涙の花が咲く夜に

「ずっと、一緒だよ。おじいちゃんになっても、おばあちゃんになっても、ずーっと。梨花ちゃんは僕と結婚するんだ」

「うん!梨花、修ちゃんとずっと一緒にいる!」

「絶対だよ?20年後、絶対結婚しようね」

まだ幼稚園の頃。
幼なじみの修ちゃんと交わした、小さな約束。
修ちゃんのお父さんの転勤で、明日には引っ越してしまうという残暑厳しい九月半ばに、ふたりで家出をしてママたちのことを困らせたっけ。

お遊戯会で着た、お姫様みたいな白いドレスと、王子様みたいな、紺色のタキシード。頭にはママが作ってくれたキラキラのティアラをして。

まだ幼稚園の私と修ちゃんには、家出といってもいつもの公園しか行く場所はなくて、静かに落ちて行く朱い夕日を、ジャングルジムの上から眺めて誓った、子供なりの結婚の約束。

すぐにママたちに連れ戻された私たちは、あれ以来20年。
一度も会っていない。


◇◇◇◇◇

女も25歳になれば、それなりに結婚に向けて煩くなっていく周囲の雑音。

友達の幸せな知らせは嬉しい。だけど、何かが満たされない。

新しい恋を見つけても。
いくつ恋を重ねても。
どこかで何かが違うという、満たされない想いをずっと感じてた。

「……どうした、梨花?さっきから浮かない顔して」

「……なんでもないわ。それより、もう終電の時間じゃない?」

篠原さんの唇から、まだ火をつけたばかりの煙草を奪って、灰皿に押し付ける。
その瞬間、再び奪われた唇に、与えられたのは煙草の味の口づけ。

「……言ってなかったか?今日は帰らなくていいんだ」

そのまま覆い被さってきた篠原さんの腕の中を、私ははするりとすり抜けた。

ベッドから降りようとすると、後ろからきつく抱きしめられる。

「なんで今夜はそんなに機嫌悪いんだ?」

「……悪くなんてないわ。でも、私は泊まる気もないし、帰らなくていいなら、一人で泊まってよ」

家庭のある篠原さんと過ごす時間は、いつも限られているけど、この関係を始めたときに、自分に立てた誓いは、どんなことがあっても、絶対に破らない。

一緒には過ごせない夜を、一緒に過ごしてしまったら、きっと、もっと欲しくなるから、絶対にふたりで朝を迎えない。

不服そうな篠原さんを差し置いて、先にバスルームに逃げ込む。
熱いシャワーで、汗も愛された痕跡も流しさって、綺麗な身体になれればいいのに。

私のものには絶対ならないくせに、まるで所有物であることを強調したかのように付けられたキスマーク。
止めてとお願いしても、いつも止めてはくれなくて、いつの間にか受け入れるようになってしまった跡。

消えてゆくのが苦しくて、消えてしまう前にまた会いたくなってしまう。

どんなに強がってみせても、私は篠原さんと別れる覚悟なんてできなくて、続いていく不毛な関係は、光の見えない、終わらない恋。

「梨花!待てよ、梨花ってば!」

ひと足先にホテルを出た私を、慌てて追いかけてきた篠原さんに、肩をガシッと掴まれる。

そのまま引き寄せられて、人通りのほとんどなくなった夜中とはいえ、道の真ん中で奪われた唇。

抵抗の言葉を吐き出すことも許されず。
抵抗の意を込めて胸板を叩いてみせても、その手首までも封じ込められた。

「……今日はどうしても梨花と一緒に過ごしたくて、嘘まで吐いてきたんだ。何をそんなに意地になってる?今日の梨花、ずっと変だぞ?」

意地になんてなってないけれど。
嘘を吐いてもらわなきゃ、一緒にいることが許されないなんて、やっぱり間違ってる。

「一緒にいてほしいなんて、頼んでないわ。私の気持ちも知らないで、勝手なことばかり言わないで!」

できるなら、私だって一度くらいはあなたと朝を迎えたいよ。
でも一度迎えてしまったら、人はもっと欲張りになってしまう。
あなたを、手に入れたくなってしまうから。

「……明日、梨花の誕生日だろ?俺はこれからも梨花には何もしてやれないから、梨花の誕生日くらい、一番最初に祝わせてくれ……」

掴まれた手から、伝わる熱。
自分の誕生日だなんて、すっかり忘れてた。

その瞬間に過ぎったのは、私の誕生日を、一緒に祝うことのできなかった、あの日の修ちゃんの笑顔だった。

「……ゴメン、篠原さん。私、やっぱりあなたとは一緒にいられない」

「梨花?」

「……約束、したから。修ちゃんと、20年後に結婚しようって……」

子供の頃の約束なんて、戯言に過ぎないのに。
馬鹿げてると言われても、私は信じたいんだ。
修ちゃんとの約束を。



◇◇◇◇◇

どこで何をしてるのかさえわからない修ちゃんに、会える保障なんて、限りなくゼロに近い。
それなのに、終電に乗って、ふたりが誓いを立てたあの公園へと急ぐ。

修ちゃんがいなくなってからしばらくは、毎日このジャングルジムの上にのぼって、修ちゃんと一緒に見た朱い夕焼け空をしばらく眺めていたっけ。

目を閉じて、修ちゃんのことを思ってた。
朱い空が深い闇に覆われていくまで、ジャングルジムのてっぺんで修ちゃんのことを待ち続けてた。

あの朱い空は希望で、深い闇は絶望だった。
絶望の後はいつも、淋しくて涙が頬を伝って溢れてた。

いつからか、この公園に来ることもなくなって、そのうちに好きな人ができて、彼氏と呼べる人もできた。

ぽっかりと空いた心の中の穴は、修ちゃんのことをいつの間にか忘れてしまっていたからできたもの、心の抵抗からできたものかもしれない。

修ちゃんの笑顔を思い出して、急に熱くなっていく身体。

そこに修ちゃんがいるわけなんてないのに、淡い期待を抱いてしまう。
でも、ジャングルジムにはやっぱり誰の姿もなくて、胸がギュッと締め付けられた。

あの頃は、山の頂上のように空に近い場所だったのに、随分と小さくなってしまったかのように感じられるジャングルジム。

あっけなく辿り着いたジャングルジムのてっぺんは、いつも見上げている空より、ほんの少し高いだけだった。

「……か?」

微かに聞こえてきた誰かの声に、ビクンと反応する。

あのころは、絶望しか感じられなかった、真っ暗な公園。
唯一灯る街灯だけでは、不安な気持ちを拭い去れなかった。

「梨花、梨花だろ?」

確かに呼ばれた私の名前。
聞き覚えのない声の持ち主の顔は、ここからではほとんど確認できなかった。

三回ほどで、ジャングルジムをのぼってきた男の人は、私の顔を確認すると、懐かしい笑顔を向けてくれた。

「やっぱり梨花だ」

「……もしかして、修ちゃん?」

奇跡みたいなことが起きた瞬間。
腕時計を私の前に差し出した修ちゃんは、「3、2、1……」とカウントダウンを始めた。

「梨花、お誕生日おめでとう。結婚しようか?」

真顔の修ちゃんに、まっすぐに見つめられる。

今、なんて?

「あれ、忘れちゃった?20年前の約束」

嘘……。
修ちゃんも、覚えててくれたの?

聞きたいことはたくさんあるのに、言葉が何一つ出てこない。

「まぁ、忘れても無理はないか。でも、」

修ちゃんは私の手をそっと握りしめた。

「……でも?」

やっと出てきた声が震える。

「とりあえず、埋めようか?20年分の空白」

驚くほど自然にこくんと頷くと、修ちゃんの指が、優しく私の頬に伝った涙を拭ってくれた。

そっと修ちゃんの肩に頭を預ける。

私たちはもう、子どもじゃない。
朱い空が希望を感じさせるだけの色じゃないことも知っているし、その後にやってくる闇が、絶望を知らせるだけの色ではないことも知っている。

どんな色の空だって、修ちゃんと見る空はいつも綺麗だった。
修ちゃんの隣で流す涙は、とても温かかった。


fin

ヘッダーのイラストはKojiさんよりおかりしています。


いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。