見出し画像

子持ち様

先日、赤ちゃんを抱いて自宅マンションのエレベーターを待っていると、知り合いのおばあさんに遭遇した。
おばあさんは「もうこんなに大きくなったのね」と赤ちゃんに目を細めたあと、そうそう、と付け足した。
「上のお姉ちゃんは、何歳?」
五歳ですというと、まだ五歳なのに、達者よね、とおばあさん。
「パパに(対してお喋りが)、すごいじゃない」

そうなんですよもう達者で、と応じておばあさんと別れ、家に帰って、頭の中でおばあさんの言葉を反芻した。
あれはどういう意味だったのだろう。
きっと、私の知らないところでうちの娘がパパといる場面を目撃したに違いない。夫に確認すると、特に会話をした記憶はないらしい。

たしかにうちの娘は口が達者だ。声も大きい。同じことを何度も言うし、何度も要求する。癇癪だってある。
それは、どんな場面だったのだろう。
おばあさんの言葉は嫌味だろうか。
なんとなく嫌な気持ちだけが胸に膨らんで、私は頭を振った。どうでもいいよそんなこと。
しかし、それでも、似たような感覚というものは少しずつ、埃が溜まるみたいに溜まっていくものだ。

娘には発達の凹凸がある。
これから社会に出ていくにあたって、彼女の特性を理解し、受け止めてくれる人ばかりではないだろう。
つまり今回のような件は、これからいくらでも出てくるのだ。そのことに気がついたとき、私は親というものの険しい道のりの一端を展望した気がした。

「ああ、もう。また〇〇さんのおばあちゃんに言われちゃった。きっと嫌味なんだわ。そりゃそうだよねうちの娘うるさいもん……」
といって、娘への躾に必死になるか
「嫌味かどうかなんてどうでもいいや。分からない人には分からないし。娘は最善を尽くしているんだし」
と考えて、気にしないようにするか
程度の差はあれどだいたいどちらかの道に、親の道は分かれている。

社会的には、子どもの躾に向かっていくのが一番望ましいのだろう。迷惑な子どものいない、完璧で美しい世界。少なくとも親は子どもを負い目に感じていると、社会全体としての雰囲気も良くなります。ってな。

しかしそれでは、娘の味方は?


つい先日、Xを眺めていたら「子持ち様が子どもの体調不良などで業務を投げてくるから本当にウンザリ」みたいな投稿を見かけた。引用も見た。賛否両論、どちらの立場の意見も分かる。分かるからこそ、着地点が見つからない。
悪いのは子持ち様か? 余裕のないお一人様か? 会社か? 社会か?
悪者は特定できない。

けれども、足元で二手に分かれた親道を眺めている今の私には、「子持ち様」がなぜ「子持ち様」であるのかだけは分かる気がする。

「子どもは悪くない」
白い目で見られても、誹りを受けても、肩身の狭い思いをしても、ふてぶてしいと言われようとも。親だけは歯を食いしばって言い続けなくちゃならないからだ。
うちの子どもは悪くない、と。
親だけは、「すぐに駆けつけるからね」「大丈夫」「あなたが最優先なのよ」と言ってやりたいからだ。
それが愛ではなければ何だ。


それとも、あれか?
「また発熱したの? あーあ最悪、また同僚に陰口たたかれる」
「あなたが風邪ひいたせいで、ママ会社から白い目で見られてるんだからね」
「もう休めないのに、あなたのせい。全部あなたが病気になったせい」
「ちゃんとしてよ」

仕事に穴をあける罪悪感に苛まれ、勤め先で平身低頭し、罪悪感が高じて子どもに当たり散らし、たとえ当たり散らさなくても子どもに罪悪感は伝播し、子どもの心から、唯一の味方であるはずのママを奪ってしまえば、ママは「子持ち様」と言われなくて済むのか。
だとしたら傑作。
おめでとう今度こそ子どもはひとりっきりです。


だから。
あの時おばあさんの言葉が気になってしまった私には、たとえ「子持ち様」と揶揄されても、子らの代わりにそれらの矢を受けて立つ「子持ち様」はどうしてもかっこよく映ってしまうのだ。
我が子のために、私はそんなふうに強くいられるだろうか。犠牲になれるだろうか。
彼らは傷つきながら、しかし子どもに気取られないように、どれほどの矢を黙って自分でぬき続けてきたのだろう。

それはまるで牛若を守る弁慶の姿のようだが、いつか本当の弁慶のように、矢が刺さりすぎてばったり倒れてしまうのではないかと思うと胸が痛い。
弁慶は牛若の最後の砦、子持ち様は子どもの最後の砦なのだから。

いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!