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弱者であるという認識の危うさについて。

朝から衝撃的なニュースが飛び込んできました。
川崎の事件です。私は一仕事終えて、そろそろ寝ようと思っていた頃だったのですが、睡眠を延期してしばらく報道を追いかけていました。
まずは今回被害に遭われて亡くなられた方のご冥福をお祈りし、怪我をされた方、被害者のご家族の皆様へお見舞い申し上げます。

この事件を受けて、藤田孝典さんが素早くこのような記事を出されました。

本当に、こういう事件のときには、世の中全体に広がる感覚が特徴的に見られることが多いです。
多くの犠牲者を出すのはもってのほかではありますが、「一人で死ぬ」ことを容認する社会であってもならない、ということを私たちは肝に銘じておかなければならないと思います。

東野圭吾さんの小説に『手紙』という作品があります。映画化、ドラマ化、舞台化もされた人気作品で、映像などで見たという方もいるかと思います。
犯罪加害者として服役中の兄を持つ主人公が、差別を受けながら必死に生きて行くという物語です。

今回の事件の背景はまだわかっていませんが、このような殺傷事件の加害者は、藤田さんのおっしゃるとおり、社会から見捨てられたと感じていて、社会への恨みをつのらせているケースが多いと思います。この「被害者感覚」「弱者感覚」というものは、人間の心をとても蝕むものだと思います。
『手紙』の中でも、もちろん加害者親族として実際に差別をされる場面はあるのですが、主人公はそうした経験によってより強固に「自分は社会的弱者だ」と意識するようになり、自ら社会に対して壁を作ろうとする心理が見られます。理解しよう、寄り添おうとする人を避けるのです。
そうして自ら孤立の道を突き進み続ける。さらに状況は悪化し、恨みがつのっていく。負のスパイラルです。このようなことは、児童虐待事件にもよく見られる構造です。

社会には、実際に差別的なことや冷たいことを言う人もいれば、そうではなく寄り添おうとする人もいます。行政も苦しい立場に置かれている人を「見捨てよう」と思っているわけではありませんし、さまざまな支援策を用意しています。社会に関わり続けていれば、嫌な思いをしてもどこかで救われる道はあると信じたいです。が、それを信じられなくなってしまう人がいるわけですね。
なぜならば、弱った心には、冷たいひと言、冷たい態度ひとつが大きな棘のように刺さって抜けなくなり、「自分は弱者である。そして誰も助けてくれない」という思い込みの闇にどんどん落ちていってしまうからです。
そういう人に対してどうするのか、そういうふうにならないためにどうするのか、私たちは考え続けていかなくてはなりません。

実は、無料塾とか子ども食堂とか、貧困支援などを“やっている”人にも、ちょっとその傾向があるように最近私は感じています。
自分自身を振り返ってみてもそうです。
活動をしていく中で、行政とか社会とかを、「自分とは逆側にあるもの」という感覚で見てしまい、こういう活動をしていない人や興味を持たない人のことを「自分とは違う人」と思ってしまう、そんな気持ちがちらっと芽生えてしまう。そういうことがあるんです。
これはあまりよくないことだと思います。
なぜなら、「自分とは違うところにいる人」「自分は社会とは反対のところにいる」という感覚を持っていることも、差別や格差という意識を拡大することにつながるような気がするからです。
「こんなに頑張ってるのに理解してもらえない」
みたいな気持ちが少しでも生まれたら、すぐさま反省する必要があると思います。理解してもらおうと、努力をしたのかと自問自答したいところです。

今日はこのへんで、ルノアールが閉店になるので……おしまいにしておきます。引き続き考えていきたいと思います。

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