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彼の遺言

「先生、お願いがあるんですがね・・・」
回診中の私に、仲村隆一が話しかけた。彼は明日癌摘出手術を受ける患者である。
「どうしました?」
追従の看護師を次の病室に行かせてから聞いた。
「実は、これなんですが・・・」
隆一は財布から小さなカードを取り出した。
「アイバンク登録カード?」
「三十年前に他界した家内の父が全盲でしてね、目の不自由な方々の苦労は知ってるつもりです。死んでしまえば角膜は必要ないのだから、役立てて欲しいと」
「そうでしたか、で、私にお願いというのは?」
隆一は頭をかいて俯いた。
「照れ臭くてね、家族には言っとらんのですよ。それで万が一の時は先生に手続きをお願いしたいんです」
妻の父親の苦労を体で感じ、自分の死後、角膜を提供したい、こんな素晴らしい行為を何故?と一瞬思った。だが、彼の気持ちもわかる。自分の肉親ではなく妻の親の障害を目の当たりにして培われた誠意が、男にしてみると確かに照れ臭いのかもしれない。
「わかりました、万が一ですね」

隆一を初めて診たのは、屠蘇気分のまだ抜けない今年初めての診療日だった。
年末から急に食事が摂れなくなり近所の内科に行った。そこで、設備の整った病院での検査を勧められて私の勤務する総合病院の消化器科に来院したのである。
紹介状に添付された書類には、胃癌の可能性を強く疑う症状があること、59歳という年齢から既に転移している可能性があることなどが簡潔に書かれていた。
隆一は、検査だけですぐ帰れると思っていたらしく、入院を告げると、あっけにとられた顔をした。
「そんなに悪いんですか、今まで病気なんてしたことないんですがねぇ」
隆一は他人事のような顔で検査用の病衣に着替えた。

全ての検査が終了し、結果が出揃った。隆一が食事を摂れなくなった原因は、胃の出口をふさぐように発生していた癌であった。更に、その癌は胃から出来たものではなかった。
全身の骨のレントゲン写真にはいくつもの黒い点が点在していた。骨にできた腫瘍である。悪性の腺癌が臓器へ転移した、最悪のケースであった。
翌日、家族に同席してもらい、隆一の病状説明を行った。
白いテーブルをはさんで、レントゲン写真を広げ、病名は胃癌であること、転移がなければほぼ大丈夫だと話した。
「じゃ大丈夫なんですね」
隆一は笑顔で言った。
「お父さんは暢気ね」
彼は娘にたしなめられたが、それでも幾分安心したような顔で面談室を出て行った。
隆一に真実を話すか否かは、家族と相談してからのほうがいい。

帰宅する隆一の家族がエレベーター前にいた。私は看護師に彼等を呼んでもらった。
詰所の奥に応接セットがある。そこなら書棚の陰になり、隆一が廊下に出ても家族の姿は見えない。
「実は仲村さんの病状について、ご本人の前では話せないことがありまして・・・」
一瞬、緊張が走った。私は、隆一の癌は悪性の腺癌であることと、多臓器への転移の可能性が高いこと、たとえ転移がなくても骨に出来た腫瘍は治療不可能なことを早口で伝えた。「・・・それで、父はあとどのくらい・・・?」
彼の一人娘の美希が聞いた。
「もって半年ほどかと・・・」
「だって、先月まで元気に仕事してたのに・・・どうして父だけが・・・」
人目もはばからずなく美希。詰所の看護師たちはいたたまれなくなったのか、それぞれに理由を作って病棟に散らばった。
「ご相談なんですが、告知という問題も出てきます。残り少ない命であればお父さんの好きなことをさせてあげるとか・・・」
「父には言わないでくださいっ!」
涙に濡れた顔をあげ、美希が叫んだ。
「3人目の孫が出来て喜んでいたのに、言えない・・・絶対に言えない」
妻は呆けたように窓の外を見、二人の息子は、穴があくほどにレントゲン写真を見つめていた。
「じゃ隠しましょう。抗癌剤が劇的に効く人もいます。あきらめないでください」
涙でグシャグシャになった美希の顔を見ると、私はそれしか言えなかった。
10日後、隆一の癌摘出手術が行われた。無影燈の下、いつもの手順で開腹し、術野が広がる。途端にスタッフから溜息が漏れた。
「すごい転移ですねぇ」
第一助手の河合がつぶやいた。
「リンパからまわったからね」
「腺癌でしたね」
私は注意深く他の臓器も触診した。しかし、複数の臓器に癌特有の硬さを持つしこりがある。
「このままじゃ食事もできませんね」
「チューブ入れよう、食道から腸まで」
開腹し、チューブを挿入しただけの手術は1時間半で終わった。
私は、隆一に手術所要時間は4時間から5時間と言ってあったのを思い出した。
「佐川君、時計!」
手術室の主任である佐川看護師は、もうこんなことには慣れている、というような素振りで脚立を出し、壁掛け時計を2時間半進めた。

術後のシャワーを浴び、医局でコーヒーを飲みながら私は、隆一の開腹手術を思い浮かべた。
「外科医なんて因果な商売だな」
「どうしたんですか、突然・・・」
第一助手を務めた河合が聞く。
「開けたら全てわかる。切って取ってで治るなら何時間オペしたっていいさ、でも、・・・」
「ええ、悪性腺癌の怖さを思い知りましたよ。告知はこれからなんですか」
「術後説明もまだだ・・・家族は伏せてくれというが・・・」
「そりゃ、無理ですよ」
河合は乱暴にコーヒーカップを置いた。
白いブラインドから夕陽が射し込み、テーブルに鮮やかな縞模様を作っていた。私はインターホンで詰所を呼んだ。
「嶋だが仲村さんの家族を面談室に呼んでおいてくれるか」

面談室に入った。病院の中の一室だというのに、この部屋だけは一般住宅の居間のようだった。
「先生、随分早く手術が終わったようですが・・・」
「残念ですが既に肺と肝臓、膵臓に転移していて癌摘出は不可能でした。ただ、このままではお父さんは食物を摂れませんので食道から腸までチューブでつなぎました」
「そうですか・・・」
「本人に悟られないように架空の栄養指導などを設けて傷がふさがり次第退院ということにしましょうか」
「はい」
「何もできず、申し訳ありません」

回復室で佐川主任に隆一の様子を尋ねた。
「30分ほど前に目を覚まして4時間かってつぶやきましたよ」
架空の所要時間に安堵して再び眠りについたらしい。
隆一の鼻梁が頬に小さな影を作っていた。

翌日、隆一は偽りの術後説明と栄養指導を受けた。
腫瘍を全て取りきったと信じた隆一は、退院後の食事や生活の注意点を嬉々として手帳に書き写していた。
手術から半月後、隆一は退院した。

隆一は2週間毎に外来を訪れた。
「命拾いさせていただきました」
「昨年3人目の孫ができましてね」外来に来るたびに取り留めのない話をしていく隆一。
退院後は医師や栄養士の注意点をしっかり守っている様子が、短い会話からも感じられたが、2週間ごとに見る彼は確実に痩せていた。
4月中旬、隆一に貧血の症状が現われた。腫瘍に侵された骨に、血液を作り出す力はもうないのだ。
「貧血気味ですね、骨はまだ完全じゃないですからね」
隆一に悟られないように要点をぼかした。
輸血治療が最善で、通うのも大変だろうからと1週間ほどの入院を勧めた。
私の言葉を信じて疑わない隆一は、輸血承諾書を看護師から受け取り、入院の準備をするために帰宅した。

輸血治療は効果的だった。だが、それも一時的なものであった。
再入院から5日後、「血液の状態は良好です。明日退院してよろしいですよ」と告げた。
「そうですか、良かった。自分の家が一番ですからねぇ・・・。ところで嶋先生、例のお願い、頼みますよ」
「例の?」
「アイバンクですよ」
「ああ、わかってますよ。まだご家族には話してないんですか?」
「ええ、退院したら話したほうがいいですね」
隆一はテレホンカードを持って、ロビーの公衆電話に向かった。
その夜は当直だった。
深夜までテレビを見ていたが飽き、プレステで遊んだ。3時頃目が疲れて眠りについた。
明け方けたたましく電話が鳴った。
「嶋先生、仲村さんが呼吸停止状態です」
「なにっ!?」
私は白衣を掴み、病棟へ走った。走りながら白衣を着たが慌てていたのだろう、裏返しになっていた。処置室の前で白衣を直し、看護師に状況を確認した。

「巡回中の看護師が呼吸停止に気づき、処置したのですが駄目です。ご家族には電話しました」
今日の午後退院するはずだった隆一。それが今は手の施しようがない状態で私の前に横たわり、数々の蘇生機に取り囲まれ動かなかった。
家族が到着した。思いがけない夫の死に妻は泣き崩れ、息子の肩に埋もれた。二人の息子とその妻たち、中学生の2人の孫の頬にも涙が光る。
意外だったのは、病状説明の時、1番取り乱し泣き叫んだ長女の美希が毅然とし、親戚や葬儀会社への連絡などを淡々とこなしていたことだった。
骸となった隆一に一礼した時、彼の言葉を思い出した。
「嶋先生、例のお願い頼みます」隆一はまるで今日天に召されることを予期していたように私に念を押した。
「こんな時になんですが、ご主人のアイバンク登録をご存知でしたか」
妻は顔を上げた。
「いえ・・・知りません」
息子たちも怪訝な表情で私を見た。
「私は仲村さんから手続きを頼まれまして、登録カードをお預かりしております。角膜提供をするなら早急な手続きが必要です」
「・・だって、父さんあの世で目が見えなくなるしょ・・・」
妻は再び泣き崩れた。この様子では隆一がアイバンクに登録した理由も話せない。
重い空気から逃れるように、私は処置室を後にした。

“あの世で目がみえなくなる・・・”
その言葉が胸に響く。
医学的には有意義なことでも、家族には簡単に割り切れないのだろう。
了承しろというほうが無茶かもしれない。
本当は隆一の頼みをきいてあげたい。この病院なら電話1本で角膜移植の手術ができる。隆一の尊い遺志のおかげで、誰かが光を手中にすることができるのだ。
「でも、死後の角膜の行方をこんな風に合理的に考えられるのが医者なら、薄情と言われても仕方ないな」
火をつけたまま殆ど吸わなかった煙草が、灰皿で短くなっている。
煙草をもみ消したとき、医局のドアがノックされた。美希が立っていた。
「先生、お伺いしたいのですが・・・父はアイバンクのことを頼んだとき、私の祖父の話をしませんでしたか」
「あなたの?」
「はい。父はもしかしたら祖父の苦労を知っているからこそ登録したのではないかと思いまして」
私は、机の引き出しから隆一の登録カードを取り出した。
「ええ、その通りです。照れ臭くて奥さんには言えなかったようですが」
『・・・やっぱり・・・わかりました、私が家族を説得します』
「いえ、無理なさらなくていいんですよ、お母さんのおっしゃることもわかりますし。確かに角膜提供は素晴らしいし理由も納得できます、けれど・・・」
「先生、私も父と同じ理由でアイバンクに登録しているんです」
「あなたも・・・?」
「説得はやめます。ただ父の遺志は正確に伝えようと思います。
「わかりました。何かありましたらいつでもいらしてください」

1時間後、医局のドアが再びノックされた。そこには頬に涙の跡を残したままの美希が、笑顔で立っていた。


※地元新聞社主催の公募小説で入選した第二作目(だったと思う)の短編小説です。


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