた。

熱がでて苦しいといえば、グラさんは母と一緒に私を介抱してくれた。「お前だけにこっそり教えるな」と、内緒の話もよく聞かせてくれた。母と喧嘩して家を飛び出したり、お酒に弱くてたまに飲むとすぐ酔いつぶれたり。完璧な人ではないけれど、でもグラさんは私にとってはいつもまぶしかった。日々の生活のなかで、グラさんはずっと「私の味方でいること」を示し続けてくれた。

 *

高校2年の春、グラさんが半年ほど家を出ていったことがある。
ヒーローをなくした私はどうしたらいいかわからなくなって、ただただぼんやりと日々を過ごした。家にはなぜか入れ墨の入った男が入り浸っていて、そんな男に乗り換えたのか?と正直、母親を軽蔑することさえあった。ああ、またお別れか。結局私は母親の添え物で、母の人生に左右されて生きていくのだ。

メンタル的にも参っていたのか、ある日私は学校で倒れ、保健室に運ばれた。家族が迎えにくることになり、白いシーツのかけられたベッドにあおむけで眠り、ぼんやりと天井の穴を数えていた。

カーテンの向こう側、保健医がだれかと話す声が不意に聞こえる。

「もかちゃんの親御さんですかね」
「はい、あの子は大丈夫ですか」

その声は、グラさんのものだった。
どうしてグラさんがそこにいるのか。どうしてきてくれたのか。
全然わからないけれど、彼は私のところに大急ぎで来てくれたことだけは、弾む息の様子からよくわかった。

「念のため、病院に連れていったほうがいいですね」
保健医がカーテンを開け、私はこの目でグラさんの姿を視認する。やっぱり間違いない。彼は私のピンチに、駆けつけてくれたのだった。

車の後部座席に横たえられ、ふわりと毛布をかけられる。
「しんどかっただろ。すぐ病院向かうから寝てていいよ」
軽く頭を撫でて、運転席に乗り込むグラさんの背に、私は思い切って問いかける。

「どうして、来てくれたの?」
「お前は俺にとって、大事な娘みたいなものだからな。ピンチに駆けつけるのは、当たり前だろ」
母の付属物でもなく、自分本位な押し付けでもなく、グラさんは私が大切だと言ってくれる。私がピンチのときに、何を差し置いても駆けつけてくれる。そんな事実が、うれしいと同時にとてもつらくて、私は声を殺してぼろぼろと泣いた。グラさんには絶対に泣き顔を見せないように、毛布に顔をうずめて。

そのあと、入れ墨の入った男は母からお金を奪って逃げて行った。それをグラさんが助けたことも、私は知っている。「もう間違えない」そう泣いた母の言葉に、少し涙ぐんでいたグラさんのことは気づかないふりをして。私は「おかえり」と笑う。


誰も受け入れられないと心を閉ざしていた私を引っ張りあげて、味方であることを示してくれたグラさん。母のいうことを一切きかず、いつも母は「ほんとにあの人は」と文句ばかり言っているけれど、グラさんが家を飛び出してしまうことはなくなった。

私がグラさんを他人に紹介するとき、色々と厄介だから「父です」とひと言伝えるけれど、私にとってグラさんは父ではないのだ。私にとっての父は「裏切る存在」「見捨てる存在」でしかなかったからだ。

不完全で、完璧じゃない。
でも私にとってのヒーローは、今日もリビングで変わらずテレビを見ている。

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