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父のことを顧みて思うこと

自己受容についての学びを深めるために、野口嘉則先生のYouTubeを観ている。

その中で、自己受容と他者受容は正比例すると仰られていた。

自分を受け入れられないと、他者のことも心で裁いたりしがちという。

本当にその通りだと思う。

そして、遺伝子が引き継がれていくように、自己受容度も家族の世代間でバトンタッチされていると思う。

私の父は社会的には成功者だった。地方公務員だった父は出世して、異動も新聞に載っていたし、新聞に写真入りでインタビュー記事も載ったり、キャリアの中盤からは運転手までついていた。

人間の総合的な見方が今よりも未熟で多面性を持ってない頃、社会的な成功という一面だけを見て、私は父が絶対的に偉いと信じていた。

その父は、実の母である私の祖母を絶縁して、実の弟2人とも絶縁し、私にも同じように絶縁状を7、8年前に送ってきた。

絶縁が趣味なのか、と可笑しくなるくらいの絶縁っぷりだ。

仕事では、論理的な思考と実行力で出世した父だったけど、一方で家族が自分の思い通りにいかないという当たり前のことに心底腹を立てて、自分の万能感を保つために自分だけを極端に正当化して、コントロール不可な相手は悪者にして、縁を切ったのだと思う。

私にもその傾向があるので、治していきたいと思っているうちに、この自己受容という概念に辿り着いた。

今の段階では、自己受容とは、自分の感じるあらゆる種類の感情や、成功した時の嬉しさのみならず、失敗した時の情けない気分、そして自分という多面的な人間を受け入れること、なのだと理解している。

言うのは簡単だけど、行うのは難しい。

幼児の万能感から抜け出せなかった人たちのことをナルシシストと呼ぶが、ナルシシズムが大きく残ってしまっているような未熟者には、自己受容は全人格が育たないと無理だろう。

オンライン心理学とかの3つのステップとか7つのステップとか1週間で改善とかそういうものではないと思うし、そういう魔法を求めるから人は騙されたり、無駄なお金を使ったりしてしまうんだと思う。

話を戻すと、父は自分の万能感に見合うように社会で成功するように人一倍努力できる人だった。

私もある程度までは父の万能感を手助けするような経歴だったから可愛がられていたけど、離婚やそれに伴うキャリアの停滞などで次第に理想の娘ではなくなって、とうとう絶縁状が届いたのだと理解している。

元々縁の薄い家族なのだから、わざわざ絶縁状など送らなくてもいいのに、7、8年前だったか、メールで敢えて送ってくるところが、厄介だと思う。

父を責める気持ちも未だに多少があるが、それよりも何よりも、自分にも「自己受容の低さ」という家族の負の遺産が受け継がれているのを認識して、それまでは憎んでいた父のことも、少し違った目で見られるようになって、今では父の対処法も仕方あるまい、とある程度は納得している。

それに、父の人生は父が決めることだ。私からは不幸に見えても、本人は美味しいものを食べたり好きなお酒を飲んだり、気の合う数人の人と(いれば)交流して、もしくは思想が一致した本なんかを静かに読んで幸せかもしれない。

そしてまた、愛とは何かを考えた時に、他者の存在と、自分の存在の自由を尊重すること、ありのまま見ることだとどこかで読んだが、自己受容、そして他者受容ができないということは、父はそもそも愛が欠如しているのだ。

人を愛せない人から愛情を得ようとしても無理というのはテレフォン人生相談なんかで耳にタコができるくらい聞いたけど、今となっては体感的に分かる。

そして私も他者を「(自分に都合のいい)こういう人物であって欲しい」という期待のレンズを通して判断して、実際の人物は見ず、いよいよ現実の姿を目の当たりにしたら幻滅して関係を断絶するという、人を愛せない一人だったのだ。

家族に腹が立つとかそういう段階を通り越して、家族一人一人が未熟者で、生きづらい状態でもがき苦しんでいたことを私のことも含めて憐れに思ってしまう。

あの家族に、あの人間理解力で、あの未熟さで、あのコミニュケーション能力で、あの社会的ストレスの重圧の中で、ありのままを認めて愛せと言っても、無理だったのだ。

家族が家族であるだけで無条件でファミリー全員を「愛せる」なんておとぎ話もいいとこだと今となっては思う。

家族でも、人間の成熟度によって、愛がない家族も普通にそこら辺にいるし、暴力や恐怖によってくっついている家族も、経済的な結びつきだけの家族もいる。

家族だから愛があって当たり前なのではない。一人一人の成熟度に見合って、家族が構成されて、特に親の自己受容度は子供に受け継がれがちだ。

核家族で大人のモデルが親だけだったら、親は自己受容できないのに、子供は自己受容できるってあり得るんだろうか。不可能に近いと思う。

だから一緒にいることでお互いが深く傷つくことが多い家族だっている。殺し合いになる家族だって現実にいるのだから。

そんな環境で「幸せになる」という決意をすることが、どれだけのものか、きっと厳しい環境で育った方には理解いただけると思う。

決してわがままで「幸せになりたい」とか、甘ったれた心持ちで言える言葉ではない。

それ以外の生き方では傷つきすぎるから、最終的に「自分を認めて愛すること、他者を認めて愛すること、そして幸せになること」にたどり着くんだと思う。

時間はかかっても、今後の自分の課題として一生かかってもいいから、取り組んでいこうと思っている。


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