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G馬場のプロレス・三沢光晴のプロレス・ノアのプロレス【1/29追記しました!】

ツイッターのフォロワーさんから教えて頂いたこちらの記事。文量は多いですが、とても興味深い内容です。

今回はこちらの記事を読んで感じた「三沢光晴のプロレスとは?」「四天王プロレスとは?」「ノアのプロレスとは?」について、自分の中で再定義したいと思いました。


※前回からの更新箇所は4.「ノアのプロレスとは?」以降です。



1.「G馬場のプロレスとは?」

諸々の資料を読み漁ると、G馬場の哲学として「不格好なプロレスをするな」「相手の鍛えているところを攻撃しろ」「きちんと胸を張って相手の攻撃を受けろ」といったフレーズが出てきます。「G馬場のプロレス」とは簡潔に言えば「確かな技術と肉体を持つ選手が正面からぶつかり合うプロレス」だと考えられます。多少の変拍子はあっても基本的には正面からのぶつかり合い。そうなると自ずと「大型選手同士のぶつかり合い」が至上のものとなります。なぜなら同じことをするなら大型選手がやるほうが圧倒的に映えるし、迫力が違います。190cm同士のぶつかり合いと、170cm同士のぶつかり合いではどちらに軍配が上がるか。それは自明の理です。そしてその哲学で言えば「大型選手が小型選手に負ける」という状況は発生しません(あくまでもイレギュラーは場合は除く)。正面からのぶつかり合いで、大型選手が小型選手に負けてしまっては、そこにリアリティがありません。

G馬場が外国人選手や大型選手を優遇したのは、こうした哲学があったからこそでしょう。その意味では「G馬場のプロレス」の最高傑作は鶴龍対決だと言えます。直弟子の大型選手同士の激しいぶつかり合い。さらにそこに感情面でのせめぎ合いも含まれますしね。


2.「三沢光晴のプロレス」


一方の「三沢光晴のプロレス」。これは「確かな技術」「相手の攻撃を正面からすべて受ける」「エグい打撃と意外性のある技」といったフレーズで表現できます。攻撃面がG馬場のプロレスと微妙に異なっていますね。正面からシンプルなぶつかり合いではなく、「相手の急所に近い箇所への打撃や厳しい角度の投げ技」「トップロープやエプロンを用いた想像を超える技」などが攻撃面の特徴です。三沢がこうした攻撃面の哲学を持ったことを想像すると、そこには「大型選手ではない自分がトップに立つためには、G馬場の哲学に沿っていては無理だ」と考えたからでしょう。先程も書きましたが、技術や肉体が同等であれば、大型選手が小型選手に勝つという状況にはリアリティがありません。そうした状況を覆すための手段として、三沢は「G馬場のプロレス」から攻撃面をアレンジしたのかもしれません。


もちろんG馬場が哲学と異なる試合を簡単に受け入れるわけではありません。しかしジャンボ鶴田やスタン・ハンセンとの死闘がファンの熱狂を生み集客に繋がれば、それを無視することはできません。さらにいくら攻撃面の哲学が異なっていても「不格好なプロレスではない」「相手の技はきちんと正面から受ける」「確かな技術と肉体がある」という要素はクリアしていたので、そうした面でもG馬場が「三沢光晴のプロレス」を認めていたのかもしれません。

余談ですが、「使っている技は派手でも、その目的は意外性」と捉えると、三沢が小川良成を重用するようになったことが腑に落ちます。三沢も小川もアプローチが異なるだけで、試合の哲学としては非情に近いのだと思います。つまり試合のインパクトをどこでとるのか?というところですね。三沢はそれを高度な技で、小川は瞬間的な丸め込みで、それを表現しようとした。そして系統としてはそこに丸藤正道も入るように思います。


3.「四天王プロレスとは?」


こうした哲学を持って、全日本のトップに君臨した三沢。その三沢に勝つために奮闘したのが、川田利明、小橋健太(あえて健太です)、田上明の3人です。後に四天王プロレスを形成する3人ですね。四天王プロレスとはずばり「三沢崩し」です。三沢崩しを目的とて、3人それぞれが異なるアプローチをとったことだと私は考えます。

川田利明は三沢よりもやや小柄です。「三沢光晴のプロレス」を崩すために、「よりエグい打撃」を用い、更には三沢の自分に対する嫌悪感を100%引き出すという手法を用いました。元来小川と近い気質である職人肌の三沢は、あまり試合で感情を表に出しません。そこに感情面のせめぎあいという土俵を用意したのが、川田による三沢崩し。


小橋は「三沢光晴のプロレス」に沿った上で、それを更に越えようとしました。三沢小橋戦というと、両者のハイレベルな攻防が頭に浮かびます。お互いの技術を引き出し合う攻防ですね。さらに防御面では「三沢の攻撃に耐える」という己の感情面をさらけ出しました。これは「三沢を苛つかせて感情面を引き出した川田」と逆方向のアプローチだといえます。感情を出すのはあくまでも小橋であって三沢ではないというのがみそ。同じ土俵に乗りつつ自分の武器で三沢崩しを狙った小橋。


田上は川田や小橋と異なり感情面はあまり表に出さず、基本的には三沢の土俵に乗っての三沢崩しを狙いました。ただし三沢と同じことをやりつつも、体格は三沢より一回り大きいのが田上。三沢に近い動きをよりダイナミックに表現したのが田上だと思います。田上は系統としては「G馬場のプロレス」を継承するのはずでしたが、「三沢のプロレス」に対応できる技術があったため、結果的に三沢よりの方向で試合をすることができました。瞬間的な田上火山爆発が「G馬場のプロレス」の名残かもしれません。


四天王は秋山準を含めて5強と称されることがあります。しかし自伝などを読む限り、秋山は三沢崩しを狙っていたようには感じられませんでした。むしろ相手にしたのは小橋であり、それが初期ノアのテーマであった「小橋崩し」につながっていくと思います。なので「三沢崩し」が鍵ではない以上、四天王と5強は別の枠組みかなと思ってます。田上も決して上昇志向が高かったわけではなかったですが、それこそ川田と組んで「打倒三沢」を狙ったわけで、やはり四天王に加えるべきだと思います。



4.「ノアのプロレスとは?」

「ノアは四天王プロレスの焼き直しをしていた」という意見もあります。しかしこれは少し違いますね。先程「四天王プロレスとは三沢崩しである」と述べました。言い換えれば「三沢崩しの要素が無ければ四天王プロレスではない」と言うこともできます。実はノアの初期、三沢はすでに団体の中心ではありませんでした。むしろ小橋と秋山のエース争いが軸であり、三沢は少し中心からは外れていました。確かにGHCの初代王者は三沢ですし、そこからエースとして活躍しましたが、これは「小橋の長期欠場」という要因からのことでしょう。あくまでも想像ですが、「小橋の戻ってくる場所を守る」。そのための三沢の戴冠だったのかもしれません。


エースが三沢ではない以上、ノアでは「三沢崩し」の要素が薄く、「四天王プロレス」とは言えない状態でした。それではノアのエースは誰だったか?それはやはり小橋建太でしょう。つまりノアのプロレスとは「小橋建太のプロレス」だったのではないでしょうか?

小橋のプロレス。それは先程述べたように「三沢のプロレス」をベースにしながら、攻撃に耐える姿に感情を込めるという形です。高い技術に加え、やられる姿に感情を込めることで観客を惹き付ける。これが完成したのが絶対王者時代ですね。一旦は力皇の規格外のパワー(ある意味G馬場のプロレス)により小橋は陥落しましたが、小橋的なプロレスはノアに脈々と受け継がれていきました。今でいうと潮崎や杉浦がまさにそうですね。


しかし三沢プロレスに対する闘争→四天王プロレスという図式が発生した反面、小橋プロレスに対する闘争というものは発生しませんでした。それは結果論ですが、「リーグ戦不在」という要素が関係しています。リーグ戦が無い以上、団体の闘争はベルトに集中します。しかし小橋が強ければ強いほど王座陥落の機会は減ります。ここにリーグ戦があれば「ベルトは移動しないが、リーグ戦で小橋に勝つ」という流れも作れます。また「リーグ戦で負けた小橋がタイトルマッチでリベンジ」という流れもありますね。実際三沢もチャンピオンカーニバル制覇は三冠奪取数年後です。ベルトとリーグ戦という2つの要素で争うことで戦いが深化し、四天王プロレスのような闘争に発展します。


こうした要因もあり、ノアでは「小橋崩し」が闘争までは至りませんでした。もちろん小橋の癌による長期欠場という部分も大きいですが…。ノアのエースは小橋であり、小橋崩しが行われなかった。それは小橋欠場以降に王者になった三沢を、森嶋が圧倒してもエースになれなかったことからも理解できると思います。小橋を倒さずしてエースになりえない。この呪縛がノアを中期以降苦しめることになりました…。それでは小橋崩しは誰かが成し遂げたのか?その男の名前は…

※また続きます。




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