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美しさ・きれいってなんだろう?

1.美しさを考えるきっかけ(主役級の美しさのない俺はどうしたら)

ウエディングドレスの試着で装う機会が増え、文字にするとおこがましいが、主役になる機会がやってきた。

30代の大人になってから参列した友人の結婚式や、自分の挙式準備を通して、結婚式の主役は新郎新婦ではなく両親や家族だとわかってきて、見た目は文字通り”主役”にしてもらえるのだが、それはみんなが来てくれるから成り立つことであって、実際にはお世話になった人にお礼をしてもてなす機会だなと感じている。

とはいえ、パッと見で”新郎新婦”と分かるし、打ち合わせ当日に、一足先に本番を迎えている人に立ち会えば、”きれいだな”と思うし、”きれいですね!”と伝えたくなるものだ。いい気分になってほしいもの。

もちろん、結婚式じゃなくたって、自分の人生の主役はいつも”自分”なのだけど、そう堂々と宣言できる自信も経験もない。

この世に自分1人なら主役は自分だけれど、複数人いる関係性では私は脇役タイプだし、外見は”見ないでください”という苦手分野だ。

でも、自分なりに綺麗になりたいし、美しく在りたい。

私にとって、”綺麗”は見た目のことで、”美しさ”は内面や在り方・哲学など必ずしも外見の造形ではないものに対して感じることが多い。

作家さんの作った器は”きれい”より”美しい”、それが土だったら”美しい”、ガラスだったらやっぱり”光の反射がきれい”…結局どっちなんだよ?だけど、”きれい”はちょっだけ世間の価値観とMIXされている。

”美しい”は、自分だけが美しいと思うものも内包してくれるような包容力があるけれど、”きれい”はある程度”権力”と同じで傍から見てわかる説得力がないと形容できない気がしている。

だから、自分を”きれい”っていうのは難しいけれど、”うつくしい”の方が使いやすい気がしている。
でもこれもまた世間と逆で、世間は美しいの方がハードルが高く設定されているような気がする。地位財が好きだったりミーハーだったり、比較や競争が好きな人達の中では特に。

なのでこんなことを書けるのはnoteだけで、そうじゃないと”不遜な奴”として誤解されてしまいそうだ。

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2.コンプレックスの裏返し
(きれいが比較や競争の中にあるとしても自分だけのうつくしさを見出すことはできるはずだ)


”きれい””うつくしい”にはとてもコンプレックスがって、すごく悩んできた。今だって悩んでいる。逆立ちしても自分にはない”きれい”や”美しさ”を求めて、鏡の前でがっかりすることもある。

だけど、私の美しさって別に外見で決まるものではないんだな、と思うようになったし、それより”感じのいい人になりたい”とか、”素の表情が不貞腐れたように見えるのをなんとかしたいな””健康そうで生命力のあるきらきらした感じになりたいな”など、違う目標ができてきた。

多分、肌や体形や造形の美しさと自分の価値は関係ない、ということがやっと腑に落ちたからかも、と思う。
私が整形しないのは、自分の顔を少しいじったとて、私は私のままで変わらず、きっと私が変えたい部分は整形をしたところで変えられない、と分かっているからだ。痛みに弱いし怖いというのもあるけれど。

なんで変わってきたのかと言えば、”世間にはいろんな価値観がある”ということを実際に体験して、それが積み重なってきたからだと思う。

ちょっと前までは、頭では分かっていても、金太郎あめ(固有名詞だとは知らなかった)のように同じ価値観を持つ集団を移ろっていて、「Aグループは出たけど、BグループもまたAと同じ価値観なのだな。8グループの人は楽しそうだけど、私が今8に行っても何もないのが分かってしまうだろうな。」とがっかりして同じとこをぐるぐる回っていた。

それは結局、私自身がAグループの価値観を踏襲し、そこから世間や自分や周りの人を見ていたからなのだと思う。

今より若くて痩せてて肌だって不得意分野とはいえ悩みはまだ少なかった頃、自分にとって厳しい言葉を言う人や課題を出してくる人を正だと思っていた。いくら課題をクリアしても、「あなたの課題は他にある」とコロコロ覆されたり、次の課題が出されるということになり、コントールされている気もしたし、とにかく価値観が1コで、自分が絶対に認めてもらえない出来レースに無理やり出場させられていたのが、とてもしんどかった。

そこから出るまでに、色んな事をやったのだけれど、一番効果があったのは、一般論ですませずに、私が何を思っているのか、自分の”気持ち”を自分で受け止める、という経験だったと思う。
それは、嬉しいことも楽しいことも怒りが湧いて生きたことも、悲しかったり寂しかったことも含む。

全部を自分で受け止めると、”世の中ってこういうものだよね”に隠れた自分の傷ついた気持ちや本音が必ず出てくる。
それを恥ずかしいと思わずに、「いや~傷ついたよね!」と受け止められるようになった。そうすると、「こんなことでいちいち傷ついていられない」⇒再び立ち向かう、から、「こんな悲しいことがあったんだもん、傷ついたわ」⇒「無理に傷つきに行かなくてももっと楽しい時間を過ごそう」とみるべきところが全く変わったのだった。

少し前の私ならそれを「逃げ」と捉えていたし、周りの人もそういう人が多かったのだけれど、そういう思考だったから、「あなたのそれってDVやモラハラ被害者と同じだよ」と言われ、「はっ」とした。
まだ例えば、あたりのキツイ友人などを完全には断ち切ってないけれど、自分の中で「大事かそうでないか」がはっきりすると、目には見えない心の距離がぴょーんと離れていき、「こんなもんだな」と少しだけ折り合いをつけられるようになった。少しだけ寂しいけれど、ウェットな関係が良い物でドライな関係が悪い物、というわけでは全然ない。ウェットだろうがドライだろうが親しき中にも礼儀ありと言い訳魔人として自分の心の境界線を守る。

・・・

3.自分なりの美しさを考えるためのインプット

こんなことをつらつらと考えながら、美容本やインスタもこまごまチェックしているのだけど、そこに比較はないので楽しい。

そして、今の気分にとてもフィットしたのはこれ。

よしもとみなさんのyoutube

7月19日時点で最新の回「面長・色黒・奥二重による毎日メイク」にある
「小顔メイク、面長解消メイク、中顔面短縮メイク、コンプレックスを解消できる魔法のような技術や言葉は、誰かの心を救う素晴らしいものであると同時に、誰かのコンプレックスを新たに生み出すことにもつながっているのかもしれません。私はまさに後者のタイプでした。」

yoshimoto.minaさんのインスタグラムより

同じこと、思ってた~!!!と首がもげるくらいうなずいた。

ここからはよしもとさんではなく、私の脳内ひろゆきが思っていたことなのだが、たしかに「解消できるメイク」を教えてくれるんだから、ただ「面長だね」と好き勝手言われるよりはいいんだけど、アイドルになって大多数の支持を得たいとかじゃなく、ただ自分の人生をまっすぐ歩いていくのに、デフォルトで備わっている顔の形をあーだこーだ言われてもね…そんなこと私にとって重要ではないんだ(けど、だめなものとしてレッテルを貼られると、その行為や価値観には傷つく)と常々葛藤していた。脳内ひろゆき(口に出ちゃったけど)終わり。

よしもとさんは、「面長・色黒・奥二重による毎日メイク」の回で、「今は自然なメイクが気分」というようなことをおっしゃっていて、UNMIXをいくつか使っておられるのですが、たしかに今気分かも!UNMIXがある!と思った。

自分に自信があるから薄付メイクとか歪曲されると悲しいのだが、もっとさりげなくて自然でありのままの自分の延長線上にあるメイクにしたっていいじゃん!と思っていた。

それに色々哲学・憧れ・自分の中のエピソードを盛り込んだおシャネル先生も好きなのだが、もっとカジュアルで意図的じゃなくて(UNMIXだって意図的と言えばかなり意図的だが)透ける口紅が欲しかった。

というわけで今度のお給料がでたらUNMIXを買いたい。

私の中の美しさはまだまだ”なりたい””在りたい”を集めている途中なので、今はnoteに深い話ができるまでは自問自答が進んでない。
PDCAのPlan考え中。


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