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飛行機雲

俺はイライラしていた。電話の向こうでなかなか泣き止まない美穂子にではなく、こんな真夜中に延々と押し黙った時間を過ごさなければならなくなったことに、だ。
 美穂子は「あなたはわかってくれない」と、それしか言わない。
「そやかて、俺にはわからん。お前の言ってることは言い逃れや」
「だから…」
「何がだからや。俺が言うてんのは一つだけや。心を開いてくれ、そういうてるだけや」
 つい声を荒げてしまう俺と、ただ泣いている美穂子。そして続く沈黙に耐え切れず、電話を切った。
 
 美穂子と出会ったのは六年前の夏だった。北海道を舞台にしたドラマに感動した俺は、盆休みを利用して同僚四人と北国へ旅行に出かけた。以前から道東に行ってみたいと思っていた。札幌や函館などには修学旅行や会社の慰安旅行で行ったが、道東はまだだった。春や秋は肌寒く、出かけるなら夏が一番いいという。
 レンタカーで南十勝を走る。道路はどこも広く、整備が行き届いて綺麗だ。要所に看板があるので、カーナビを使わずとも主要町村の道の駅にたどり着いた。どこの店舗も土地の特産品を扱っていて食べ物も安く美味しい。
 中札内村の道の駅で食事をし、売店を見る。
「大輔、探しものか? そろそろ行くで」
「悪い。ちょっと待って。おかんに絵ハガキ頼まれたんや。キタキツネのやつ」
「キタキツネ?」
「友達にハガキ書くんやて」
 レジの横の小さな棚に、絵ハガキが数種類並んでいる。ケースには中身の写真が小さく印刷されている。雪で真っ白な平原や山、初夏の草花など、美しい風景があふれていたが、肝心のキタキツネがない。
「大輔、ないのんか?」
「ああ、景色のはあるんやけど」
「何をお探しですか?」
 若い女性が声をかけた。
「あ、キタキツネの絵ハガキ、頼まれて…」
「すみません、品切れで。でもすぐに入荷しますよ。よろしければお送りしますけど」
「送ってくれるんですか?」
「ええ、ネット販売もしておりますから。ご住所とお名前をここに書いてください。入荷しましたらお送りいたします」
 名札を見ると「古城美穂子」と書いてある。
「お姉さん、それ、なんて読むんや?」
「こじょう、といいます」
「そうかあ、すまんな、不躾で」
「いいえ、よく聞かれるんです。間違える方もいますし」
「なんて読み間違えられるんや」
「こしろ、とおっしゃる方が多いですね」
「こじょうみほこ、か。かっこええやん。芸名みたいや」
 彼女はにっこり笑って「それもよく言われます」と答えた。
 差し出された申込用紙に住所と名前を書く。
「坂本大輔さまですね? 大阪からですか」
「会社の同僚でね。みんな道東には来た事ないもんだから」
「そうですか、お気を付けてくださいね」
 それが俺と美穂子の出会いであった。
 
「いまどき、文通がきっかけなんて、そういうのも古風でいいわね」
 世の中で男と女が付き合い始める時は、アドレスを交換し、メールからというのが一般的ではあったが、俺と美穂子は住所を交換し、手紙のやり取りから始まった。
 絵ハガキが届いたあと、俺は書店で「手紙の書き方」なる本を買い、美穂子に手紙を出した。覚えているだろうか、いきなり手紙など届いて困惑しないだろうかと色々考えたが、ただ単に注文した絵ハガキセットが無事に届いた、サービスでつけてくれたコースターも気に入って使っていると、事務的な報告をするだけなのだと開き直った。前略から始まる手紙を書いたのは、後にも先にもこの時だけだ。もちろん返事など期待もしていなかった。
 ところが予想に反して美穂子から返信があった。丁寧な字と、大阪の暑さを気遣う優しい文面、そして『機会がありましたらまた是非いらしてください』と締めくくった手紙に心を惹かれた。
 メールアドレスの交換はそのあとだった。
朝におはよう、今日も頑張ろうねと送信し、眠る前におやすみ、また明日ねと送る。そのうちメールが電話になり、秋に再び俺が北海道に行った。同じ年の冬、美穂子が大阪に来た。この頃、二十五歳の俺と二十三歳の美穂子は、北海道と大阪の遠距離恋愛をしていた。休暇のたびに俺が北海道に行き、美穂子は大阪に来る。離れている時はメールと電話。クリスマスも誕生日もバレンタインもホワイトデーも、北海道と大阪を荷物が行き来した。
 俺は最初から美穂子にみっともない自分を飾り気なく見せた。成人する少し前に先輩から騙されて金を取られたこと、離婚して子供を一人で育てている十歳も年上の女性とつきあい、三年間同棲して別れたこと。
 美穂子も、若い頃に結婚し、夫の暴力で離婚した後一人暮らしをしていた。苦労するけど子供が欲しかったと言う。
「子供を守りながら、強いお母さんになれたかな、なんて考えるの」
「そうか。しっかりしてるんやね」
 遠距離恋愛も四年目に入ったころ、そろそろなんらかの結論につなげたい願望があった。どちらかが、どちらかの住む街に行かなければできないことだから、色んな問題があった。
 夏が苦手な美穂子を大阪に呼ぶのはかわいそうだし、かといって北海道の中でも特に寒さが厳しい十勝に俺が行く自信もない。北海道と大阪の中間辺りではどうかとも思ったが、少し突飛すぎた。そこで一度、互いの住む場所で実際に気候を体験しようということになり、まず俺が二月に十勝に行くことにした。
「大ちゃん、二月って一番寒い時期よ」
「あほやなあ、一番寒い時に行かなきゃ意味ないやんか」
 美穂子は、私、知らないわよと笑いながら電話を切った。けれど結果は美穂子の予想通りで、とかち帯広空港に降り立った俺は、あまりの寒さに一瞬動けなかった。迎えに来た美穂子への第一声は「息、できん」だった。
「今日はマイナス十九度だって。冷えたわね」
「風邪ひくわ、鼻の中、バリバリ言うてるわ」
 用心して厚手のジャケットや防寒下着などを準備したが追いつかない。更に雪が降っては溶け、それが凍ってできるアイスバーンの上を歩けなかった。滑り止めの金具がついた冬靴で、俺はすぐに転んだ。しかし美穂子は金具もない普通の靴でスイスイ歩き、スタッドレスタイヤの車を平気で運転している。
「バケモンやな、お前」
「何が?」
「スケートリンクの上、走ってるようなもんや。俺にはようできんわ」
「どこの教習所や自動車学校でも冬道運転の技術は念入りに教えてくれるわよ、慣れみたいなものかな。走らなきゃならないし」
「慣れるんか、こんな道」
 助手席に俺を乗せ、凍った道の上を走る美穂子は別世界の生き物のようだった。そして半年後、今度は美穂子が俺に同じようなことを言った。気温は三十五度、湿度が八十パーセントのある夏の日、関西空港についた途端、美穂子は気分が悪いと言った。
「なに、この暑さ。全身にベトベト何かがからみつくような感じね」
「サウナみたいやろ?」
「大ちゃん、平気なの?」
「慣れや。暑くて気分悪いなら冷房が効いてる場所しか行かれへんなあ。ユニバーサルスタジオジャパン、連れて行こう思うとったんやけどな。お前洋画好きやし」
「ひと休みしてから行けば大丈夫だと思う」
 ホテルにチェックインし、荷物を片づけてから出かけた。電車の中は涼しいが降りるとまた暑い。
「お前は何が見たいんや」
「そうね、バックドラフト,見たいな」
 会場前には列ができ、待ち時間を案内するプレートには三十分待ちと書いてある。
「三十分、ここで立っていられるか?」
「…ごめん、気持ち悪くて立っていられない」
 美穂子はヘナヘナと座り込んだ。結局、三泊四日の大阪滞在中、暑さと湿気にやられて神戸の異人館くらいしか行けなかった。
「ホントに暑さ、弱いんやね」
「弱いとか強いとかの問題じゃないわ。経験したことないんだもん、蒸し暑いのは」
「梅雨に比べたら、まだマシやけどな」
「これで? マシなの?」
「今年の冬に、もう一度北海道、行こか」
 関西空港で、俺は美穂子と数か月後に会う約束をした。淋しそうな顔で飛行機に乗り込む美穂子を見送る。青空を切り裂くような白い飛行機雲と、小さくなっていく機体を見ながら、俺はふと芽生えた小さな不安と戦っていた。
 俺が北海道に行くきっかけになったドラマでは、独特の方言があった。イントネーションも関東や関西とは明らかに違った。美穂子が話す北海道の様子も、ドラマの内容とは大きな差があった。
 暑いんでないかいとか、蒸すべさなどという語尾につく方言が美穂子にはない。リスや熊やキタキツネのことも話題にはならない。確かドラマの中では、庭先に熊が出て主人公が逃げ回るシーンがあった。キタキツネも、呼ぶとすぐに顔を出した。鹿やリスの姿もあった。
 もしかしたら俺に見せている美穂子の姿は偽りではないのか。俺の前で妙に気取っているのではないか。素の姿で俺と会ってはいないのではないか。いつも装っているのではないか。くだけた美穂子を俺は見ていないのではないか。
 俺は美穂子が無事に帯広に着いたと電話を寄越した時、思い切って聞いてみた。
「そういえば、前から気になってん。お前、方言って使わへんのやな」
「だって、方言なんかないんだもん」
「嘘言うなや、どこの土地にもあるやろ」
「だけど、普段私がこうして話している言葉が…うーん、もどかしいなあ。なんて説明したら大ちゃん、わかってくれるのかな」
「俺はなんも、小難しいこと言うとらん。土地の言葉で話してくれ、言うとるだけや」
「だから、今こうして話してる言葉が…」
「嘘や! 標準語やないか」
 美穂子が旅を終えて疲れているのはわかっているのに、なぜか俺はその夜、執拗に食いついた。それから数日、メールも電話もどことなくよそよそしくなった。回数も減った。そんな状態が一か月ほど続いたある日、電話で俺は静かに言った。
「心を開いてくれない女は淋しいだけや」
 翌日、俺は美穂子の電話番号を着信拒否した。拒否されていることに気付いた美穂子はメールを寄越したが、俺は開封せず放置した。
 
 二年後の春、会社に新入社員が四人入社した。人事課長の同僚が履歴書を確認しながら配属を検討している。
「おっ、この人、北海道か。電話受付やな」
 俺は「北海道」という言葉に反応した。
「なんで、北海道ってだけで? よく見てから決めたらええやん」
「北海道の人って訛りがないやろ。大手の通信販売会社は、電話オペレーターに北海道出身者を優先するんやて」
「…それ、ほんまか?」
「俺のじいさんが北海道出身者やからな。親父も子供のころは北海道にいたし。そう言うてたで」
「けど…」
「けど、なんや」
「ドラマでは北海道弁でしゃべってるやろ」
「北海道弁? どんな?」
「寒いんでないかいとか、暑いべさとか」
 彼は飲みかけのお茶を吹き出し、大笑いしながら言った。
「あんなん、脚色されてんのや。一部の地方やお年寄りは使うかもしれへんけどな。都市部ではまず単語以外、使わへん」
「単語?」
「あずましいとか、じょっぴんかるとか。かしがる、ばっちこなんてのも北海道弁やな。親父が今でも使うとるわ」
「熊とかキタキツネっちゅうのは?」
「熊? キツネ?」
「そうや、家の庭先に来るんちゃうか? 鹿やリスもいるやろ」
「あほか、お前。キツネやリスはともかく熊なんて基本的に山奥にいるもんや。どんなドラマ見たんや」
「家の前、熊が出て…」
「山の中の木の実でもなくならない限り、熊なんか人里まで降りてくることなんか、ないわ。お前ドラマの話を信用しすぎや」
 じゃ、あの時美穂子が言ったことは本当だったのか。
「方言って、なに?」
「いつもと同じ話し方してるだけよ」
「気取ってなんかいないわ、本当にみんなこういうしゃべり方なのよ」
「方言を使わないから心を開いてないなんて、そんなのないわ。私、大ちゃんに関西弁が嫌だって言ったことないじゃないの」
 
 会社を出て、携帯電話を取り出す。アドレスには着信拒否にした美穂子の電話番号がまだ残っている。俺は拒否を解除し、美穂子に電話を掛けようとして一瞬ためらった。
 俺からの着信で美穂子は出てくれるだろうか。あんなひどい捨て方をしたのに。
 しかし、あれから二年が過ぎた。美穂子が俺の番号を拒否していなければ電話はつながるはずだ。俺はとにかく謝りたかった。勝手な思い込みで誤解をし、美穂子を信じてあげられず、一方的に別れたことを詫びたかった。
 携帯で出なければ、家の電話にかけてでも謝ろう。そう決めてボタンを押した。
 呼び出し音が数回鳴る。思っていたより早く、美穂子が出た。
「大ちゃん?」
 昔と変わらない優しい声だ。
「あ、俺。久しぶり。すまんな、突然電話なんかして。元気やったか?」
「元気よ。でも、どうしたの?」
「あ、いや。元気なら…な。ええんやけど。どうしてる?」
「私ね、先月結婚したの」
「結婚?」
「うん、大ちゃんとお別れしたあとに仕事を変えてね。そこで知り合った人と。その人もバツイチなんだけど。大ちゃんは? 元気なの?」
「ああ、元気や。あの時はすまんかったな」
「いいのよ、大ちゃんとおつきあいできて楽しかったし、大阪まで出かけることができたのも、大ちゃんがいたからだもん」
「今度はちゃんと子供作ったらええんちゃうか?」
 美穂子は電話口でころころと笑いながら
「うん、そうね。そう思ってる」と言った。
 肝心なことはなにひとつ言えないままに俺は電話を切った。
 深いため息をついた途端、轟音が響いた。音のする方に視線を移すと、あの日とよく似た青空の中を、真っ白な飛行機が細い雲を作りながら北に向かって消えていった。

※多分8年くらい前かな?これ書いたのは…地元新聞社の公募小説で入選した作品です※


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