「察しが良いよね」ハラスメント
1.ほうれん草のバトン
いつかの金曜日、私は用事のついでにスーパーへ寄り、ほうれん草を買った。
そして土曜日。
夫や娘に先に起きてもらい、私だけゆっくり起きて冷蔵庫を開けると、そこには茹でたほうれん草の茎部分だけが、タッパに入っていた。
もちろんそれは夫に尋ねるまでもなく、夫が家事のついでにほうれん草を茹で、娘の離乳食として葉の部分を刻み冷凍したあとの、哀れな残り部分である。
そして私は、自分の朝ごはんを支度するついでに、そのしんなりした茎に胡麻と調味料を混ぜ、和え物にした。
そんな些細な連携プレー。
別にお互い、何を報告したわけでも、頼んだわけでもない。
些細だけれど、なかなかのチームワークだ、と思った。
2.察したからではない
これが阿吽の呼吸というやつか。
とは、思うけれど、この阿吽の呼吸はお互いに「察して」完成するものではない。断じてない。
これは単に、「ほうれん草を買ってきて、娘の離乳食を作り、残りを我々の飯と化す」という作業を、多くのやり取りの中で互いに幾度となく繰り返した結果でしかない。
このほうれん草は今後、私がほうれん草のナムルにドハマリして、そのために買ってくることがあるかも知れない。
茹でられ、タッパに入れられたほうれん草の茎は、夫が自分の卵焼きに入れるつもりで置いておくことも、今後あるかも知れない。
その時、我々はまた、互いにそういう報告をするだろう。
思い込みは厳禁だ。日々、互いの情報をアップデートしてこそ、協働は実現する。
決してお互いの「察しがいい」からではない。
4.察してちゃん
「察する」というのは、ファンタジーだ。思い込みであり、想像でしかない。
「察しがいい」というのは、何も言わなくても分かってくれる、ということではない。それは大して分かっていない。
そんなの、必要なコミュニケーションを行った上で、更に「察する」方が、分かっているに決まっている。
1+1が2であるのと同じくらい、自明だ。
そしてだいたいが、「何も言わなくてもわかって欲しい」「察して欲しい」という人に限って、「Aと察して欲しい」というアピールをするくせに、「あなたがやってほしそうにするから、したのだ」というと「自分はAをしてほしいと思っていない。むしろBだった」なんて言い出す。
そう、自分は「言ってない」わけだから、言葉に責任を取らなくて良いのだ。
で、それを言われた側は、「察してちゃんかよ、ええかげんにせえよ、このババタレが」と、そこでリングを降りてしまえば事態は加速しないが、「察しの良い人間でいたい」「自分の察しが悪かったのだ」なーんて思って「察してあげ」だすと、もうドツボの悪循環だ。
「察してちゃん」と「察してあげるちゃん」の完成だ。
お互いに、理想と恩の押し付け合いが始まる。
5.真面目な話しちゃった
とまあ、何でこんな真面目な話をしちゃったかというと、友人が彼氏に「察しが良いよね」という「察しろハラスメント」を受けていて、憤慨しちゃったからなのです。
あとほうれん草のせい。
人は皆、誰かに「分かってもらいたい」生き物だ。
でもそれは、「互いに別々の人間だから、全く同じに分かることは出来ない」という前提があってこそである。
その前提を受け止めきらず、「分かっていてほしい」という幻想を相手に押し付けるタイプからは、距離を置いたほうが良い。
あるいははっきり、境界を引いたほうが良い。
「私とあなたは別の人間ですよ。寂しいけどね」と。
いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!