見出し画像

3月11日の次の日とかその次の日のことも

「3.11」という日付が大々的に語られる一方で、私はどうしても、その翌日のことも、同じくらい強烈な日として未だに思い出す。

あの日、2011年3月11日(金)のことは、目の当たりにした誰もがきっとずっと覚えていて、これからも毎年ずっと思い出されたり語られたりするんだろう。その翌日、2011年3月12日(土)の話も、私はしたい。

震災の瞬間、私は池袋のジュンク堂書店の8階にいた。本が降ってきた。私の最初の震災の記憶は、床に上製本が散らばる光景だった。「踏んでも大丈夫ですから、気をつけて歩いて」と書店員さんの優しい声がしていた。

その後は都内の自宅まで数時間歩いて帰り、凄惨なニュースを夢中で見ているうちに翌朝になっていた。目や耳から入る報道に滅入りながら、なんだか家でじっとしていることもできず、とりあえず外の空気を吸うために散歩がてら、当時バイトをしていた一駅隣のパン屋に赴いた。

ほっとして驚いた。店は無事で、集まれるスタッフだけでパンを焼いて店を開けようとしていた。前日に仕込んだパンがちゃんとお客様に届くように。シフトには入ってなかったけど、私も着替えて店に立ち、いつもより少ないスタッフでこの3月12日を乗り越えた。

パンが焼けて店頭に準備が出来たら店を開ける、売り切れたら一旦閉める、を一日に何度も繰り返す。仕込んだ生地がなくなるまで。普通の人もたくさんいたけど、殺気立った人の列が途切れなくてちょっと怖さや変な緊張感でいっぱいだった。

「こんなときに営業してくれてありがとう」
「お宅は大丈夫?」

という不安を分かち合う声と、

「食パン無いんだけど!?」
「お姉さん!パン!」
「ねぇ!食パン!」

という謎の大声もたくさん浴びた。
言っとくけど私の名前は食パンじゃない。

ちなみに、街は全然壊れていなかった。後から聞いても、部屋では多少物が落ちたりしたけど、大事には至らなかった人がほとんど。強いて言えば電車が動いていなかったけど、計画停電の対象にもならなかった恵まれた地域である。ほかの店舗も割とすぐ営業再開していたと思う。

パンを買いに来てくれた人は、常連さんもいたけど、見慣れない人も多かった。不安定な気持ちの中、パンを買う日常の習慣を守っている人と、不安になると家中にパンを飾るタイプの人がいたんじゃないかな。お一人様7点までしか売ってあげられなかったけど。

不思議なのは、誰にもどこにも「営業します」なんて宣伝は一切してないのに、一時閉店の度にどこからともなく大行列ができたこと。みんなどこで知るんだろう。陳列棚の後ろの窓には人が何人も張り付いていて、下げたロールカーテンの隙間からジロジロジロジロこっちの様子を伺おうとしているちょっとしたホラー体験もした。みなさん普段もよその家とか店とかそうやって覗くんだろうか。

そして、翌3月13日(日)も同じような一日だった。

震災が起きたのは3月11日だけど、その後もしばらくずっと、毎日何かが起こっていた。次の12日も、その次の13日も。

この2020年3月12日(木)だってあの日の続きなんだから、
今日までずっと続いている人も絶対いる。

あれから9年が経ったわけだけど、3.11という日付を大々的に報じられる度、3.12や3.13やその先ひとつひとつの日々にあったはずの事件、誰かにとって特別な出来事の存在に、勝手に想いを馳せてしまう。

つい、すべて3.11の記憶として包括されがちだけど、毎日別の日を積み重ねてここまで生きてきたこと、ちゃんと語れるように覚えていたい。

久しぶりにパン屋さんの焼きたての食パン食べたいなあ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?