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弱くて強い私たちが、つい持ってしまう分断意識について。

先日の記事の続きを書きます。
「弱者であるという認識の危うさについて」ということで、貧困や虐待などの支援者側もときには視野が偏ってきてしまい、危ないことがあるということを書きました。
(ちなみに、「支援者」とか「支援」という言葉も本当は避けたいと思っています。便宜上使いますけど、そういう意識を持ちたくはないと思っています)

「自分とは違うところにいる人」「自分は社会とは反対のところにいる」という感覚を持っていることも、差別や格差という意識を拡大することにつながるような気がする

自分は弱い立場の人の気持ちやなぜそうなったかや、どうしたらそうならないかはわかっているけれど、社会に生きるみんながわかってくれないから思うようにならない。こんなふうな思いが強くなり、かつ「何もしてあげられていなくてごめんね」という思いも強くなってきてしまうことが、あるんです。これが行きすぎてしまうと、「社会に生きてる大勢の人たちは自分とは違って、みんな間違ってる!」みたいに自分と社会を分断してしまうんですね。こういう支援に関わっていなくて、背景がわからないからちょっと不用意な発言をしてしまった人に対して、見下すような気持ちになってしまう。

これ、分断を生みますよね。
弱者側に寄り添う自分と、強者側の何もわかっちゃいない社会のみなさん、というふうに世界をあっちとこっちに分けてしまう考え方そのものが、分断の考え方です。

と言っても、「みんなもっとこんなふうに考えてくれたらいいのになぁ」「ここに目を向けてくれたら、解決につながるかもしれないのに」という思いは、現場で関わっているからこそ見えてきて、それを発信することは意義があることだと思います。
ただそこで、「みんなわかってない!」と批判するような姿勢になってしまわないことが大事かなと思います。だって、自分だって他の分野では専門家が聞いたらトンチンカンなことを言ってることはあると思うんですけど、そのことについて批判されたらイヤだもの。。。

たとえば今回の川崎の事件を受けて、いろんな人たちの反応を見て「ちがうなぁ」って思ったとしても、それに対して「絶望的だ」とか「これだから何も変わらないんだ」といったような言葉をなるべく使わないようにしたいなぁと思います。……と言っても使っちゃうんですよねーつい。よくない。反省しよう。

でも、マスメディア側となると話は別です。メディア側の人間は、どのようにその事象をとらえてどのように書くか、考えるのが仕事です。レッテルを貼らない、分断を招かないような記事になっていないかどうか、たとえこうした事件が起こる背景に詳しくない(専門的に追ってきていない)記者さんだとしても、報道する前にしっかり想像力を働かせて考えるべきです。これについては、「こういう記事はちょっとな」と思うものがいくつかありました。テレビのワイドショーやニュース番組でも同様に。

私は今まで、ニュース的なものは週刊誌や夕刊紙、ときどき月刊誌でも手がけてきましたけど、ひとつの編集部にいたとしてもずっと同じテーマを掘り下げて書けるわけではなく、いろんなテーマのことを扱うので、どうしても専門的にひとつのことを追いかけて掘り下げるのは難しいという現実がありました。新しいテーマに挑むたびに、時間の許す限り下調べをしたり、あれこれ考えを巡らせたりはするんですけど、どれも〆切というのがありまして、数日で専門家のような情報を頭に入れることは難しいし、どういう考え方でその物事を見ればいいのかというのもわからないまま取材に向かうこともあります。取材のときに「もっと調べておけば良かった」と思うこともしばしばです。時間との戦いの中、もっとできることがあったんじゃないかと思うことはたくさんあります。
でもそれでも、「これを書いたらどういう人が傷つくか」ということにおいては、どんなテーマでも常に考えておかなきゃいけないだろうなと思います。
記者も人間であり、人間は誰しも自分が思いも寄らないところで他人を傷つけてしまうことがあると思いますが、それでも、その記事によってさまざまな立場の人がどう感じるかというのは最大限に想像力を働かせるべきだと思います。
自分がそれができているかといったら、たぶんできてないので、常に反省しながら頑張っていこうと思います。

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