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翼よ、あれが巴里の灯だ!

今日、5月21日は、「リンドバーグ翼の日」
アメリカの飛行士チャールズ・オーガスタス・リンドバーグが、初の単独大西洋無着陸飛行を成功させ、パリに到着した日です。

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ

1902年、アメリが合衆国のミシガン州デトロイトで、スウェーデン系移民の子として生まれました。
翌年にライト兄弟が、ライトフライヤー号によって有人動力飛行に成功する

1年前のことです。
リンドバーグの少年期は、飛行機が生まれ、世界に広まっていった時期でもあります。
今までにない高速で自在に空を舞う乗り物に、人々が魅了されていきました。リンドバーグも、21歳でパイロットと整備士としての訓練に参加するなど、飛行機との関わりを強めていきます。
また、同時に第一次世界大戦(1914年~1918年)が発生したことで、飛行機の軍事的な有用性が明らかになり、その技術が急速に普及・発展します。

そんな中、ニューヨークのホテル経営者レイモンド・オルティーグにより、ある賞が作られます。
その名も「オルティーグ賞」
その条件は、

ニューヨーク市からパリまで、またはその逆のコース(およそ6000㎞)を無着陸で飛ぶこと

でした。
用意された賞金は25000ドル
1920年当時の25000ドルなので、現在の価値に直すと320000ドル(およそ3億5千万円)くらい。

賞金と名声をと求めて多くのパイロットが名乗りを上げますが、成功する者は現れず、死者も出る事態に。
大西洋上を横断するわけですから、失敗は高い確率で死を意味します。

リンドバーグは、この挑戦を成功させるために、ある奇策に打って出ます。
それは「パイロット1人、単発(エンジン1基)機での飛行」。
長距離飛行では、大型の3発(エンジン3基)機で、複数人の操縦士が搭乗し、交代で操縦を担当することが当然でした。
しかしリンドバーグは、たった1人で小型機の操縦桿を握り、大西洋を横断する決意をしたのです。
その決断には、大きく3つの理由がありました。

・人数が少なければ、重量はその分軽くなる(離着陸が安全・燃費が良い)
・大型の飛行機を調達するだけの資金がない
・複数人パイロットがいると、揉め事が起きやすい

リンドバーグなりに考えた結果の決断だったようです。

彼が用意した飛行機はライアン・エアラインズ社製の「ライアンNYP-1」型。
リンドバーグの要望を聞きながら、同社の設計士、ドナルド・A・ホールが作り上げた機体です。

まずは燃料タンクのアップグレード。
燃料搭載量1700リットルをまで増やしました。
ちなみに、現在運用されている標準的なセスナ機の燃料搭載量は200リットル程度ですから、実に8.5倍もの大きさの燃料タンクを搭載したことになります。
さらに、エンジンの後ろに燃料タンクを搭載しているため、前は全く見えない(!)仕様。
前方確認のためには、側面に突き出した潜望鏡のようなものを使うか、操縦席から横に顔を出すしかありませんでした。
また、揚力を得るため翼を長くするなどの改造を施した結果、バランスが悪く、操縦には高い技量が必要な機体になりました。

リンドバーグが考え抜き、ホールが設計して完成したその機体の名は「スピリット・オブ・セントルイス」

現在も、スミソニアン博物館に保管・展示されています。

彼は、さらに極限まで重量を減らすため、ほとんどの機材(無線機や六分儀)や救命具(パラシュートなど)を載せず、水とサンドイッチだけを手に飛び立ちます。

1927年5月20日。その日は何と雨が降っていました。
滑る滑走路とバランスの悪い機体は、ニューヨーク・ロングアイランドのルーズベルト飛行場を離陸しようとしますが、なかなかスピードが上がりません。
ギリギリのタイミングで離陸した機体は、電話線をかすめるようにして上昇、大西洋横断に挑むことになりました。

実はリンドバーグ、前夜は準備のため眠れていませんでした。その状態でスタートしたフライトは、寒さと疲労感、そして霧で視界がきかない不安感との戦いでした。そしてそのおよそ33時間後、フランス・パリのル・ブルジェ空港に彼は降り立つことになります。

降り立ったリンドバーグを待っていたのは、空港の内外を埋め尽くす群衆でした。
その数は10万人とも言われています。
操縦席から引っ張り出されたリンドバーグは、30分間の間胴上げされ続けたとか。
その偉業は、日本でも大きく報道されました。

ちなみに、彼が言ったとされる最初の言葉は

「誰か英語を話せる人はいませんか?(この後英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねる)」であるという説と、「トイレはどこですか?」という説があります。

彼の胴上げが30分続いたとすれば、「トイレはどこですか?」という言葉が切なすぎますね(笑)

ちなみに彼は、パリに着いたという確信がなかったと言われています。
つまり、上空で
「翼よ、あれが巴里の灯だ!」
と叫んだというのはちょっと…ん?…という感じです。
実はこの言葉は、日本にしか存在しません。彼の自伝 『The Spirit of St. Louis』の和訳題で、インパクトを求めた訳者が『翼よ、あれが巴里の灯だ』というコピーを考え、それがいつの間にかリンドバーグ自身の言葉として拡散してしまったようです。


さて、彼の大きな成功を支えたのは、「決断力」「勇気」でした。
彼の言葉にもそれがよく表れています。

全く危険が無いところで生きてゆくことを望む男がいるだろうか?
私は馬鹿げた偶然に賭けるつもりは無いが
何かに挑戦することなく成し遂げられることがあるとも思わない。

彼はリスクを恐れず(しかし無謀ではない)挑戦することを恐れませんでした。

完全無欠の好天候の報告なんて待っていられない。
今こそチャンスだ。よし、明け方に飛び出そう!

彼は、決断します。そして決断したらすぐに行動を起こすのです。
そして、

勇気が必要なのは、打撃を受けた瞬間ではなく、正気と信念、安全に立ち戻るための長い上り坂においてである。

彼は、勇気とは感情的に奮い立つものではなく、失敗を糧とし、立ち直り、再び挑む決意と覚悟である、と述べています。

リンドバーグ翼の日、彼の決断力や勇気に思いを馳せ、人生について考える機会にしてみてはいかがでしょうか?


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