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『命売ります』

部屋のアネモネがぐったりしていて、ふと花瓶を見たら水が空っぽになっていた。先日一緒に入れたコデマリがぐんぐん水を吸うかららしい。「すまんすまん。」と心のなかで詫びながら水を入れた。機嫌を直して上を向いたアネモネと手遅れだったのかしなびたままのアネモネと一緒に部屋で過ごしている。本当はコデマリと一緒に黒い器に生けようと思っていたアネモネはガラスの瓶の中で好き勝手に頸を伸ばしていて、私の怠惰の結果である、と思う。

ごきげんよう、もくれんです。

積ん読という言葉は日本語独特のものらしいが、私には様々な「積ん読」的なことがある。アネモネのように買ったのに生けない、もそうだし、食料品を買ったものの料理しないとかもある。買うことに満足してしまって使わないことが多い。便箋もたくさん持ってるな。ペンパルがいないからってのもあるが。本も自己啓発ばっかり買い漁ったけど、ちっとも読まない。書くのは好きだが読むのは嫌いだ。前よりも言葉の定着が悪くなってバカになってる自分に気づくのが嫌だというのもあるし、昔から本を読むのは苦手だ。人には読書家だと思われがちなのだが、実はそんなことはなく、私の語彙力はほぼ母の口語をメモして覚えたに過ぎない。門前の小僧習わぬ経を読むというやつだ。母の使う文語調の口語をせっせとiphoneにメモっては出し、メモっては出ししている。あと友達と話した時にもらった言葉とか。本歌取りで生きてるようなもんである。

昨日、久しぶりに往復小一時間ほど電車に乗る機会があったので(しかも乗り換えがない)スマホばかり見ているのもアレだから、と思って久方ぶりに本棚の積ん読を出してきた。いずれにしても薄い本しか読めないし、重い本は持ち歩きたくないので文庫にしようと思い、いつから積ん読してるかもわからない、三島由紀夫の『命売ります』にした。(もしかしたら随分前にバーで借りたやつじゃないかなと思ってヒヤヒヤしている。)

三島由紀夫はなぜかこういう短編小説はいくつか読んだことがあり(逆にメジャーどころは読んだことない。)気取った文章も嫌いじゃない。読みやすくサクサク読める本だった。内容は、星新一のショートショートを思わせる風刺が効いていて「ある日、ふと自分の命を売ろうと決めた男が何人かの客に自分の命を売るも死に損なう」話なのだが、いきなり死ぬかと決めてみる感じとかわかるなぁと思った。特に厭世的になったわけでもなく、カミュの『異邦人』みたいに理由もなくふと思いついたように、そうなる。で、命を売る主人公は自分の命をなんでもないように思っている一方で、セックスはするもんだからアンビバレントで非常に人間臭い。

死にたくてもヤリたいし、死ぬと決めてもヤることは別に矛盾してないんだなと思う。しかも「死ぬかもしれないからヤっておこう!」とかじゃなく、自然と気の向くままに「命を売ろう」と決めたり「ヤろう」と決めたりするのは、とても野性味があって良い。自殺しよう、じゃなくて、売るっていうのもミソだな。ところで、三島由紀夫が同性愛者だったということを前提にすると、彼が女性にソソられる男性主人公を描いているのはなんだか不思議な気もして、まぁでも女がボーイズラブを書くこともあるんだし小説とはそもそも「私」を投影したファンタジー(創作)だもんなと思った。

小説であるからにして、かくして主人公の命は何人もの人に買われていくのだが(そうじゃないと話が進まない)売れれば売れるほど客には「死んでほしい」と思われていることと同義であって、非常に面白い構造になっている。売れ筋の死に筋。主人公は広告代理店を退職して蟄居し、命を売り出す新聞広告を出すのだが、労働は「命を売る」ことなんだと気付かされた。(今コレを書いてて気づいた。)

その人の人生をどう使うかを金と交換して会社に委ねているわけだから。主人公は会社に売っていた命を、自分で自由にするために退職し、自ら選んだ客に売り出す。(よって、客によっては売らないことがある。)自分の命を買う客については双方合意でなりたっているので、これは命を差し出しているのではなく、個人事業主になったんだなと思った。

主人公も客も悲壮感なく命をぽんぽんと売り買いしていくのだが、それは我々の日常とさして変わらぬ光景だった、実のところ。三島作品に出てくる気取った不幸せな人々は、金とプライドで拭いきれないあたたかな虚ろを抱いているんだなと思う。まるでわかりやすい抽象画のように。

加藤くんも帯を書いていた。


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