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【読書感想】「橋本式国語勉強法」 橋本武

読了日:2012/11/27

名門私立灘中灘高で50年間国語教師をしていた著者が紹介する国語学習法の本。
現代文、古文、漢文など国語の授業で扱う各分野ごとに、どのように学んでいくのがよいのか、彼が授業で実践してきたノウハウを紹介。

出身大学が教育系だった、ということもあって、私の周囲には教員が多い。
皆、学生時代から教育に熱い気持ちをもっている人が多く、飲みの席で教育について語ることも多かったように思う。
当時は「どの教科が最も大事か」という今にして思えば馬鹿馬鹿しい議論を、酒を飲みながら繰り広げたこともあった。
私は国語科だったので「もちろん国語が一番だ!」と言っていたが、この本を読んで、その当時を思い出した。
なんというか、国語愛に溢れている感じ。
これを読んで、自分が思っていた「国語を学ぶ意味」は間違ってなかったな、と確認できた。

3年間かけて読み込んでいく授業

東大合格率も抜群に高い灘中灘高なので、塾のように受験テクをガッツリ教えてるのかな、と思ったけど、この先生の教えかたは真逆。
例えば現代文の授業は「銀の匙」という小説を中学三年間かけてじっくり読み込んでいく、というユニークなもの。
詳細はこの本に書いてあるが、すごくいい授業だし、「私も受けたい!」と思った。

ただ、実際、公立の学校でこの先生の授業を実践するのは難しい。
カリキュラム面はもちろん、生徒の質・親の質、教師の質など諸々の条件が揃わないとうまくできないだろう。

この先生のやり方は、私学で、「灘ブランド」で、「学習意識の高い子と親」だからこそ出来た、という気がする。
それにもちろん、先生自身の教材研究の質の高さや、教師としての人柄、品性、熱意があること前提で。

最適な学習方法の提示

私に大きな影響を与えてくれた中学校の国語教師は、この先生のやり方と少し似ている部分がある。
この本の著者にしても、中学時代の国語教師にしても、共通してるのは、都度、その授業でのノートの取り方や学習の仕方を説明してくれた、という点。

その先生の授業を、もっとも効果的に吸収できる方法を、先生自身がちゃんと提示してくれていた。
生徒は「このやり方でいいのかな?」など、方法に迷いを持たず、本来学ぶべき授業に打ち込める。
また、そういう方法論が確立されてる先生は、板書計画もできてるので、あとからノートを見返してもわかりやすい。

「学習法は自分自身で見つけるものだ」という声があるのも理解できるし、その意義もわかる。
でも、方法を模索する以前に「授業がつまらない」と思われたら元も子もない。
それに、自分なりの最適な学習法を自分でみつけられる人は、そもそも教師などいなくても自分で勉強できてしまう人なんだと思う。
教師には、大多数の生徒を一定のラインまで引き上げるという仕事もあるので、「効果的なやり方の提示」は効率的だし、一対多の教育現場においては非常に有用だと私は思う。

「なぜ学ぶのかを伝える」

私は、今現在、社会人に対してセミナーを提供している。
学校教育ではそれほど意識していなかったが、今、社会人教育に携わるうえでは、「何故学ぶのかを伝える」というのをすごく意識している。

成人教育では、
「これは何のためになるのか」
「どう役にたつのか」
とかいう目的部分を都度都度伝える必要がある。
この目的がぼやけると、何しにセミナー受けに来たのかわからない状態になってしまう。
目的が不明瞭で方法だけ伝えるセミナーをしてしまうと、セミナー終了後の評価も悪い。

学校の授業で、目的を明確に伝えるということがあったかというと、正直、思い出せない。

もちろん「受験のため」なんて色気のない言い方は論外だけど、教師が教師の言葉で、自分なりに気付いたり感じたりした「実生活に絡んだ学ぶ理由」というのを、授業の中で時々語ることは、とても大切で意味があることなのではないかと思う。
全員には響かないかもしれない。それでも、その言葉に共鳴して、やる気や学習意欲を見いだすことができる子もたくさんいるのではないかな、と思う。

現役教師じゃないけど、やっぱり教育ネタは好きだな。

ワタクシ的名文

では何が秀才であり凡才なのでしょうか。私は自分に忠実な生き方のできる人が秀才であり、自分を粗末に扱う人が凡才だと思っています。
(中略)
学業成績はビリの方でも、それが最善の努力によるものなら、その人は、その時自分がおかれた立場において、最善の努力ができるでしょう。
人間、普通の能力さえもっていれば、この努力によって自分を高めていくことができます。学業において効果の上がらなかった努力も、会社経営に素晴らしい効果をあげることができるかもしれません。
ですから、学業成績がよくても悪くても、安心もできなければ悲観するにも当たりません。自分をみつめ、自分を高めるための努力を忘れさえしなければ、あなたの前途は洋々として期して待つべきものがあるでしょう。
私たちの生活、精神生活も物質生活も、国語がなければなりたちません。ですから、国語は私たちの生活そのものだといえるでしょう。
読書のあとで読後感をまとめておくことは読書の定石です。それは現代文の場合でも古典の場合でも変わりありません。古典をただ口語訳のテキストに使うだけでは、あまりにも味気ない勉強です。
古典に興味の持てない原因が、こんなところにあるのかもしれません。古典というものを、こういう視野の狭い見方から解放して、一篇の文学作品として読み味わってみるならば、そこには時代を超越した心と心のつながりを感じとることができるはずです。
(中略)
ある本を読んだら、誰でも何事かを受け止めることができます。その受け止めたことをが文章として表明できなければ、価値は乏しいでしょう。それが正しいか間違っているかは、第二の段階で考えたらよいことです。自分の意見を確立して発表できるようにするのが、勉強の第一の要件であります。

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