雪の涙が降る前に
窓の外を見ていた。
部屋の中は、冬になれば暖かく、夏になれば涼しく過ごすことができるのに、冬になれば冷たい空気を肌で感じたかったし、夏になれば太陽の下で、汗をかきたいと思っていた。
「真紀、起きてたの?」
「あ、うん」
翔平は、部屋の中に入ってくると、私の隣に腰をおろした。
翔平と私は、5年前に駆け落ちをした。
それからずっと、この小さな部屋で、ふたりひっそりと身を潜めて生きている。
名前も友達も、そして家も、すべて捨てた私たちに、唯一まだ捨てるものがあるとすれば、それはお互いの存在だけだった。
それくらい、ふたりには何もなかった。
この5年間、翔平はずっと私の隣にいて、よくふたりでここから窓の外を眺めてた。
外を堂々と歩きたい。
何度そう思ったことだろう。
5年も経てば、両親も諦めているかもしれない。今度こそ、翔平との結婚を許してくれるかもしれない。
だけど、私にはその確信が持てずにいた。
ここは、小さな漁師町。
この町では、私と翔平のことを詮索するような人はいなかった。
小さなスーツケースとボストンバッグひとつずつで、たどり着いたこの町で、一番最初に出会ったのが、この部屋を貸してくれた三浦さんだった。
ご夫婦で、市場の中で食堂を営んでいる三浦さん。
三浦さんの紹介で、翔平は今、市場で仕事をしていた。
真冬の海は、風がとても冷たい。
だけど、そんなことを感じさせないくらい、この町の人たちは優しかった。
訳ありの私たちを、何も言わず受け入れてくれている。
それなのに、本当の名前を言えないことが、時々とても辛くなる。
だから私は、基本的にこの部屋を出ることはない。
ただこの窓から、静かに外を眺めているだけだ。
翔平が帰ってくるのを待っているだけの日々。
暖かな春の日差しが入り込むと、外に咲くたくさんの美しい花々を思い浮かべる。
肌を突き刺すような強い日差しを感じると、鮮やかな海の色を想像する。
寂しさを感じさせる朱の空を見ると、銀杏並木を翔平と手を繋いで歩いた日々を、懐かしく思い出す。
冷たい雪の降る空を見ると、翔平に抱きしめてもらいたくなる。
「真紀、たまには外を歩かないか?」
翔平の申し出は、とても嬉しかった。
外を歩きたいと思う心は、日に日に大きくなるばかりで、抑えれば抑えるほど、自分の存在ごと、いつか壊してしまいそうだと感じていた。
「でも、」
「真紀を連れて行きたい場所があるんだ」
翔平の手が、私の手をしっかりと握る。ここへ逃げてきたときのように。
◇◇◇◇◇
翔平が連れてきてくれた場所は、海辺にあるカフェだった。
外へ出たのは、いつぶりだろう。
波の音だけが静かに聴こえてくる。
その音を聴いているだけで、夏がくるのを待ち遠しいと感じるから不思議だ。
久しぶりに感じた潮の香り。
あまり広くない店内には、ふたりの先客がいる。
翔平はなぜか、その先客の方に向かって歩いていくと、ふたりの前で立ち止まった。
そのふたりは、私の両親だった。
持っていた鞄を、ドスンと床に落として、その場に座り込む。
5年ぶりの両親の姿を見たら、それだけで涙が出た。
翔平はそんな私の手を、ずっと握っていてくれた。
「真紀の両親の祝福がなければ、俺たちが幸せになれるわけないよな」
翔平はそう言って、両親に向かって、深々と頭をさげる。
「翔平くんは毎週家に来てくれてたんだ。真紀との結婚を許して欲しいと」
たった5年前のこと。あんなに結婚は許さないと、反対していたはずの父。
それなのに、今の父の表情はとても優しく、その背中は小さく感じられた。
毎週、通ってたの?
言われてみれば、毎週金曜日はいつも帰りが遅かった翔平。
「当たり前だろ。滅多に部屋から出ようとしない真紀にしてしまったのは、すべて俺のせいだ」
「ううん、それは違うの」
ただ、翔平の隣にいられればそれでよかった。
心が少しずつ壊れていくのを感じながら、それでもいいんだと、言い聞かせようとしていた。
「俺はいつも思ってた。あの窓から外を眺める真紀のこと、いつかちゃんとふたり一緒に外を歩いて、四季折々の季節を、感じさせてやりたいって思ってたんだ」
今にも雪が降り出しそうな、そんな寂しさを感じる空を見上げた。
父は私の肩をポンと叩き、母は優しく私を抱きしめてくれた。
「真紀、素敵な人を見つけたね、あなたにたったひとりの、素敵な人を」
母の言葉が、胸に沁み入るように入ってくる。
その言葉は、私の涙腺を簡単に壊した。私の壊れてしまいそうだった、心の代わりに。
fin
Kojiちゃんの名付け親企画に参加しています。
いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。