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接岸したままの巨大船 ~ 語りえない「全体」

ダイヤモンド・プリンセス号という、改めて見直すと怖いほどきらびやかな名を冠された船で、今日現在に至って何が起きているのか。

豪奢な巨大ホテルを横たえてそのまま海に浮かべたような客船とそこでの災禍を想像するとき、かつて日本でも多くの読者を獲得したA・ケストラー『ホロン革命』の

「全体は部分の総和以上であり、全体の属性は部分の属性より複雑である」

という有名な言説を思い出す。

各客室で起きていた病苦や心痛、各乗客乗員のみなさんの終わりの見えない暗闘や疑心、焦燥は私ごときに察するに余りある。
しかしこの巨大な事件を衆知を集めて理解しようと努める時、『客室という部分』の膨大な総和としての『超巨大客船』、という認識は全体を大きく見誤るように思えてならない。

なぜなら、部分の総和が全体ではないから。
例えば余さずパーツに腑分けされた私を組み直せても、たちまち私がほら元通り、にはならないように。
全体とは部分の総和以上であるから。
ダイヤモンド・プリンセス号という全体は客室の総和ではなく、ダイヤモンド・プリンセス号の属性は、客室やホールや通路の属性よりきっと複雑なのだ。

そしてそれとは別に思うのは、特定の人たち以外の各界の人々が、この事件を積極的に言論しないという不思議だ。

黙して語らず、という姿勢がこの相互監視社会での最上のリスクヘッジだとしても、きっと今後も起き得る亜パンデミックへの貴重な経験知を集積すべきだ。
(失言がないか監視し合うことだけが、この目や耳の役割というわけでもあるまいに。SNSやマスコミが、ただ自縄自縛のためだけの装置なわけでもなかろうに)

今回の『全体』を、重層的に複眼的に様々なポジションからそれぞれの言葉で語ることが、ミスリードに必ず繋がるのだろうか。
どの角度からの発言であれ、死者への冒涜、遺族への不敬、他者への想像力の欠如に繋がるのだろうか。

待望される各界の人々からの積極的な言論とは、もちろん感染症研究者やウイルス学者や最前線での医療従事者というエキスパートと任ぜられる方の見方や考えであり。
また各界在野に位置する方の市井の視座からの見え方である。

感染症研究者や疫病学者のみならず、たとえば歴史学者や生物学者や海洋生物学者や物理学者や天文学者や文学者等の知見からは、どのような視点で語られるのか。
家事代行業者や抽象画家や公共施設管理業者や寿司職人やスポーツ指導者なら、それぞれのキャリアの観点からどう捉えるのか。

例えば司馬遼太郎が生きていれば、在野の歴史学者、或いは文学者として、きっとこの事件について発言している。
もし岡本太郎が生きていれば、芸術家として思いもよらない視点からこの事件について発言している。
もし今西錦司が生きていれば、霊長類学者としての視座からこの事件について発言している。
赤尾敏が生きていれば民族主義者として数寄屋橋の交差点から発言しているし、手塚治虫も稀代の天才漫画家としてまず発言しているだろう。

彼らの生前くらいのほんの少し前には、大事件のたびに各フィールドから独自で体系的で斬新な言論が活発に起こり、集合知となっていった。人々が『全体』を理解する大いなるよすがとなっていた。

SNSの誕生で、いわば点描画の点の数は飛躍的に増えた。
それは人類史的に見ても、まったく前例のない素晴らしい出来事だと思う。
しかし、その点描画は事象を理解する援けになる絵とはならない。
抽象的で流動的で不定形な蚊柱のごとき点描画は、ビックデータとして処理されないときっと理解できない。


さてもさても、停泊する巨大船を誰も『全体』としては語りえないまま、この国の港からの離岸をただ見送ることになるのだろうか。



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