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【京都】広沢池秋の月

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『都名所之内

観月の池として知られる 広沢ひろさわのいけ です。遍照寺山へんじょうじさんにかかる有明ありあけの月(下弦の三日月)が美しい一枚です。

広沢池は京の北西に位置します。

この池は、永祚元年(989年)に 広沢山遍照寺へんじょうじが建てられた際に、本堂の庭池として造成されたもので、遍照寺へんしょうじのいけとも呼ばれます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『聖蹟圖志

この地図では左上に見える大きな池が 広沢池ひろさわのいけ です。

「寛朝僧正所作  一名遍照寺 廣澤池」

遍照寺を創建したのは、成田山なりたさん新勝寺しんしょうじ(千葉県成田市)の開山で知られる 寛朝かんちょう 僧正そうじょうです。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『成田山余光
開山寛朝大僧正尊像

平安時代中期、延喜十六年(916年)に敦実あつみ親王しんのうの子として生まれ、十才の時に祖父の宇多法皇のもとで出家します。遍照寺を開山したのは七十三才の時、円融天皇の勅を受けてのことでした。

ちなみに「遍照へんじょう」とは、あたりをくまなく照らすという意味で、特に、仏の法身ほっしんの光明があまねく世界を照らすことをいいます。

「遍照寺山」

寛朝僧正が亡くなった後は衰退した遍照寺ですが、創建当時は観音堂のある島に橋がかかり、多宝塔たほうとう釣殿つりどのを備えた大きな寺院だったそうです。

江戸時代中期に出版された『都名所図会』には「廣澤池遍照寺旧跡」として記されています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『都名所図会6巻[4]

遍照寺へんじやうじ山は此にいぬいに向ふたる山也。いにしへ 寛朝くわんてう 僧正そうじやう のひらき給ひし真言興隆の。遍照寺の旧跡きうせきは山のふもとにあり。本そんは十一めん観世音かんぜをん赤不動あかふどうとも弘法こうぼう大師のさく也。今此の裏村うらむら草庵さうあんに安置す。

- 座禅石ざぜんせき
遍照寺山の半腹はんぷくにあり。寛朝くわんてう座禅ざぜんし給ふ所也。
- 登天松とうてんのまつ
同じき山のいたゞきにあり。池の汀より見ゆる。寛朝くわんてう、此松のこずへより天にのぼりしといふ。
観音島くわんをんしま
池のいぬゐにあり、いにしへ遍照寺へんしやうじより此島にはしありて観音堂くわんをんだうあり。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『都名所図会6巻[4]

- ちごのやしろ
いけの西道のかたわらにあり。寛朝くわんてう僧正そうじやうつねかたわらにてつかへし児童じどうあり。寛朝登天ておうてんのち悲悵ひちやうしてついに此池水になげす。其れいまつるなり。
- ちごいし
座禅ざぜんせきしたにある小石なり。寛朝、座禅ざぜんのとき、児童じどう此処にかうべをたれてぬふるとなん。
- 釣殿つりどの
ちごのやしろのかたわら、池のみぎはにあり。児童じどうれい、此所にあらわれしとぞ。
- 釣殿つりどのはし
池のひがしのはしをいふ。

🌙

今日の月歳げつれいは25.4。貞信が描いたのと同じ形の三日月があがります。古き平安の時代に思いをはせながら、夜明け前の空を見上げてみたいと思います。

「愛宕山」「いけ浦」

住む人もなき山里の 秋の夜は    
    月の光りも 寂しかりけり



参考:国立国会図書館デジタルコレクション『京都府管内地誌 山城之部』『三府名所独案内図会3京都之部下』『京都名所案内図会 和1冊(上)
広沢山遍照寺Webサイト「遍照寺について」Wikipedia「広沢池」「寛朝
国立天文台Webサイト「暦計算室

筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖