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【京都】高台寺秋景

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『都名所之内

はぎの花が美しく咲く、秋の高台寺こうだいじです。

鷲峰山じゅぶさん 高台寺こうだいじは 臨済宗建仁寺派のお寺で、慶長十一年(1605年)に豊臣秀吉の正室 北政所きたのまんどころ おね(寧々ねね)によって建立されました。高台寺という名前は、おねの出家後の名前である 高台院こうだいいん湖月尼こげつにに由来します。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『ほまれ 花の巻

おねは、天文十八年(1549年)に尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)に生まれました。浅野長勝の養女となり、永禄四年(1561年)八月、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と結婚しました。

明治時代に出版された子ども向けの本に、おねと秀吉と犬千代(後の前田利家)のエピソードが書かれているので、よかったら読んでみてくださいね。
→ 『ほまれ 花の巻(北政所)』👀


つゆち つゆえにし かな
浪速なにわのことも ゆめのまたゆめ

慶長三年(1598年)に秀吉が亡くなると、翌年おねは大阪城を出て京都新城(太閤御屋敷)へと移ります。そして、慶長十年(1605年)秀吉と実母である朝日局あさひのつぼねを弔うため高台寺を建立し、その門前に住まいを移しました。

祇園社の表参道の東に位置する高台寺

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『洛中絵図・洛外絵図

高台寺があるこの地は、元々は 承和四年(837年)に建立された雲居寺うんごじがありました。東大寺の大仏と並び称される阿弥陀仏像があったそうです。その後、室町時代に細川満元の邸宅(岩栖院がんすいん)となり、高台寺へと変遷します。

大正時代に出版された『京都名勝誌』から由来を引用してみます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『京都名勝誌

高台寺
東大谷の南二町の所にあり、鷲峰山じゆほうざん、又は岩清いわきよ不動山ふどうざんといふ。往古おうこ 雲居寺うんきよじといふがありし旧跡にして、其後そのご 細川ほそかわ満元みつもとこの地に岩栖院がんすいんを建立せしが、慶長十一年豊臣秀吉の夫人 高台院こうだいゝん湖月尼こげつに、秀吉の冥福を祈らんめ一大伽藍だいがらんを建立せんとし、そのかつ寺町てらまちに創建せし康徳寺こうとくじ(夫人が亡母ばうぼ朝日局あさひのつぼね追福ついふくの為めそのまへに建てしものなり)の地を以て岩栖院がんすいんと交換せしにて徳川幕府はため工役こうえきを興しおほひ伽藍がらん建営けんえいし、康徳寺こうとくじと併せ、改めて高台寺こうだいじと称し、建仁寺けんにんじ和尚わせうを以て中興の開山とす。

※ 「追福ついふく」は、亡くなった人の冥福を祈ること。
※ 「岩栖院がんすいん」は、室町幕府の管領を務めた細川満元の法名。現在も京都市上京区かみぎょうく岩栖院町がんすいんちょうとして名前が残ります。

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萩の名所として知られる高台寺ですが、この萩は、西行さいぎょう宮城野みやぎの(現在の宮城県仙台市の東部)から持ち帰ったというエピソードがあります。

江戸時代中期の『都名所圖會』に次のように書かれています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『都名所圖會 4巻 [2]

高台寺こうだいじ はぎの花
西行法師、宮城野みやぎのはぎ慈鎮ぢぢん和尚に奉りし。其萩今に残り侍りしを、草庵そうあんにうつしうへ侍し。花の頃、其国の人きたり侍しに
   つゆけさや やどもみやぎ野 はぎの花   宗祇
   小萩こはぎちれ ますほの小貝こがい こさかづき  はせを

宮城野萩みやぎのはぎ

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『畫本野山草 [4]

※ 「慈鎮ぢぢん和尚」は、天台宗の僧の慈圓じえん慈鎮じちん和尚。
※ 「はせを」は、芭蕉ばしょう

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秋風に揺れる萩の花

寛永元年旧暦九月六日、萩の花咲く季節におねは亡くなりました。
ちょうど399年前の今日(1624年10月17日)のことです。おねの遺骨は今も萩の花が美しい高台寺に眠っています。



※ 参照:国立国会図書館デジタルコレクション『日本社寺大観 寺院篇』『畫本野山草 [2](仙台萩)』

筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖